記録01 ネオンの影に消ゆ
――G.C(銀河統一暦)026年
霧雨の夜だった。
惑星ルードゥス最大の歓楽街ビネスは、夜の帳が下りても眠ることを知らない。
高層建築の壁面を覆う巨大な広告が明滅し、軒を連ねる酒場や娯楽施設から漏れ出した極彩色のネオンが、濡れた街路を妖しく染め上げている。頭上を行き交う小型艇の光が雨雲の底を掠め、雑踏では種族も出自も異なるヒトビトが肩をぶつけ合いながら、それぞれの夜を求めて歩いていた。
笑い声や音楽、客を呼び込む声が絶え間なく飛び交い、酒と香料、機械油、湿った空気の匂いが入り混じる。都市そのものが、夜の熱に浮かされているかのようだった。
しかし、一本裏へ入れば、その喧騒は嘘のように遠ざかる。
華やかな表通りから見捨てられた細い路地には、壊れかけた照明と排気管が並び、頭上から落ちる雨水が古びた外壁を伝っていた。排水の追いつかない地面には幾つもの水溜まりができ、遠くのネオンだけがその水面で歪んでいる。
そこを、一つの巨体が駆け抜けていた。
二メートルを優に超える身体を覆うのは、鈍い光沢を帯びた鱗。太い尾が左右へ揺れるたびに狭い路地の壁を擦り、巨大な足が水溜まりを踏み抜くたび、派手な水飛沫が舞い上がった。
爬虫属――レプティリアン。
その巨体に似合わず男の足は速かったが、呼吸はすでに乱れている。
「はっ……はっ……クソッ!」
何度目か分からない角を曲がり、男は背後を振り返った。
誰もいない。
雨に濡れた路地が、暗闇の奥へ伸びているだけだった。
それでも男は足を緩めなかった。右手には大きな鞄を抱え、左手には小さな包みを握り締めている。その中身が濡れないよう幾重にも封を施された小袋には、白い粉末が詰め込まれていた。
もう一度、背後を振り返る。
やはり誰もいない。
それなのに、鱗の隙間を伝う冷たい汗が止まらなかった。
「クソッ……どこまで追ってくるんだ!」
男は苛立ちと恐怖を振り払うように吐き捨てた。
そのとき、前方の暗がりに人影が立っていた。
男の足が止まる。いつからそこにいたのか分からない。細身の黒い外套を纏った何者かが路地の中央に立ち、深く被ったフードに顔を隠したまま、ただ静かにこちらを見ている。
男の喉が鳴った。
「……てめぇ」
追いつかれたのではない。
先回りされた。
そう理解した瞬間、男は肩に掛けていた大型のマシンガンを引き寄せた。
「舐めるなぁッ!」
躊躇なく引き金を絞る。
銃口が激しく火を噴き、轟音が狭い路地を震わせた。吐き出された銃弾が一直線に人影へ殺到し、着弾の衝撃で周囲の壁が削れ、破片と粉塵が飛び散っていく。
逃げ場などない。
男はそう確信していた。
だが、一発目が逸れた。続く二発目も、三発目も同じだった。確かに狙っている。距離も外しようがないほど近い。それなのに、人影へ届く寸前で銃弾の軌道が不自然に歪み、まるで目に見えない何かを避けるように左右へ弾かれていく。
「なっ……!?」
男は構わず撃ち続けた。銃声と火花が路地を埋め尽くし、吐き出された弾丸が次々と人影へ殺到する。
それでも、一発も当たらない。
やがて人影が、右手をわずかに上げた。
それだけだった。
男の表情から余裕が消える。
「なんだよ……それ……」
次の瞬間、人影が消えた。
少なくとも、男にはそう見えた。
直後、溜まった雨水が爆ぜるように弾け、濡れた路面を踏み抜く鋭い音が響いた。たった一度の踏み込みで、十数メートルあったはずの距離が一瞬にして消える。
「――ッ!」
男が反応したときには、黒い人影はすでに懐へ潜り込んでいた。低く沈んだ身体が捻られ、その勢いを乗せた肘が分厚い胸板へ突き刺さる。
鈍い衝撃音とともに巨体が浮いた。
「ぐはっ……!」
鱗に覆われた身体が数歩分も後方へ弾き飛ばされ、そのまま壁へ激突する。衝撃で配管が歪み、溜まっていた雨水が二人の上へ降り注いだ。
男は苦痛に顔を歪めながらも倒れず、すぐさま太い腕を振るった。
「この……!」
人影は頭をわずかに傾けるだけで拳をかわし、続けざまに放たれた一撃も難なく躱す。男は舌打ちすると背後の壁へ足を掛け、その巨体からは想像もつかない跳躍で上方へ逃れようとした。
だが、黒い影もまた地面を蹴った。その身体は、常人では到底届かない高さまで一息に跳び上がる。
男が目を見開いた。
「な――」
空中で身体を捻り、反射的に尾を振るう。太い尾が風を裂き、鞭のような速度で人影へ迫った。
黒い外套が翻る。
人影は紙一重でその一撃をかわすと、同時に腰の後ろへ手を伸ばした。鈍い銀光とともに抜き放たれたのは、通常のコンバットナイフと呼ぶにはあまりにも長く、厚い刃だった。重装兵でも扱いに苦労するほどの重量を持つその刃を、人影は片手で何の抵抗もないかのように振り抜く。
