記録02 ネオンの街を抜け、星の海へ
宇宙へ飛び立つシーンに想いを馳せて、物語の始まりです。
夜のビネスを、Kは駆けていた。
霧雨に霞むネオンの街を抜け、濡れた路地を蹴る。風を孕んだ外套が背後で大きく翻り、足元では踏みつけた雨水が極彩色の光を散らしていた。
背後には、まだ歓楽街の喧騒が残っている。
だが、それも長くは続かなかった。
高層建築を覆っていた広告の光が一つ、また一つと消えていき、客を呼び込む声も、酒場から漏れる音楽も遠ざかっていく。やがて聞こえるのは、濡れた路面を叩くKの足音と、崩れかけた建物の隙間を抜ける風の音だけになった。
旧ビネス。
かつて繁栄を極めながら、戦渦の中で放棄された街区。新たな都市がその隣で繁栄を取り戻した今も、焼け落ちた建物や倒壊した高架は撤去されることなく残されている。
繁栄の裏側に切り捨てられた、巨大な廃墟だった。
「静かすぎるな……」
Kは足を緩めない。
崩れかけた建物へ滑り込み、錆びついた非常階段を一気に駆け上がる。踊り場を二つ飛ばしで越え、上階の鉄扉を押し開けると、蝶番が低く軋んだ。
埃と湿気の匂いが鼻を突く。
かつては誰かの住居だったのだろう。剥がれ落ちた壁材の向こうには古びた配線が露出し、床には砕けた家具と色褪せた広告の切れ端が散乱していた。
Kは窓の外へ一度だけ視線を向けると、ポケットから小さな球体を取り出し、床へ転がした。金属質の球体は数回跳ね、微かな駆動音とともに静止する。
――BOLR(Ball-type Optical Lidar Recon)。通称、ボルア。
光学・測距センサーに加え、空間の微振動、熱源、通信波までを走査し、周囲の動作履歴を立体情報として再構築する小型偵察機だ。本来なら軍用に分類される性能を持つ。
球体の表面を青白い光が走った。
《ゲノムコード確認。パーソナルコード確認――アクセプト》
ボルアが床からわずかに浮き上がる。
細い光が放たれ、室内を舐めるように走った。壁、天井、廊下、そのさらに向こうまで走査したのち、無機質な音声が告げる。
《周囲に知的生命体、および人工知能の存在を確認できません》
「……よし」
Kが短く答える。
すると、ボルアから放たれた光の粒子が空中へ集まり始めた。
輪郭が生まれる。細い肩。長い髪。そして、一人の女性の姿。透き通るような白い肌に、白銀の髪。澄んだ青い瞳を持つその姿には、どこか現実離れした美しさがあった。
《お疲れさま、ケイ。無事で何よりです》
「……ああ。問題ない。お前の方は?」
《こちらも問題ありません》
「そうか」
女性の名は、アイ。ケイの相棒である。
今ここに映し出されているのは立体映像にすぎない。本体は別の場所にあり、ボルアを中継してケイと通信していた。
《ケイ、回線を確保しました。ボスへお繋ぎします》
その言葉とともに、アイの姿が光へほどける。
代わって映し出されたのは、もう一人の女だった。
カチリ――ジッポライターが火を灯し、紙煙草の先端が赤く染まる。
短く切り揃えられた赤い髪。鮮やかな赤い唇。そして、青白い立体映像の中でも強烈な存在感を放つ黄色い眼。露出した肌を覆うクリアブルーの鱗が、炎の揺らめきを受けて煌めいている。
ヒト科魚人族――マーフォーク。
女は煙を細く吐き出すと、赤い唇を愉しげに歪めた。
《あら、遅かったじゃない。ケイちゃん?》
ケイは答えず、ポケットから小さな袋を取り出した。それをカメラの前へ掲げ、ようやく口を開く。
「シェーネ。ブツは回収した。これでいいか?」
《ええ、ご苦労さま。……で、どうだった?》
「気に入らねえ」
ケイは手の中の袋へ視線を落とした。
「こんなもんに手を出すつもりか?」
《まだね》
シェーネは短く答え、煙草を口元へ運んだ。
ほんの僅かに、その笑みが薄れる。
《でも……できることなら、早く》
「…………」
ケイは何も聞かなかった。
シェーネも、それ以上は語ろうとしない。代わりにゆっくりと煙を吐き出すと、いつもの表情を取り戻したように黄色い眼を細める。
《……まあ、そんなところで長話するほど、あたしも馬鹿じゃないわ。そいつを欲しがってる連中が、どこで見てるか分からないもの》
「場所を変えるのか?」
《ええ。ランデブーポイントは衛星クストーの裏側。そこで合流しましょ》
「了解――」
その瞬間、ボルアの表面を走っていた光が赤へ変わった。
《――警告》
ケイの視線が動く。
《接近反応を検知》
「……何人だ?」
《解析中。複数の反応を確認》
映像の向こうで、シェーネが眉を上げる。
《随分と人気者ね、ケイちゃん》
「嬉しくねえな」
ケイはボルアを掴み上げる。通信映像が光の粒子となって霧散した。
「長居は無用か」
そう吐き捨てると、部屋を飛び出し、さらに上へ向かう。
非常階段を駆け上がり、最後の鉄扉を肩で押し開けると、湿った風が一気に吹きつけてきた。
屋上からは、夜のビネスが一望できた。霧雨に滲んだ無数のネオンが遠く街を染め、そのさらに向こうでは、高層建築の間を小型艇の光が絶え間なく行き交っている。
その繁栄から切り離されたように、旧ビネスだけが暗闇の中に沈んでいた。
