記録03 贖罪の方程式
依頼主であるシェーネの元へ。
白い粉がもたらすものは何か?
*改稿版 記録03です。
以前に投稿したものは
星屑の源に保存しています。
興味があれば是非手に取ってみてください。
ルードゥスの衛星クストー。その裏側には、恒星の光から切り離された巨大な影が横たわっていた。惑星から漏れる光さえほとんど届かない宙域を、一隻の小型艇が音もなく進んでいる。
ケイの愛機――アマデウス。
漆黒の機体には光学迷彩が展開され、周囲の暗闇を精密に模倣すると同時に、船体から漏れる熱や電磁波も極限まで抑え込まれていた。遠目には星々の隙間に紛れた虚空と見分けがつかず、そこに宇宙船が存在していることさえ悟らせない。
操縦席では、ケイが正面に浮かぶ座標情報を確認していた。
指定された地点にはすでに到達している。だが、そこには艦影も航行灯も、目立った熱源反応すら存在せず、クストーの巨大な影だけがどこまでも静かに広がっていた。
それでもケイは迷うことなく通信回線を開く。
「ヴェルヴェット号、応答しろ。オレだ」
わずかな沈黙の後、通信機から聞き慣れた声が返ってきた。
「識別コード確認。開口します」
アイの声と同時に、何もなかった暗闇へ細い光が走った。
初めは、虚空そのものに亀裂が入ったように見えた。一本だった光はゆっくりと左右へ広がり、その背後にあった星々が不自然に歪んでいく。やがて周囲の闇を映していた迷彩が解除されるにつれ、そこには存在しなかったはずの巨大な艦影が輪郭を取り戻していった。
無骨な装甲には無数の傷が刻まれ、補修された外板の色すら揃っていない。最新鋭艦のような洗練とは程遠く、長い航海のたびに壊れ、継ぎ足し、それでも飛び続けてきたことを隠そうともしない旧型の中型艦。
――ヴェルヴェット号。
傷だらけのその船は、まるで宇宙そのものから吐き出された漂流者のように、クストーの影へ身を潜めていた。
アマデウスが船体下部へ回り込むと、格納区画から伸びた重力フックが機体を捉えた。船体へ小さな振動が伝わり、ゆっくりと内部へ引き込まれていく。背後で巨大な外部ハッチが閉じ、気密処理が完了したのを確認すると、ケイはようやく操縦席を立った。
機体を降りた彼を待っていたのは、ハットを目深に被った一人の男だった。
「おかえり、坊や」
鳥人属の男、バードマンが、ハットの鍔を指で持ち上げる。
丸いレンズの奥で目を細め、長い嘴を小さく鳴らした。使い込まれた外套の背では大きな翼が窮屈そうに折り畳まれ、その姿には長旅の疲れというより、すでにそれを日常として受け入れてしまった者の気楽さがあった。
「またずいぶんとしけた顔してんな。せっかく華やかな街まで行ったってのに、女の一人も引っかけてこなかったのか?」
「仕事だ」
「知ってるよ。だから言ってんだ」
ケイは相手にせず、その横を通り過ぎようとした。
「ケーイ!」
奥から響いた声に、ケイの眉が露骨に動く。
小さな影が床を蹴り、金色のツインテールが大きく跳ねた。淡い桃色の肌が照明の下を横切ったかと思うと、そのまま勢いを殺さずケイの胸元へ飛び込んでくる。
魚人属のシークレット・オースティンだった。
「おっそーい! 待ってたぞ!」
細い両腕がケイの腰へ回る。
「……離れろ」
「やだ」
即答だった。
ケイは彼女の腕を掴み、無理やり引き剥がそうとするが、動かない。華奢な外見からは想像しづらい力でしっかりと抱きついたまま、シークレットは悪びれもせず楽しそうに笑っている。
「お前な……」
「へへっ」
「笑ってないで離れろ」
「じゃあ、次からもっと早く帰ってきて」
「オレはお前の保護者じゃない」
「知ってるよ?」
ようやく腕を解いたシークレットは軽やかに後ろへ跳び、そのまま何でもないことのように笑った。
「でも、あたしはケイのこと大好きだから!」
ケイは返事をせず、代わりに深い溜息を落とした。その横では、バードマンが堪えきれず喉を鳴らしている。
「モテる男はつれぇな、坊や」
「黙れ」
「ほっほっほ。若い者は元気でよろしいのぉ」
少し離れた場所では、妖精属耳長種の老人――DDが椅子へ腰掛け、湯気の立つ飲み物をゆっくりと口へ運んでいた。騒がしい三人を眺めるその表情は穏やかで、どこか懐かしいものでも見ているようだった。
