128話 井出の日常
空は青々としていて、とても清々しい陽気なのだが、対照的に井出の心境はどんよりとしていた。
昨晩に遅くまで『Lamia?』に勤しんでいたせいもあり、今朝方に鏡に映った彼の顔には、いつもの強面に酷い隈が追加され、不気味さを演出していた。ここのところ寝るのがだいぶ遅い。普段は健康に気を使うことなど滅多にないのだが、今日ばかりは部屋に戻ったらさっさと寝ようと考えていた。
なんとかコンビニのバイトに支障は出なかったが、問題はそのバイトを終えて、近くの公園にて一服をしていた時であった。
ふと昨晩のゲーム内で起きたことはなんであったのかと、井出は考え始めていた。何故かやたらと『巫女』だの『加護』との単語が出てきたが、自分はいまいちどういう事なのかわからない。
ただ皆言っているから、雰囲気的に自分も使った方が良いと思い、その単語を打ち込んでいただけなのである。
「巫女...ねぇ」
紫煙を青空に吐き出して、空気を小規模に汚染しつつ、井出はぼんやりと呟いてみた。本当に敵も味方も昨晩はその単語を大量に使っていたが、一体それが自分と何の関係があると言うのか。
確かに2.3年前に『Lamia?』にどっぷりとはまっていた時期は、そういう関係の組合に居た。だが、そんなこと心底どうだっていいことではないだろうか。
一応、多少の記憶が無いわけではない。
だが、それはあまりにも曖昧なもので、昨晩の出来事についていけるほどの情報ではなかった。
「一体なんのことだか...」
再び紫煙を吐き出しつつ、呟くと、唇に熱い物を感じ、目線を燃焼している煙草にやると、既に火はフィルターに達しかかっていた。
しょうがないので、井出は煙草の火を消し、吸い殻をジーパンの尻ポケットに押し込んだ。
「まぁ...関係ないか」
そして、ベンチから腰を上げてのっそりと帰路につくことにした。色々考えたとしても所詮はゲームだ。
現実になんら影響はないはずだ。
それよりも考えねばならぬ事が、井出には沢山ある。
今月の仕送りもなんとか受け取ることができたが、来月はどうなるかわからないのだ。
今は仕送りとバイトの給料でやっていけるが、一寸先は闇であり、とても深刻な問題である。
本来ならゲームなどやっている場合ではなく、毎日職安に通うべきなのだが、それほどのやる気が井出は湧かない。状況は逼迫しているというのに、とても暢気な奴であると、井出は自嘲した。
そう思いつつ、公園を出ようとしたところで、先ほど自分が座っていたベンチの反対側が目に付いた。
そこには一人の薄汚れている中年の男性が寝転がっていて、みるからに自分はホームレスであると言うような風貌をしている。
「明日は我が身か」
井出はそう寂しげに、寝転がっている彼に聞こえないように、心の中で呟いた。
今時珍しいことでもない。寧ろ不景気と連日メディアで騒いでいるのだから、あのような人が大量にいることは間違いないのだ。それを自分らはどこか意識の片隅に置き続けている。
本当は知りたくないのかもしれない。
井出はそう考えながら、男から背を向けて公園を立ち去りつつ、部屋へ戻る道へ入った。
安アパートに戻ると、辺りは既に夕焼けに包まれ、老朽化した壁に朱色が染み込んでいた。
そして、己の部屋がある二階へと階段を上り、自分の部屋の前に立って、鍵を差してドアノブに触れると、井出はある違和感を感じた。
開けたはずであるのに、逆にドアノブが開かないのだ。
「閉め忘れたか?」
そう呟きながら、鍵をもう一度差して、ドアノブを捻ると今度はちゃんと開いた。
寝不足でどうも注意力が足りなかったようだ。
だが、仮にドアが開いていて、空き巣に入られたとしても、井出の部屋から盗むほどの価値のある物があるだろうか。
貯金通帳などのものは常に持ち歩くようにしているし、部屋に残っているような物で、価値があるような物はせいぜいノートパソコン程度しかない。
それも、古い型で中古屋に売っても二束三文にしかならないほどの代物だ。
そう考えるとさほど心配することはないと、井出は足を玄関へと入れた。
だが、その時再び違和感を感じた。
井出の物ではない靴が玄関に一組置いてある。
最近の空き巣はなかなか礼儀正しいのかと、井出は暢気なことを考えつつ、少し身構えた。
置かれていた靴は、安っぽいスニーカーであり、少し汚れていた。だが、どこかで見たことのある靴だ。
「柵山さんですか?」
井出は先日に部屋へ押し入ってきた、あの年上の彼の事を思い出した。あの不躾な彼の事だ。
鍵が掛かっていなければ、遠慮なく入ってくるはずだ。
不法侵入なのであるだが、逆に不用心だと前に叱られたことがある。
「不法侵入ですよ」
そう言いつつ、井出はゆっくりと玄関から警戒を兼ねて、土足のまま部屋へ上がった。
玄関からリビングへは3メートルも無く、一応ちょっとした戸で仕切られている作りだった。
だが、不法侵入者が柵山であれば、井出はさほど警戒はしなかった。だが、何故こうして腕を突き出しつつ、身構えながら、戸の取っ手を掴んだかというと、玄関に置かれていたスニーカーは柵山の物とは考えにくかったからだ。
彼は金はない癖に、着ている物には気を使う人間で、あのような安っぽいスニーカーは履かない筈だ。
となれば、侵入者は柵山でない可能性が高い。
だが、空き巣が玄関で靴を整えるものであろうか、疑念は耐えなかったが、井出が慎重に戸を開いてリビングを確認すると、疑念はすぐに吹っ飛んだ。
「鍵かってないのが悪い」
不法侵入者はリビングの中央にある、小さなテーブルの脇に置かれている、井出の煎餅布団に腰を下ろして、何故か不満げな声を上げた。
少し清潔感があるとは言いにくいジャージに、肩まで伸びた、手入れもろくにされていないような髪。
「吉沢...なんでお前、俺の部屋に...」
井出は少々戸惑いつつ、不法侵入者の名を呼んだ。
「それより、臭いよ。お前」
だが、吉沢は全く井出の言葉を気にせず、逆に蠅を追い払うかのように手を振った。
確かにここのところジメジメとした陽気が続くせいか、井出の身体は少々汗くさい物があっただろうか、ろくに着る物も髪も手入れしない、吉沢のような奴に文句を言われる筋合いは無い。
「風呂入ってきなよ」
彼女はそう井出をせかしつつ、勝手に持ち込んだのであろう。己のノートパソコンを小さなテーブルの上で弄くっている。充電機器をコンセントに繋いでいるが、光熱費も馬鹿にならないのだと、言ってやりたかったが、そこまでの気力は湧かなかった。
ここのところ何かと、招かれざる客ばかり、部屋に着ている気がする。だが、招いた人間などここ数ヶ月いないのだが。