ケイは屋上の縁へ向かって歩く。追跡者の気配は、もう遠くない。それでも振り返らなかった。
「アイ」
《はい》
今度は耳元から声が返ってくる。
その直後、屋上を突風が駆け抜けた。
ケイの正面で、何もないはずの空間が揺らいだ。降り注いでいた雨粒が不自然に弾かれ、そこに見えない何かが存在していることを示している。
やがて夜景の一部が歪み、折れ曲がり、闇の中から巨大な輪郭がゆっくりと浮かび上がってきた。鋭く流線型を描く機体に、光を呑み込むような漆黒の外装――アマデウス。
ケイの愛機である超小型宇宙船は、それまで夜の一部に溶け込むように姿を隠していた。船体の一角が音もなく開き、暗い搭乗口が姿を現す。
ケイはそれを見上げ、わずかに口元を緩めた。
「待たせたな」
ケイは屋上を蹴った。身体が宙へ躍り、そのまま暗い搭乗口へ吸い込まれていく。その姿を呑み込むように搭乗口が閉じた次の瞬間、静まり返っていた旧ビネスに轟音が響き渡った。
廃屋の窓という窓が震え、屋上に溜まっていた雨水が一斉に吹き飛ぶ。アマデウスは夜空へ機首を向けると、重力を振り切るように上昇を始めた。
一瞬の無重力感のあと、ケイの身体がシートへ深く沈み込む。正面の表示領域が次々と点灯し、暗かった船内を淡い光が満たしていった。その傍らには、先ほどまで立体映像として映し出されていた白銀の髪の
女性――アイが立っている。
「お帰りなさい、ケイ」
「ああ」
ケイはシートへ身体を預ける。
「飛ばしてくれ」
「了解しました」
アマデウスの推進機関が唸りを上げ、機体はさらに加速した。
雲を突き抜ける。それまで船体を叩いていた雨音が消えた。
眼下では、霧雨に滲んでいたビネスのネオンが見る間に小さくなっていく。ひとつの街だった光は、やがて無数の光点が連なる巨大な都市圏へと姿を変え、その輪郭さえも夜の大地へ溶け込んでいった。
さらに高度が上がる。
点在していた都市の光が互いに繋がり、暗い大地の上に細い光の筋を描き始める。幾筋もの光は枝分かれしながら地平の彼方まで伸び、やがて巨大な大陸そのものの輪郭を、ネオンのように闇の中へ浮かび上がらせていった。
その外側には、光をほとんど返さない海が広がっている。大陸も、海も、少しずつ丸みを帯びていく。
やがて地平線は緩やかな弧となり、その縁を青白い大気の光が薄く包んだ。
街だったものが大陸となり、大陸だったものが一つの星へと変わっていく。
惑星ルードゥス。つい先ほどまでケイが立っていた世界は、いまや暗い宇宙に浮かぶ巨大な球体となって、アマデウスの後方へ遠ざかりつつあった。
そして、その向こうに――星の海が広がっていた。そこは決して静かな海ではない。
惑星軌道上には大小さまざまな宇宙船が行き交い、巨大な商業船の傍らを小型輸送艇が抜け、遠方では軍艦と思しき艦影が航路を横切っている。その中には正規の識別信号を発さない、違法改造船らしき影さえ混じっていた。
そして、それらすべてを圧倒する巨大構造物が、星々を背負って浮かんでいる。
巨大な円環。
その内側では青白い光が渦を巻き、周囲の星明かりさえ歪ませていた。
――超光速空間渡航装置。
天の川銀河の主要宙域を結ぶ、恒星間航行の要。現在では無数の船が当たり前のように行き交うその航路も、かつては銀河の覇権を巡る争いの舞台だった。
かつて銀河では、惑星連合ヘラ、銀河帝国ギルガメシュ、独立星団ユグドラシルをはじめとする巨大勢力が、同盟と裏切りを繰り返していた。数え切れないほどの星と種族を巻き込んだ戦乱は、長きにわたって銀河を焼き続けた。
その時代が大きく動いたのが、G.C000年に起きたM110コロニー・エルドラード消失事件だった。
銀河最大の科学都市と呼ばれたエルドラードが、ある日、何の前触れもなく宇宙から姿を消したのである。
その消失を境に、それまで辛うじて保たれていた勢力均衡は崩壊した。長い戦争ですでに疲弊していた各陣営は戦線を維持できなくなり、やがて惑星連合ヘラも解体される。
そして戦後、新たな銀河秩序を築くために発足したのが、『大銀河連盟(League of Universe)――通称、ロウだった。
銀河には、再び秩序が生まれた。だが、戦争が終わったからといって、欲望まで消えたわけではない。
表舞台から姿を消した争いは形を変え、今も無数の星々の裏側で静かに息づいている。
その広大な銀河の片隅を、一隻の黒い船が進んでいた。ケイはシートへ身体を預けたまま、目の前に広がる宇宙を眺める。数え切れない星々が暗闇の彼方まで続き、その一つ一つに、まだ知らない世界がある。
「衛星クストーまで?」
アイが尋ねた。
「ああ」
ケイは短く答え、目を閉じた。
「行こうか」
アマデウスは静かに進路を変える。漆黒の船体が星明かりを掠め、無数の光の中へ溶け込んでいった。
その先に何が待っているのか、この時のケイはまだ知らない。
星屑のように散らばる無数の運命が、やがて一つの旅路へと繋がっていくことを――。
宇宙の歴史をここに。私たちの世界から遥か未来。いつかこんな時代が来るかも知れませんね。
果てしなく広がる星の海。
その先に待つのは、未知か……。