だが、その空気を切り裂くように、硬質な音が船内へ響いた。
ヒールが床を叩く音だった。一度、二度と近づいてくるだけで、シークレットが口を閉じ、バードマンも嘴を鳴らすのをやめる。
「……さて」
赤いベリーショートの髪を指先でかき上げながら、シェーネ・フラウが姿を現した。
唇から紙煙草を離し、細く紫煙を吐き出す。赤い口紅を引いた唇と黄色い瞳、頬から首筋へ覗くクリアブルーの鱗。そのどれもが照明の下では鮮やかな色彩を放っているのに、彼女が纏う空気にはどこか冷たさがあった。
「再会を喜ぶのは、そのくらいにしてもらおうかしら」
シークレットが僅かに不満そうな顔をする。
シェーネは気にも留めず、まっすぐケイへ視線を向けた。
「例の物は?」
「ここにある」
ケイは腰のポーチから銀色のケースを取り出し、放る。シェーネは片手で受け止めると留め具を外し、蓋を開いた。
内部には厳重に封じられた小さな容器が収められており、その中には僅かな量の白い粉末が入っている。見た目だけなら、それ以上でもそれ以下でもない。
だがシェーネは、しばらく無言でそれを見つめていた。やがて蓋を閉じる。
「……悪くない仕事ね」
「当然だ」
「相変わらず可愛げがないこと」
シェーネは踵を返した。
「ジーク」
奥で待機していた大柄な男が顔を上げる。
魚人属――ジークフリード・マルヒム。
巨体に似合わぬ繊細な手つきで端末を操作し、エネルギー出力、内部圧力、遮断機構、生命維持系統と、実験装置の状態を一つずつ確認していく。表示される数値へ丁寧に目を走らせ、最後の項目まで異常がないことを確かめると、ジークは短く頷いた。
「準備できた」
「ありがとう」
シェーネはケースから試料を取り出した。
「ジャック」
「はいはい」
気怠げな返事とともに、灰色の三つ編みを肩から垂らした男が歩み出る。
齧歯類のジャック・シャロルは眼鏡を指で押し上げると、まず自分の両手へ視線を落とした。すでに黒い手袋を嵌めていたが、そのまま試料へ触れようとはせず、一度両方を外して廃棄すると、新しい黒手袋へ一本ずつ指を通していく。
手首まで引き上げ、指先に余計な皺が残っていないことまで確認してから、ようやくシェーネの手から容器を受け取った。
シークレットが横から覗き込む。
「それ、替える必要ある?」
「当たり前だろ。どこ触ったか分からねぇ手袋で、未知の試料に触れろって?」
「普通、そっちに触る方を嫌がらない?」
「両方嫌なんだよ」
気怠げに答えながら、ジャックは白い粉末を照明へ透かした。
匂いを嗅ぐことも、舐めることもない。不用意に擦り合わせることさえせず、ただ観察するうちに、眠たげだった眼鏡の奥の瞳がゆっくりと細くなっていく。
口元には笑みがある。だが、その目だけは笑っていない。白い粉末の向こうに隠されている何かを、力ずくでも暴き出そうとしているような目だった。
「これが?」
「ああ」
「へぇ……面白いねぇ」
そのとき、DDがカップを置いた。小さな音だったが、ジャックは聞き逃さなかったらしく、目だけをそちらへ向ける。
「なんだい、爺さん。知ってんの?」
「知っておる、とは言えんのぉ。ただ……昔、よく似たものを見たことがある」
「どこで?」
「さての」
「出たよ。年寄りの昔話」
ジャックは笑った。
DDは笑わない。
「長く生きておるとな。知らん方が幸せだったものまで、いくつも覚えてしまう」
「だったら余計に聞きてぇな」
「知らん方が幸せだと言うたばかりじゃろう」
ジャックは肩を竦めた。
「俺が幸せになりたそうに見える?」
DDは一度だけジャックを見たが、それ以上は何も言わなかった。ジャックも追及せず、代わりにその笑みを僅かに深くすると、中央に据えられた実験装置へ向き直った。
そこには円筒形の透明なカプセルがあり、内部を一匹の小動物がせわしなく駆け回っていた。ずんぐりとした胴体に、身体の半分ほどもある長い尾。灰褐色の体毛の隙間には細かな鱗状の皮膚が覗き、頭部から伸びた二本の長い耳は、周囲の音を拾うたび忙しなく動いている。
