129話 須藤さん
集団浴場に井出がノソノソと入ると、既に先客がいた。
当たり前だが、同じ安アパートの住人である須藤であった。
「こんばんは」
須藤は先日のような、申し訳なさそうな態度ではなく、どこか機嫌がよさそうに、挨拶をしてきた。
湯船に浸かっているせいもあるだろうが、それを差し引いても顔が赤いのは軽く一杯やったのだろうということが、よくわかる。
「どうも、こんばんは」
井出は少し、不思議に思いながらも、できる限り穏和な表情を取り繕って挨拶しつつ、湯船の隅へ浸かった。
「いやぁ...井出君。ちょっと聞いてくれるかい?」
須藤は珍しく慣れ慣れしく、近寄ってきた。
どうも酒臭かったが、井出は我慢した。
ここの安アパートに住んでいる連中の態度は常に、悲しんでいるか、喜んでいるかの二種類だ。
後者に至ってはアルコールによって手に入れた一時的な物が多数を占めている場合が多い。
「なんですか?」
「ふふ...いやぁ仕事が決まったんだ...」
彼は多少呂律が回っていない口で、とても嬉しそうに言葉を紡いだ。
「それは、おめでとうございます」
井出としても、常に悲しげ姿を見せる中年男性が、今日ばかりはとても嬉しそうなので、自分としてもどこか暖かい物が胸にこみ上げたが、この状況で自分も定職に就けていれば、もっと嬉しいものであると内心感じた。
「いやね...今までずっと派遣労働だったけど、今度はちゃんとした仕事さ...詳しくはいえないが、良い仕事だよ」
須藤さんは愉快そうに言っているが、詳しく言えない時点で、多分マトモな仕事でないことが、長いこと定職に就けていない身である井出には、簡単に察することができた。派遣でないとすると、大方ブラックだろう。
そうでなければ、仕事など回ってくるわけがない。
ただ、このまま不安定な人生を歩み続け、いずれ一室にて首を吊っていたよりは、何十倍もマシだろう。
たが、少し寿命が延びただけなのかもしれないと、頭の片隅で何かが囁いたが、井出はその声を湯船の熱に押し込んだ。
「ちょっと前祝いでさ...お酒持っていくから、あとで部屋で一杯やらないかい?」
須藤さんは湯の熱で心も体も十二分に暖まったのか、あろうことか井出の手を握っていた。
それはどこと無く、哀れみを乞っている仕草に似ていた。しかし、その誘いは金欠の井出には有り難いことではあったが、部屋に吉沢が居ることを考えると、なかなか承諾できたものではなかった。
だが、ここで断るのも気が引ける。
下手をすればこれが最後の酒であるかもしれない。
井出にとっても、須藤さんにとったとしてもだ。
「でも...ちょっと今部屋に友達がきてて...」
「じゃぁその友達と一緒に!」
井出は申し訳なさそうに、断ろうとしたが、須藤さんのテンションは天井知らずなのか、今日ばかりは異様なまでに食いついてきた。
湯の熱で流す汗とは別に、どことなく冷たい汗が顔中から吹き出すのを井出は感じた。
「...誰?」
「同じアパートに住んでる須藤さん」
「どうもぉ!須藤でぇす!」
吉沢が動揺と嫌そうな色を織り交ぜて、顔に浮かべつつ、井出と彼の肩に掴まっている須藤さんを見た。
集団浴場から出て、少し荷物を部屋から須藤さんが持ってくる間に、吉沢に少し事情を説明しようと試みたのだが、既に準備してあったのか須藤さんは、素早く井出の肩に掴まった。須藤さんが自身の部屋のドアを開けた際に、玄関から女物の靴が見えたが、井出はそれについて考えないことにした。
「はぁ...どうも、吉沢...です」
彼女は酔っぱらっている須藤さんに、一応挨拶しながらも、顔にはさっさと出ていけと言いたい気持ちをありありとしている。
井出としては、お前も出ていけと思うのだが、それについても考えないことにした。
「なんだよぉ!井出君。彼女いたのかい?」
「いや、そういうのでは...」
しかし、須藤さんは邪険にしている吉沢など一切気にせず、上機嫌で井出に絡みついてくる。
