第六十五話 影の声
闇の湖底を進む〈みらい〉は、なおも影の民の巨影に守られていた。
沈黙の護衛はすでに一日以上続いている。
その沈黙は友好か、あるいは監視か。答えを持たぬまま、艦内の空気は重く淀んでいた。
◆影の民の接近
深夜、艦首ソナーが異常な反応を示した。
ユイが目を細め、コンソールを操作する。
「……一体、接近しています。通常の護衛個体ではありません」
スクリーンには、他の影よりも遥かに巨大な輪郭が映し出されていた。
遼が短く息を吸い込む。
「来たか」
やがて、艦の正面にその巨影が立ちはだかった。
水中に光はない。だが、艦内の全員は確かに“視線”を感じた。
心臓を直接握られるような、圧迫感。
◆声なき声
次の瞬間、艦橋にいる全員の頭の中に声が響いた。
『……奪う者……なぜここに来る……』
ルナが顔を青ざめさせ、耳を塞ぐ。
「やっぱり……聞こえる……!」
遼は唇を結び、正面を睨む。
「……俺たちは奪う者じゃない。影の民よ、聞こえるなら答えてくれ。俺たちは、ただ真実を知りたいだけだ」
声は一瞬止み、やがて再び流れ込む。
『……真実……それは血を呼ぶ……』
◆ユイの介入
ユイが一歩前に進み、落ち着いた声で言葉を紡いだ。
「私はかつて、機械の意思として生まれました。奪うためではなく、守るために。
私たちはあなた方の敵ではありません。……どうか、教えてください。“奪う者”とは何者なのですか?」
静寂。
その後、声は低く低く、地鳴りのように答えた。
『……奪う者……それは……空より来たりし……黒き潮……』
艦橋にいた全員が息を呑む。
「黒き潮……?」遼が呟いた。
◆断片的な啓示
『……命を喰らい、魂を渇かす。
海を、空を、地を……同じように汚す。
我らはそれを拒み、深みに逃れた……』
ユイの目が鋭く光る。
「つまり……彼らはかつて“地上”に住んでいた……?」
影の声は肯定も否定もしなかった。ただ、低く震えるように続いた。
『……奪う者は……すでに“上”に……』
ルナが思わず叫ぶ。
「上……って、地上のこと!? じゃあ、もう……!」
レイリアがルナの肩を抱き寄せ、落ち着かせた。
「大丈夫。焦らないで。今は聞くことが大事」
◆遼の問い
遼は深く息を整え、影の巨影に向かって言った。
「……俺たちは、この世界の外から来た。だからこそ、この“奪う者”の正体を確かめたいんだ。
もし本当に地上を侵す存在なら……見過ごすことはできない」
声は、しばらく沈黙した。
そして、まるで試すように問い返してきた。
『……ならば問う……汝らは、何を“守る”……?』
遼の胸に重みがのしかかる。
答えを間違えれば、この場で終わると直感した。
短い沈黙の後――彼ははっきりと言った。
「俺は……人を守る。俺の仲間を、子供たちを、そして……この世界の命を」
◆影の応答
声は微かに揺らぎ、やがて低く響いた。
『……汝の言葉、虚ろにあらず。……だが、試練は避けられぬ』
その瞬間、湖底全体が振動した。
水が渦を巻き、艦体が軋む。
ユイが慌ただしくセンサーを操作し、驚愕の声を上げた。
「……地下のさらに下層が開いていく……! 地底の“門”が!」
影の声が最後に告げた。
『……進め……深き深き奈落へ……奪う者の影は、そこから溢れる……』
◆静寂の後
やがて巨影は背を向け、暗闇の中へと溶けていった。
護衛の影たちも姿を消し、湖底には再び不気味な静寂だけが残った。
艦内に、重苦しい沈黙が落ちる。
レイリアが小さく息を吐いた。
「……“奪う者”は、この下から……」
ルナは拳を握り締め、涙をこらえながら言った。
「だったら……行くしかない。ここで止まったら、きっと全部奪われちゃう」
ユイはそんなルナの姿を見つめ、やわらかに微笑んだ。
「そうですね。……命を守るために、進むしかありません」
遼はゆっくりと頷いた。
「――よし。目標は決まった。
〈みらい〉は地底の門を越える。奪う者の正体を、この目で確かめるために」
暗闇の水底で、〈みらい〉は静かに艦首を下へ向けた。
待ち受けるのは、未だ誰も見ぬ奈落。
その奥に、世界を脅かす“黒き潮”が潜んでいるのだろう。