宇宙港周辺では珍しくもない、小型の齧歯生物だった。透明壁へぶつかる寸前で身を翻し、反対側へ走っては、前脚を壁へ掛けて立ち上がる。鼻先を忙しなく動かしたかと思えば、すぐに床へ降りて跳ねるように駆け出し、勢い余って転んでも、何事もなかったように起き上がった。
元気だった。鬱陶しいほどに。
ジャックはその様子を眺めながら、心拍、体温、神経反応、血中酸素濃度と、端末に並ぶ数値を一つずつ確認していった。どの項目にも異常はなく、健康な個体であることを確かめると、満足そうに口元を緩める。
「いいねぇ。健康そのものだ」
「……楽しそうだね」
シークレットが言う。
「そりゃあ楽しいさ。壊す前が正常じゃなきゃ、戻ったかどうか分からねぇだろ?」
その言葉にシークレットの表情が僅かに曇ったが、ジャックは気にも留めない。ふとカプセルの中を走り回る小動物を眺めると、自分の鼻先を黒い手袋の指で示した。
「しかしまあ、ネズミ男がネズミを殺すってのは、なんともシュールな実験だろ?」
「自分で言うんだ……」
シークレットが呆れる。
ジャックは喉の奥で笑った。
「だがな、K。考えてみろよ」
不意に名を呼ばれ、ケイが視線を向ける。
ジャックは笑っていた。いつもの、人を食ったような笑い方だった。
「こいつ一匹殺して、その先で何万って命を救えるなら――戦争なんかより、よっぽどヒトビトのためになる死に方じゃねぇか?」
「……それを、こいつが望んでると思うか?」
ケイが返す。
ほんの一瞬だけ、ジャックの笑みが止まった。
だが、それもすぐに元へ戻る。
「さあな」
黒い手袋の指先が、実験装置へ伸びる。
「だから、俺たちが勝手に意味をつけるんだろ」
その声には皮肉が混じっていたが、それだけではなかった。冗談めかしているくせに、ジャックの目だけは妙に真剣だった。
「死んだ奴が無駄だったかどうかなんて、生き残った奴にしか決められねぇよ」
ケイは何も答えなかった。
ジャックも、それ以上は続けない。
試料を装置へ接続し、白い粉末が投入口へ落ちていくのを最後まで見届ける。
「さて――」
眼鏡の奥の瞳が細くなった。
「お前は、何なんだ?」
低い駆動音とともに装置が起動した。
カプセルの外周を細い光が走った瞬間、それまで落ち着きなく動き回っていた小動物が不意に足を止めた。二本の耳が真っ直ぐに立ち、鼻先が小刻みに動く。何かを察したのか、次の瞬間には透明壁へ飛びつき、前脚で激しく表面を引っ掻くと、出口を探すように身を翻して再び走り始めた。
ジャックは、そのすべてを見ていた。
「……始めるぞ」
黒い指先が操作盤へ落ちた瞬間、小動物の身体が大きく跳ねた。甲高い鳴き声とともに四肢が切断され、床へ転がった小さな身体から噴き出した血が透明壁へ赤い飛沫を散らす。
シークレットの顔から、笑みが消えた。
脚を失った胴体は、それでも本能のまま起き上がろうと激しく身を捩っていた。だが身体を支えるものはすでになく、何度も横倒しになっては長い尾で床を叩き、存在しない脚で逃げようとするかのように身体を動かし続ける。
切断面から流れ出した血が床へ広がるにつれ、最初は甲高かった鳴き声も次第に掠れていった。大きく開いた口から漏れるのは、もはや声とも呼べない呼気だけで、それでも小さな身体は生きようとする動きを止めなかった。
「……ジャック」
シークレットの声から、先ほどまでの明るさが完全に消えていた。
「見てろ」
ジャックはカプセルから目を離さない。
呼吸は急速に乱れ、胸部が激しく上下している。やがて口元から白い泡が溢れ、唾液と血に混じったそれが顎の毛を濡らしても、小動物はなお頭を持ち上げようとしていた。
ジャックは端末へ目を走らせる。
「心拍上昇、血圧低下。神経反応あり……意識も残ってる。まだ死んでねぇ」
その声音には、僅かな高揚さえ混じっていた。
だが、彼が楽しんでいるのは目の前の苦痛ではない。生と死の境目で何が起きるのか、その一瞬たりとも取りこぼすまいとするように、眼鏡の奥の瞳だけが鋭く研ぎ澄まされている。
「……ここからだ」
カプセル底部から透明な液体が流れ込むと、床へ溜まっていた血は薄まり、幾筋もの赤となって水中へ広がっていった。同時に白い粉末が溶け、小動物の身体もゆっくりと液体へ沈んでいく。