――ダマスクスナイフ。
刃が、尾の付け根を通過した。
一瞬遅れて、鮮血が噴き出す。
「がぁぁぁッ!」
切断された尾が雨の路地へ落ち、激しく跳ねた。男の身体も均衡を失って地面へ叩きつけられ、大きな水飛沫が周囲へ広がる。
それでも起き上がろうとした男の腹部へ、人影の踵が容赦なく振り下ろされた。
「ぐっ……!」
肺から空気が押し出され、男は身体を丸めて激しく咳き込んだ。
そこで初めて、人影の動きが止まる。
雨音が戻ってきた。
男は荒い息を吐きながら顔を上げる。
目の前に、銃口があった。
「動くな」
低い声だった。
怒鳴るでもなく、威圧するでもない。
だからこそ、男は動けなかった。
人影が片手で構えている銃を見て、男の顔が引きつる。拳銃と呼ぶにはあまりにも巨大で、分厚い銃身に異様なほど大型の機関部を備えている。55口径弾を撃ち出すそれは、本来なら強化装備なしに扱える代物ではない。
それを、目の前の人影は片手で構えていた。銃口は微動だにしない。
「ま、待ってくれ……!」
男は咳き込みながら両手を上げた。
「これだろ……? お前が欲しいのは!」
震える手を開くと、そこには白い粉末の入った小袋が握られていた。
「持っていけ! 全部やる! 俺はただ頼まれただけだ! 運び屋として荷物を受け取っただけで……誰が作ったのかも、どこへ流すのかも知らねぇ!」
返事はない。
「なあ……聞いてんのか……?」
雨が降り続けていた。
そのとき、路地を風が吹き抜ける。黒いフードが揺れ、ゆっくりと後ろへ外れた。ネオンの光が、初めて追跡者の顔を照らす。
そこでようやく、男は追跡者の素顔を見た。
そこにいたのは、まだ若い人間種の男だった。血の気の薄い肌に、雨に濡れたエメラルドの髪が張りついている。整った顔立ちをしているはずなのに、その印象を大きく歪めているものがあった。
眼だった。
冷たい視線。その上下には、疼くような深い隈が伸びている。
男はその顔を見つめ、やがて何かに気づいたように瞳孔を大きく開いた。
「ま……まさか……」
声が震え始める。
青年は何も言わない。
「K……?」
その一文字を口にした瞬間、男の表情から血の気が引いた。
「お前が……あのKなのか……?」
青年は否定しなかった。肯定もしなかった。ただ、銃口を男の額へ向けている。
「ま、待て……! 待ってくれ!」
男の声が裏返った。
「分け前ならやる! 全部だ! 金もある! 他にも知ってることが――」
青年は黙っていた。
雨粒が銃身を伝い、銃口の先端へ集まる。
一滴。
雫が落ちた。
男は、その沈黙を許されたのだと勘違いした。
「そ、そうだ……それでいい。俺はただの運び屋だ。殺す価値なんて――」
だが次の瞬間、銃声が轟いた。
巨大な銃口から吐き出された弾丸は男の分厚い鱗を容易く砕き、その頭部を貫いた。赤黒い飛沫が背後の壁へ散り、ネオンの光を受けて雨水とともにゆっくり流れ落ちていく。
巨体が崩れ、水溜まりが大きく波打った。
男の眼は開いたままだった。そこにはもう何も映していない。ただ、雨に濡れた瞳の表面で、遠くのネオンだけが妖しく揺らめいていた。
青年はしばらく死体を見下ろしていたが、その表情には何の感情も浮かんでいなかった。やがて銃を下ろし、男の手から転がり落ちた小袋を拾い上げる。
中身を確かめることもしない。白い粉そのものに興味があるようには見えなかった。ただ、回収する必要があった。それだけだった。
青年は小袋を外套の内側へしまうと、踵を返した。
遠くから再び、歓楽街の喧騒が聞こえてくる。笑い声も、音楽も、客を呼び込む声も、先ほどと何一つ変わっていない。
誰かが死んだところで、この街の夜は終わらない。
青年はフードを被り直し、何事もなかったかのように歩き出した。その背中を赤や青のネオンが交互に照らし、やがて少しだけ強くなった雨が、路地に残された血を薄めて排水溝へと運んでいく。
そこに一人の命があった痕跡さえ、街はゆっくりと洗い流していった。
そして青年もまた――ビネスのネオンが落とす深い影の中へ、静かに消えていった。
第1話(記録01)を読んでいただきありがとうございます。
未来の宇宙の世界観を出せるように努力しました。是非浸っていただければと思います。
小話
惑星ルードゥスにある歓楽街ビネスは、天の川銀河系にある名の知れた歓楽街の栄えた欲望と希望の星として有名なんですね。様々な宇宙人が行き交い怪しげに光る都市。スコールがよく降り熱を帯びる街に怪しさを醸し出せているとうれしいです。




