第六十四話 水底の囁き
〈みらい〉はゆっくりと、地底湖の暗闇を進んでいた。
光を放つのは、艦首に装備された最低限の航行灯のみ。
周囲には、影の民の巨影が静かに佇んでいる。
まるで湖そのものが意思を持ち、艦を見守っているかのようだった。
◆沈黙の護衛
艦橋で遼は黙したまま、スクリーンに映る暗い輪郭を見つめていた。
「……本当に攻撃してこないのですね」
ユイの声は低く抑えられている。
「護送のつもりだろう。俺たちが約束を破らないか見張ってる」
遼の言葉に、艦内の空気がさらに引き締まる。
レイリアが後方の椅子に腰を下ろし、疲れたように微笑んだ。
「子供たちには“散歩みたいなもの”って言っておいたわ」
「うまい言い方だな」
「本当は……私自身が信じたいのよ。敵に囲まれていても、散歩のように進めるんだって」
艦内の静けさに、ユイの指先が淡い光を灯す。
「艦長、外部音響を拾いました。……湖の奥から、不規則な脈動が」
遼は眉を寄せた。
「心臓の鼓動みたいに聞こえるな」
◆民間人の声
避難区画では、避難民たちが不安を紛らわせようと小さな集会を開いていた。
カラムが立ち上がり、低い声で仲間たちに語りかける。
「俺たちはここまで来られた。あの影の化け物だって、俺たちを守ってる……そうだろ?」
若者が震える声で答えた。
「でも……もし約束を破ったら? あいつらが俺たちを敵と決めたら……」
「なら守ればいい。俺たちは武器なんか振るえない。ただ、黙って進むだけだ」
その言葉を耳にしたルナは、胸に手を当てて小さく頷いた。
――この人たちは信じている。なら私も信じなきゃ。
◆ユイの疑念
夜サイクル。艦内灯が落ち、温室の照明だけが柔らかに艦を照らしていた。
ユイは一人、芽吹き始めた鉢の前に膝をついていた。
「影の民……あの目には“恐怖”と“悲しみ”が混じっていた」
独り言のように呟いた時、背後から遼が声をかけた。
「何か感じたのか」
ユイは振り返らずに答える。
「彼らは“奪う者”を恐れている。……でも、それは外の帝国や竜騎兵のことじゃない」
遼の表情が曇る。
「じゃあ誰だ?」
ユイは土をそっと撫で、微かに笑った。
「まだ分かりません。ただ……とても近い気がします」
◆湖底の囁き
翌朝。
艦首ソナーが不意に反応を示した。
規則性のない低周波――だが、言葉のように繰り返されている。
『……奪う……奪う……』
艦橋にいた全員の背筋が凍りついた。
「翻訳にかけられるか?」遼が問う。
ユイは即座に首を振る。
「言語ではありません。……むしろ、心に直接響く“衝動”です」
ルナが顔を青ざめさせる。
「まるで、誰かが……頭の中を覗いているみたい」
◆子供たちの異変
その頃、避難区画でも奇妙な現象が起きていた。
数人の子供が同時に目を覚まし、口を揃えて同じ言葉を呟いたのだ。
「……奪う者が来る」
「奪う者が、上から……」
母親たちが慌てて抱き寄せるが、子供たちは正気に戻ったように瞬きをし、
「なんで泣いてるの?」と無邪気に首を傾げた。
医務区画に駆けつけたレイリアは診察を行い、
「異常はない……でも、これは偶然じゃない」と顔を引き締めた。
◆艦長の決意
艦橋に戻った遼は、影の民が沈黙を守っていることを確認した。
彼らは確かに護送している。だが、迫り来る“囁き”に関しては何も触れようとしない。
遼は唇を噛み、低く言った。
「……あいつらは知ってる。だが言わない。
俺たち自身が確かめろってことか」
ユイが瞳を光らせ、静かに頷いた。
「ならば――進みましょう。奪う者の正体を、必ず突き止めるために」
◆微かな光
その夜。
温室で新しい芽が一斉に顔を出した。
子供たちは歓声を上げ、ルナは涙ぐみながらそれを見つめた。
「……こんな闇の中でも、ちゃんと生きていけるんだ」
ユイは芽を指で優しく撫でながら、小さく微笑んだ。
「命は、奪われるためにあるんじゃない。育つためにある」
その声は、闇に潜む囁きを拒むように艦内へと響いた。