なおも身体を捩っていたが、その動きは次第に弱まり、最後に尾が一度だけ大きく跳ねると、やがて力なく沈んだ。口元から離れた一つの泡が水面へ向かって昇っていき、それが弾ける頃には、カプセルの中からほとんど動きが消えていた。
「……死んだ?」
シークレットが呟く。
ジャックは答えず、端末に表示された数値を睨みつける。
「いや。まだだ」
その言葉を待っていたかのように、切断面が脈打った。
一度、そしてもう一度。
ケイが目を細める前で、赤黒い断面が内側から押し出されるように膨らみ始める。
「……来た」
ジャックの声が僅かに弾んだ。
流れ続けていた血が止まる。だが、傷口が塞がったわけではなかった。断面そのものが動いている。中心から押し出された白いものが細く伸び、それが植物の芽のように長さを増していくにつれ、誰の目にもそれが新たな骨であることが分かった。
さらに、その骨を追いかけるように赤い筋が生まれた。
一本、また一本と筋繊維が骨格へ絡みつき、束となって厚みを増していく。細い血管が枝分かれしながら筋肉の隙間へ潜り込み、その上を半透明の組織が濡れた膜のように覆い始めた。
「……うわ」
シークレットが思わず声を漏らす。
誰も返事をしなかった。
膜は徐々に厚みを持ち、色を帯び、やがて皮膚と見分けがつかなくなる。その表面から一本、また一本と体毛まで生え始める光景は、生命が本来費やすはずだった時間だけを無理やり切り取り、目の前で早送りしているようだった。
「治ってる……」
「違う」
ジャックが即座に否定した。
先ほどまで浮かべていた笑みは消えている。カプセルへ顔を寄せ、再構築されていく肉体を食い入るように見つめた。
「治ってるんじゃねぇ。戻ろうとしてる」
一本目の脚が形を取り戻すと、それを追うように残る三本も次々と形成されていった。骨格の上へ筋肉が重なり、皮膚が覆い、最後には体毛まで生え揃っていく。
やがて新しく形成された指が小さく開き、閉じ、もう一度開いた。前脚が床を掻き、身体が持ち上がる。ほんの少し前まで四肢を失い、血と泡を吐きながら死にかけていた生物が、再び自分の四本の脚で立っていた。
荒かった呼吸も徐々に落ち着き、濡れた体毛を震わせて頭を振ると、恐る恐る一歩を踏み出す……さらに、もう一歩。
シークレットが目を見開き、シェーネも無意識のうちにカプセルへ近づいていた。
「……本当に、戻った」
その声には驚きと、それ以上の何かが滲んでいた。
希望と呼んでもよかったのかもしれない。少なくとも、その瞬間までは。
ジャックだけが笑っていなかった。
「……待て」
再生した前脚が、小さく震えていた。あまりに僅かな震えだったが、小動物自身も違和感を覚えたらしく、立ち止まって鼻先を近づける。
その直後、皮膚の下で何かが動いた。小さな膨らみが肩から肘へ向かって走り、そのまま前脚へ抜けて消える。かと思えば、今度は別の場所がぶくりと膨らみ、小動物は甲高い声を上げて自分の脚へ噛みついた。
だが、止まらない。皮膚の下を何かが這い回っているように、いくつもの膨らみが生まれては消えていく。
「なにっ、これ……」
シークレットが一歩退いた。
「ジーク。出力」
「規定値内」
「投与量」
「誤差なし」
「生体反応は?」
ジークは端末へ目を走らせたまま、しばらく答えなかった。
「上昇してる」
「何が?」
「……全部だ」
その答えを聞いた瞬間、ジャックの口元にゆっくりと笑みが戻った。
「なるほど」
直後、小動物の前脚が異様なほど膨れ上がった。増大しているのは筋肉だけではない。すでに完成したはずの骨格までもが再び成長を始め、内側から押し広げられた皮膚が限界まで引き伸ばされていく。
やがて耐えきれなくなった表皮が裂け、剥き出しになった赤い筋繊維が外気へ晒された。
小動物が絶叫する。
口元から再び泡が溢れ、今度はそこへ鮮血まで混じった。何が起きているのか理解する術もないまま、小動物は狂ったようにカプセルの中を走り始めたが、一歩踏み出すたびに身体はさらに形を変えていった。脚が太くなり、背中が盛り上がり、腹部までもが異様に膨らんでいく。透明壁越しに、骨格が軋む音さえ聞こえた。
「止まってねぇ……」
ジャックの笑みが消えた。
