第六十六話 奈落の門
湖底に口を開いた亀裂は、あまりに不自然だった。
深海センサーの映像には、漆黒の岩盤が裂け、その間から淡い燐光が漏れ出しているのが映っている。まるで大地そのものが呼吸しているかのように、亀裂は脈動し、光の流れを吸い込んでは吐き出していた。
〈みらい〉の艦橋に、張り詰めた沈黙が漂う。
ユイがコンソールに指を走らせながら、険しい表情を浮かべた。
「測定不能……。通常の地殻構造では説明できません。この“門”は人工的に造られたか、あるいは……自然法則そのものを書き換えて存在しています」
遼は前方の巨大スクリーンに映る光の裂け目を見据え、短く命じた。
「……艦首、奈落へ向け。全区画、地底航行モードへ移行」
◆地底航行モード
警告音が低く鳴り響き、艦内の照明が青から深緑へと切り替わる。
「全推進器、位相制御開始」ユイの声が響く。
艦底部の装置がうなりを上げ、〈みらい〉の周囲を光の幕が覆った。空気のように見えるが、これは分子結合を一時的に流動化させるフィールド――“固体流体化”システム。
子供たちや民間人が集められた防護区画には、緊張が広がっていた。
ルナが小さな手を握り締め、隣の少年を励ますように言う。
「大丈夫だよ。遼お兄ちゃんとユイお姉ちゃんがいるもん」
その声がわずかな安心を与えたのか、泣いていた子供がすすり泣きを止める。
◆門を越えて
〈みらい〉はゆっくりと、裂け目へと進む。
艦首が光に触れた瞬間――世界が反転した。
視覚センサーに映るのは、液体でも固体でもない光の奔流。
艦体がそれに飲み込まれると、音が消え、重力の感覚さえ曖昧になる。
「フィールド安定率、67%……下降中!」ユイの声が緊迫する。
「保てるか?」遼が問う。
「……はい、限界ですが……まだ持ちます」
やがて、〈みらい〉は完全に裂け目の内部に呑み込まれた。
そこは地底でも海でもない――無数の光の糸が漂う、異様な空間だった。
◆最初の試練
突如、艦の周囲に影が蠢いた。
それは生物のようでありながら、実体を持たぬ虚像。
ユイが目を見開く。
「これは……“幻像”です! 〈みらい〉のセンサーに直接干渉して、敵を生み出している!」
スクリーンには数十隻の軍艦が映し出されていた。
帝国の艦艇、北方の竜騎兵、そして――かつて地球で存在したはずの潜水艦すら。
「こんなものまで……」遼が息を呑む。
艦内スピーカーに、再び低い声が響いた。
『……汝らは奪う者に非ずと語った……ならば示せ……汝らが何を守るかを……』
◆艦内の揺らぎ
幻像の艦艇群が一斉に砲火を放った。
虚像であるはずの光が、実体の爆圧となって〈みらい〉を揺さぶる。
「防御フィールドに実害あり! これは……精神干渉を物質化してる!?」ユイが驚愕する。
遼は即座に叫んだ。
「反撃はするな! 全砲門、安全ロック!」
「えっ!? でもこのままじゃ――」ルナが声を上げる。
遼は毅然として答えた。
「これは戦いじゃない。試されてるんだ! 撃ち返せば“奪う者”と同じだと証明することになる!」
ユイが理解し、頷いた。
「ならば……耐え抜くしかない」
◆試練の最中
艦内は激しく揺れ、温室の鉢植えが倒れ、子供たちが悲鳴を上げる。
レイリアが医務区画から駆けつけ、防護区画で子供たちを抱き締める。
「大丈夫、ここにいるから! 誰も一人にしない!」
ユイの指先は震えていた。
機械だった頃にはなかった震え――だが今、その震えが彼女を奮い立たせる。
「私は……奪うためじゃない。守るために、この艦にいる!」
彼女の声は、幻像の砲火にかき消されることなく艦内に響き渡った。
◆突破
数分が数時間にも思えた頃、突然すべての幻像が弾け飛んだ。
艦の周囲に残ったのは静寂と、光の流れだけ。
そして再び、声が艦内に響く。
『……見届けた……汝らは、まだ奪わぬ……だが、道は険しきものとなろう……』
その言葉とともに、光の流れが変化した。
裂け目の奥に、真の地底回廊が姿を現す。
そこには、ただ黒く深い空間が広がっていた。
◆決意
艦内に疲労と安堵が混じった空気が漂う。
レイリアが子供たちを抱き締めながら微笑んだ。
「みんな……よく耐えたわね」
ルナが息を切らせながらも強く言った。
「……進もう。ここで止まったら、全部無駄になっちゃう」
遼は静かに頷いた。
「――全区画、地底航行を継続。これが俺たちの道だ」
〈みらい〉は奈落の門を抜け、未知の地下世界へと艦首を進めていった。
その奥で待つのは、“黒き潮”の真実か、それともさらなる試練か。




