は侵略する
がたんごとんと馬車が揺れる。
隣に置いてある大きな樽を支えながら、【男】は後悔の中にあった。
この中に入っているのがなんなのか、彼はまったく知らされていないが、ろくでもないものだとだけは予想がつく。
ちゃぷ、どぷと重い水音がするこれを、これから行く先の水に投げ込めといわれている。
毒なのかなんなのか……。
決して漏れないようにか、べったりとしたものが樽のすきまの上から塗りこめられていて、その臭いもひどい。
【男】は自分の手をまじまじと見た。
馬車と言っても、彼が乗せられている……載せられているのは、人間が乗るようなものではなく、荷馬車。
それも幌がけのようなものではなく、窓も無い箱馬車。
窓が無いのだから、周囲は暗いというよりも黒く、鼻を摘ままれてもわからないだろう。
だが彼には、自分の手が視えた。
自分の手ではない、自分の手だ。
大きく、節くれだっていて、……異色の肌であることまでは闇の中では見えないが、それでも人間のものではないことだけはありありとわかる。
もう何日も、何日も、彼は他のゴブリンと、ゴブリンと同じ数の樽とともに箱馬車に詰め込まれ、運ばれていた。
日数の感覚もくるってしまった。
休憩は与えられているし、中で眠っていても何も言われない。
人間の体ではないからか、多少変な寝方をしていても体は痛まなかった。
【男】は自分の体を奪われてしまっていた。
三食、宿舎、着るものなど必要なものや日用品も支給される仕事なんて、もとよりうますぎる話だったが、実はこれ自体は嘘ではない。
逃げないような担保として、身体を奪われるなんて誰が考え付くものか。
雇い主の所へと言われて連れていかれ、もろもろの契約書に名前を書き―――それだけが彼の書ける文字だった―――祝いだと食事を用意され、ここを使えと用意された部屋で横になり、……目を覚ました時には、首輪をつけられたゴブリンの体だ。
部屋も粗末な大部屋に、幾人ものゴブリンが詰め込まれているものに変わっていた。
目を覚ましたのも、他のゴブリンに蹴られたからであった。
その様子に慌てて逃げようとして、【男】は自分もまた変わってしまったことに気づいた。
そのゴブリンたちは互いになにかいっていたのだが、何を言っているかわからない。
自分でも言葉を発しようとしたが、声は同じような喚き声や叫び声のようなものにしかならず、先に諦めていたのだろうゴブリンに殴られた。
しばらくして部屋に入ってきた人間の男に、その場にいたものたちは自分たちがどうなったかを教えられた。
逃げようとしたのだろうか、話の途中で小柄なゴブリンの一匹が飛びかかったが、その後ろに控えていた鎧兜の別の男に、一刀のもとに切り捨てられたのを見れば、抵抗する気も失せようというものだ。
加えて、彼らのつけている首輪には魔法もかけられていて、逃げれば元の体ごと殺される、という。
代わりに、彼らはこの体で居る限り、何度でも生き返ることができる……と。
そんなことあるはずがない。
そう思ったけれど、この状況で逆らうことはできない、信じるしかない。
それが嘘であったとしても。
がたん、と馬車が大きく揺れて止まった。
外から馬車の扉を開き、出ろと指示するのも同じようなゴブリンだ。
ただ、その首に彼のような戒めはない。
忠誠を認められているとか、自分で納得してゴブリンに変化したとか、そういうものだろうか。
彼は重い……人間の時分であったなら、とても持ち上げられないくらい大きく重い樽を背負って、馬車を出た。
久しぶりの外は眩しく見覚えのない森の中で、【男】にはここがどこなのか見当もつかなかったが、王都からずいぶん離れていることだけはたしかだった。
身振りで行け行けと急き立てられるままに進めば、森の木々の切れ間から、湖に突き出た崖の上に出た。
この水に持ってきた樽を落とせば、彼らの今回の仕事はひとまず終わりだ。
どぼん、どぼんと音をさせて、樽が水に落ちていく。
だが、【男】の前の順番のゴブリンが、樽の背負い帯を外しそこねた。
落とすために後ろにのけぞっていたため、そのゴブリンはバランスを失う。
【男】は咄嗟に、そのゴブリンへと手を伸ばした。
だが彼はベルトを緩めていて、彼の方は樽の背負い帯から簡単に抜け出てしまった。
まっさかさまに落ちた水の中、【男】は樽が内側から裂けたのを見た。
透明な、しかし何かがいるとわかる歪みが水中に広がり、樽を背負っていたゴブリンを包む。
逃げなくては。
咄嗟に水の上に顔を出した彼の上に影が差し、彼が背負っていた樽が降ってきた……。
目が覚めたとき、【男】は自分が最初にゴブリンとして目覚めた部屋にいることに気づいた。
死んでも生き返るのは本当だった……。
安堵とともに、死んでも終わらない事にも、【男】は気づいてしまった。
人間の体に戻れるまで、彼はゴブリンとして生き返り続けるしかない。
それでも、自分の体を殺されるよりはと、従うしかなかった。
【男】はこの国の片田舎の出だった。
だから彼の中に有る地理の知識は、村から近くの町へ出荷のために行く道や、それこそ王都までの道のりくらいのもの。
だから彼の中に、自分の死んだあの大きな湖が、隣国に入ってすぐのものであるという知識はまったくなかった。
樽の中身がまったくわからなかったし、湖がどんな場所であるかを知らなかったから、それがどういう意図のもとでのものか、わからなかった。
そしてまたこの先も、彼はゴブリンの中にいる限り、国内最大の水源地をスライムによって汚染された隣国の様子など、ウワサにも聞くことはできないのだ。
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