端末へ視線を走らせ、次いで、なおも膨張を続ける肉体へ目を戻す。
「細胞ってのはな、K。増えりゃいいってもんじゃねぇ」
ケイがジャックを見る。
「増えて、分かれて、役目を終えりゃ消える。そうやって全体を保ってる」
「消える?」
「ああ」
ジャックはカプセルへ顔を寄せた。
「自壊。簡単に言やぁ、細胞が自分で死ぬ仕組みだよ」
その目の前で、完成したはずの脚がなおも成長を続けている。
「死ぬことまで含めて、生命は生きてる」
ケイは何も言わなかった。
ジャックの瞳が細くなる。
「なのに、こいつにはそれがねぇのか……?」
一瞬だけ考えるように黙り込む。
すぐに首を振った。
「いや――違うな。まだ分からねぇ」
その言葉とは裏腹に、口元には再び笑みが浮かんでいた。
「面白ぇ」
小動物は勢い余って転倒した。すぐに立ち上がろうとするものの、すでに四肢の長さすら揃っていない。右前脚だけが異様に伸び、身体の均衡を崩して床へ引きずる。それでも逃げることを諦めず、残った脚で身体を押し出して透明壁へ激突した。
一度、二度とぶつかるたびに、赤い跡が残る。
「ただの再生じゃない……」
ジャックは笑っていた。
だが、その目は笑っていない。目の前の惨状ではなく、その奥に潜んでいる法則を見逃すまいと、真実そのものを睨みつけている。
「こいつは、どこで完成したか分かってねぇんだ」
筋肉はなおも膨張し、新たに作られた組織が既存の組織を内側から押し潰していく。行き場を失った骨が皮膚を突き破り、外へ飛び出した頃には、小動物の鳴き声はすでに途絶えていた。
それでも肉体だけは止まらなかった。生きようとしているのか、それともただ増殖しているだけなのか。もはや誰にも分からない。
「そうか……」
ジャックが小さく呟く。
「戻せるんじゃない」
眼鏡の奥で、瞳が細くなる。
「止められないんだ」
直後、膨れ上がった肉体が内側から弾けた。鈍い破裂音が実験室へ響き、透明なカプセルが一瞬にして赤く染まる。血と組織片が壁面へ張りつき、原形を失った肉片が透明な液体の中を漂いながら、ゆっくりと底へ沈んでいった。
誰も、すぐには言葉を発しなかった。ジャックも動かず、赤く染まった壁を見つめている。
数秒後、ふと自分の白衣へ視線を落とした。袖口に、小さな赤い染みが付いている。眉間へ露骨な皺が寄った。
「……最悪だ」
シークレットが呆然としたまま彼を見る。
「……そこ?」
「そこもだ」
ジャックは布を取り出して染みを丁寧に拭ったが、それだけでは足りないらしい。血へ直接触れてすらいない両手の黒い手袋まで外し、新しいものへ交換する。
一本ずつ指を通し、皺を伸ばし、手首まで引き上げる。最後に指を握って開き、ようやく満足したように息を吐いた。
それから、もう一度カプセルを見る。
口元に笑みが戻った。
「……最高じゃねぇか」
ケイが眉を寄せる。
「何がだ」
「失敗したことがだよ」
ジャックは眼鏡を押し上げた。
「成功してたら、“治った”で終わりだろ? でも、こいつは途中までは完璧に戻った。それから壊れた。だったら――そこには境目がある」
再生(Regeneration)と増殖(Proliferation)。
治癒(Healing)と崩壊(Collapse)。
生命と、それに似た何か。その境界に隠された答えを睨むように、ジャックは目を細めた。
「さぁ……お前は、何を隠してる?」
ケイは赤く染まったカプセルを見た。
「……これは、何なんだ?」
ジャックが振り返る。
「『アーク』」
「アーク?」
「そう呼ばれてる」
「それだけか」
「ああ。それだけ」
ジャックはカプセルへ向き直った。
「由来も、正式名称も分からねぇ。再生医療の一種だって資料もあれば、ナノマシンだって話もある。生体改造技術だなんて記録もあった。どれが正しいのか、それとも全部間違ってるのか――誰も知らねぇ」
そこで一度言葉を切る。
「ただ、妙な話が一つある」
「妙な話?」
「ああ。こいつを追っていくと、どういうわけか『エルドラード』の名前がちらつく」
ケイの目が細くなる。
「エルドラード……」
「表向きの研究記録には、ほとんど残ってねぇ。出てくるのは欠けた報告書だの、出所の怪しい実験記録だの、そんなもんばっかりだ。エルドラードの裏で開発されてたって話もあるが――」