中年男性が絡みついてくるなど、鳥肌ものではあるが、社会人とはそういうものだ。
「まぁいいや。今晩は飲もう!」
そういって須藤さんは、井出の体から離れると、倒れるように床に転がって、早速持ってきたビニール袋から、缶ビールを三本ほど取り出して、テーブルの上に並べ、ついでにチーズやジャーキーなどのツマミを置き始めた。
その際に、テーブルの2分の1を占領している、吉沢のノートパソコンが気になったのか、そちらに目を向けた。
「なんだい?ゲームかい?」
「え...まぁ」
吉沢は気まずげにそう答えつつ、キーボードをカタカタと叩いている。
井出は少し、気まずそうになる吉沢を少々面白がりながら、テーブルの片側に腰を下ろした。そして、寝転がっている須藤さんに座布団を渡す。
「おー...悪いね。...それ Lamia?だろう?」
座布団を受け取りつつ、須藤さんが意外なことを言った。まさか須藤さんのような中年男性が、ゲームのことを知っているとは寝耳に水だった。
「...知ってるんですか?」
吉沢はキーボードを叩く手をやめて、須藤さんの方を見た。意外で仕方ないという表情だった。
「あぁ。数年前に開発に関わったよ」
須藤さんはこれまた意外なことを言いつつ、缶ビールのプルタブを捻った。
「開発に?」
「うん。...そうね。あのときは趣味でね。息子に少し頼まれたことがあって、色々弄くったんだよ」
その言葉に井出も、意外そうな顔になる。
田中以外に、須藤という名字の開発メンバーが居たらしい。確かにああも大きいゲーム一人で作れるわけが無く、数人のサークルで制作するのが普通だろうが、まさかこんな身近に、その一人の親がいるとは思わなかった。
「ど...どの分野を?」
吉沢は、先ほどの邪険そうな表情を消し去って、興味津々に須藤に聞いた。
「そんな大した物じゃないよ。物理演算さ...ほら、物が真っ直ぐとぶとか、落ちるとかの制御」
須藤さんはぐびぐびとビールを飲みつつ、たまにチーズを口に放りこんでは、言葉を紡いでいく。
「でも、途中で息子に他のとこも弄くってくれって頼まれてね。金にもならないのによくやるよ...まぁそれが若さって奴かな」
「他のとこ?」
「うん。あれは変な話だったな...よく覚えてないけど...妙に大きいデータを組み込んでくれって言われてね...あれは、息子の友達からだったかな?うん...そうだ。確か女の子だったよ。君みたいな別嬪さん」
須藤さんはどうも不躾な瞳を、吉沢に向けたが、彼女はそのような事に気を配るほど自尊心が無いらしく、須藤さんの話に聞き入っているようだった。
そんな二人の傍らで、井出も須藤さんと同じように缶ビールのプルタブを捻る。
アルコールを口にするのは久しぶりだった。
「女性ですか?どんな?」
「そうねぇ...そこまでよく覚えてないけど...あぁ。君みたいに髪が長くてね。腰まで伸びてた」
「...それは何年前の話ですか?」
「そうねぇ...5年前かな。うん」
その須藤さんの言葉に、何故か吉沢は表情を強ばらせた。まるで怪奇現象にあったような表情だ。
確かに、目の前でぐでんぐでんになって、時に井出に絡みつく須藤さんは怪奇現象のソレに似ていたが、それとは違うらしい。
「名前は?名前はわかりますか?」
「その女の子の?....ごめんね。そこまでは覚えてないよ」
そう須藤さんは酔いながらも、普段の癖なのか、少し申し訳なさそうに言って、ビールを再び流し込んだ。
「そうですか...あぁすいません。変なこと聞いて...」
「いいよいいよぉ。それより、君も...えぇと吉沢さんか、君も飲みなよぉ」
須藤さんがそう、微笑ましくビールを勧めるので、吉沢はその勢いに押されてか、渡された缶ビールのプルタブを捻ると、少しずつ飲み始めた。
井出は少し、ビールの味に飽きたので、いつもの缶コーヒーのプルタブを捻っていた。