ジャックは肩を竦めた。
「本当かどうかは知らねぇよ」
「じゃあ、関係があるかも分からない?」
シークレットが尋ねる。
「そういうこと」
分からない。
だからこそ、ジャックには価値があるらしい。
「エルドラードが作ったのか。そこで誰かが勝手に作ってたのか。そもそも何の関係もねぇのか。作った奴も、研究してた奴も、何を目指してたのかも――今となっちゃ分からねぇ」
「……いや」
DDが静かに口を開いた。
ジャックが振り返る。
「爺さん?」
DDはすぐには続けなかった。カップを両手で包んだまま、赤く染まったカプセルを見つめている。
「一つだけ、言えることがある」
その声から、先ほどまでの柔らかさが消えていた。
「もし、それがわしの知るものと同じ流れにあるのなら――あまり綺麗なものではない」
シェーネが紙煙草を唇から離した。
「どういう意味?」
DDは僅かに目を伏せた。
「おそらく、M110コロニー《エルドラード》の裏では……いや、銀河の闇の奥深くでは、数え切れぬ命が“材料”として消えていった」
誰も口を挟まなかった。
「生体細胞。生殖細胞。臓器。そして、生きた身体そのもの――。研究のために売られた者もおれば、売った覚えすらないまま消えた者もおったじゃろう」
シークレットの表情から、完全に笑みが消える。
「……ヒトを、使ったってこと?」
「ヒトだけとは限らん」
DDの返答は短かった。
それだけで十分だった。
この銀河には、数え切れないほどの知的種族が存在している。ならば、材料とされたものが何だったのか、考える必要さえなかった。
「何万、何十万――」
DDはそこで首を振った。
「いや。そんな数字に意味などないのかもしれんのぉ。一つであろうと、十万であろうと、命を材料と呼び始めた時点で、とうに何かを間違えておる」
それまで楽しげだったジャックの笑みも、いつの間にか薄れていた。
「そして最後には、誰にも扱いきれなかった」
「アークを?」
ケイが尋ねる。
DDはすぐに首を横へ振った。
「そこまでは知らん。今、おぬしらが『アーク』と呼んでおるものと、わしが聞いたものが同じなのか。それすら断言はできん」
老人の視線が、カプセルの中に残された肉片へ向かう。
「じゃが――似ておる」
その一言だけが、重く落ちた。
「失ったものを取り戻そうとする。壊れたものを元へ戻そうとする。命そのものへ手を伸ばし、最後には、その命がどこまで命なのかさえ分からなくなる」
DDは静かに息を吐いた。
「夢のような話じゃよ。病を治せる。失った身体を取り戻せる。老いさえ克服できるかもしれん。死というものすら、いつかは過去の病にできる――そんな夢を見た者もおったじゃろう」
そこで初めて、その声に僅かな痛みが混じった。
「じゃが、夢が大きくなればなるほど、そのために差し出されるものまで大きくなっていった。できることと、やってよいことは、同じではない」
沈黙が落ちた……。
その沈黙を破ったのは、シェーネだった。
「永遠の命……永遠の美」
黄色い瞳が、赤く染まったカプセルを見つめる。紙煙草から細い煙が立ち昇った。
「そんなもの、どうでもいいわ」
DDが顔を上げ、シークレットも、ジャックも彼女を見る。
シェーネは煙草を口元へ運び、一度だけ深く吸った。そして紫煙を吐きながら、静かに言う。
「私が欲しいのは――その力そのものよ」
ケイの目が細くなる。
「力?」
「ええ」
シェーネはカプセルへ近づいた。透明壁の向こうには、つい先ほどまで四肢を失い、死にかけ、それでも一度は完全な姿へ戻った生命の残骸がある。
「見たでしょう? これは失ったものを、もう一度この世界へ引き戻した」
「最後には弾けたけどね」
シークレットが小さく言う。
「だから何?」
シェーネは振り返らなかった。
「失敗したから、価値がない?」
ジャックの口元が僅かに持ち上がる。
「今は制御できない。何なのかも分からない。どこから生まれたのかも、どれだけの犠牲の上に作られたのかも分からない。でも――存在する」
その声に迷いはなかった。
「一度失われた肉体を、ここまで戻せる力が」
シェーネは自分の手へ視線を落とし、クリアブルーの鱗を親指でゆっくりとなぞった。
「私は永遠に生きたいわけじゃない。永遠に美しくありたいわけでもない。私が欲しいのは、失ったものに手を伸ばせるだけの力よ」
DDの表情が僅かに曇った。
「その力を手に入れるためなら、代償は問わんと?」
「そこまでは言ってないわ。でも、過去に誰かが間違えたからといって、力そのものまで罪になるとは思わない」
DDは答えない。
「刃物がヒトを殺したからって、刃物を捨てる?」
「それとは少し違うと思うけど……」
シークレットが呟く。
「ええ。違うわね」
シェーネはあっさり認めた。
「これは、もっと危険よ」
口元に僅かな笑みが浮かぶ。
「だから欲しい」
ケイは何も言わず、彼女を見ていた。シェーネの言葉がどこまで本心なのかは分からない。故郷を救うためなのか、失った何かを取り戻すためなのか、あるいはその先に、まだ誰にも語っていないものがあるのか。
「もし、この力を制御できるなら」
シェーネの黄色い瞳が、赤いカプセルの向こうを見据えた。
「私たちの故郷だって、救えるかもしれない」
その言葉が落ちた瞬間、船内の空気が僅かに変わった。
バードマンはハットの鍔へ指を添えたものの、いつもの軽口を挟まなかった。ジークの太い指も端末の上で止まり、シークレットはシェーネを見つめたまま何も言わない。DDだけが、何かを胸の内へ沈めるように静かに目を伏せた。
ケイには、その沈黙のすべてを理解することはできなかった。だが――彼らが初めてこの話を聞いたわけではないことくらいは分かった。
シェーネが振り返る。
「ケイ」
「なんだ」
「あなたは?」
「何がだ」
「これから、どうしたい?」
ケイは眉を寄せた。
「急になんの話だ」
「急じゃないわ」
シェーネの視線が、ケイの身体へ向けられる。
「あなたのその身体だって、いつまでも保つ保証はない。もしアークが本当に生命そのものへ干渉する何かなら――あなたを、その鎖から解放できるかもしれない」
ケイの指先が僅かに動いた。
「それでも、興味はない?」
答えは出なかった。ケイは血に染まったカプセルを見る。
透明な壁を、血がゆっくりと伝っている。その赤を見ていると、記憶の底へ沈めていたものが、嫌でも輪郭を取り戻していった。
戦場で見た光景。研究施設に残された記憶。耳にこびりついて離れない叫び声と、形を失っていく身体。そして、二度と動かなかった者たち。
その中で、自分だけは死ななかった。なぜなのか……その問いだけは、どれだけ遠くへ来ても消えなかった。生きたいと願ったから生き残ったわけではなく、かといって死にたいわけでもない。ただ、自分でも分からないのだ。
なぜ、自分だったのか。
なぜ、この身体なのか。
なぜ、この力を持っているのか。
そしてなぜ――自分だけが、まだここにいるのか。
「……分からない」
ケイが呟いた。
シークレットが彼を見る。バードマンも、ジークも口を挟まない。
シェーネだけが、その言葉を静かに受け止めた。
「何が?」
「これからどうしたいかなんて、オレには分からない」
強がりでもなければ、皮肉でもなかった。
今のケイには、それ以外の答えを持ち合わせていない。誰かのために生きる理由もなければ、帰りたい場所があるわけでもない。成し遂げたい大義があるわけでもない。
それでも、ここにいる。
死なずに。
生かされたまま。
「だから――確かめる」
シェーネの瞳が僅かに動いた。
「何を?」
ケイは答えるまでに、少しだけ時間を置いた。
「オレが、何なのかを」
誰も笑わなかった。シークレットが何かを言いかけ、結局その言葉を飲み込む。やがて、ほんの少しだけ笑った。いつもの底抜けに明るい笑顔とは違う。
「じゃあ、あたしも行く」
ケイは横目だけを向けた。
「好きにしろ」
「うん。好きにする」
嬉しそうに答える。
それ以上、ケイは何も言わなかった。止める理由もない。だからといって、一緒に来てほしいわけでもない。これから始めようとしていることは、ケイ自身の問題だった。
誰かと分かち合うつもりはないし、助けてもらおうとも思わない。まして、誰かを背負って歩けるほど、自分に余裕があるとも思っていなかった。自分が何者なのか。なぜ生き残ったのか。なぜ、この身体で生かされているのか。
それすら分からない者が、他人の人生にまで責任を持てるはずがない。仲間なんて、いらない。少なくとも、今はそう思っている。
「ま、行くってんなら航路は引くさ」
バードマンがハットを被り直した。
シェーネが横目を向ける。
「ずいぶん軽いのね」
「重く考えたところで、宇宙が近くなるわけじゃねぇからな」
嘴の端を僅かに上げる。
「それに、帰る場所探して飛び回ってんのは、今に始まったことでもねぇだろ?」
シェーネは何も返さなかった。
ジークも黙ったまま、実験装置の停止処理を始める。血で汚れたカプセルから液体を排出し、異常値を一つずつ記録へ残していくその大きな手は、先ほどと変わらず正確に動いていた。ジャックはすでに端末へ向かい、実験結果を睨みながら独り言を続けている。
「増殖速度……再構築の起点……いや、そもそも基準情報が……」
「ジャック」
シェーネが呼ぶ。
「聞いてるって」
「聞いてない顔ね」
「聞きながら考えてんの」
黒い手袋の指は止まらない。
その横で、DDはケイを見ていた。何を思っているのか、その表情から読み取ることはできない。やがて老人は目を伏せ、静かにカップを傾けた。
「……答えが見つかるとよいのぉ」
ケイはそちらを見る。
「見つからなかったら?」
DDはすぐには答えなかった。少しだけ考え、それから皺の刻まれた顔を僅かに緩める。
「そのときは、また探せばよかろう」
あまりにも簡単な答えだった。そんな簡単な話ではない、とケイは思う。これまで自分が見てきたものも、失ったものも、この身体に残されたものも、そんな一言で片づけられるほど軽くはない。なのに、不思議と腹は立たなかった。
「だったら、行きましょう」
シェーネが紙煙草を灰皿へ押しつける。
「このアークが何なのか。誰が作り、何のために使おうとしたのか。そして――私たちが失ったものを、本当に取り戻せるのか」
私たち。
その言葉に、ケイは僅かに目を細めた。自分までそこに含められたような気がして、気に入らなかった。ケイが知りたいのは、シェーネの故郷でもなければ、ジャックが求める未知でもない。バードマンがここへ帰ろうとしているのかも、DDが何を知っているのかも、シークレットがなぜ自分について来ようとするのかも――今のケイには関係がない。
自分のことで、手一杯だった。
だからこれは、彼らと同じ目的を持った旅ではない。たまたま進む方向が重なっただけだ。それ以上でも、それ以下でもない……そう決めてしまえばいい。
船外へ続く隔壁の向こうには、数え切れないほどの星々がある。そのどこかに答えがある保証などなく、アークが救済なのかさえ、まだ誰にも分からない。
それでも行く。
自分が何者なのかを知るために。なぜ死ななかったのか。なぜ生かされたのか。その答えへ辿り着くためなら、どこへだって行く。
一人でも構わない。そのはずだった。
「ケイ」
シークレットが呼ぶ。
振り返ると、彼女はもういつもの顔に戻っていた。
「なに?」
「……なんでもない」
「なにそれ」
ケイは答えず、歩き出した。背後ではシークレットが何か文句を言い、バードマンがそれを面白がっている。シェーネが呆れた声を上げ、ジャックは聞いているのかいないのか分からない返事をしながら端末を叩き続けていた。
ジークの操作する機器から規則正しい電子音が響き、その合間にDDの低い笑い声が僅かに混じる。
騒がしい。本当に、鬱陶しい連中だ。ケイは振り返らなかった。けれど、格納区画へ向かうその歩みは――いつの間にか、ほんの少しだけ緩んでいた。
背後の実験室では、透明なカプセルを血がゆっくりと伝っている。その赤い痕跡の向こうに、シェーネが何を見ているのか、ケイには分からない。
希望なのか。
救済なのか。
それとも、失った過去を取り戻せるという幻想なのか。
そして、自分がこの先で何を見つけることになるのかも、まだ知らない。
ただ――目を逸らすつもりはなかった。救済と呼ぶにはあまりにも赤かった。
夢と欲望の産物『アーク』がもたらすものは希望か絶望か?
彼らの期待と不安と共に一緒に旅をする感覚に没入して欲しいと思います。




