糸の章 紡糸事業の導入について
その年も前の年も雨が多かった。しとしとと降り続ける雨が途切れたとしても、厚い雲が晴れることはなく、太陽が顔を出す日が少なかった。雨が降り続いているのだ、大地はぬかるんで乾くことはない。
畑に植えた作物はひょろひょろとしていて、強い風が吹くと大地に倒れた。辛うじて花が咲いても、実がなる前に葉が黄色くなって、やがて枯れた。
山に入って木の実や果実を探そうにも、泥濘に滑って危険だった。与える餌を用意することが出来ず、それどころか自分たちの食い扶持も怪しくて、家畜たちは食料へと変わる。
もうダメかもしれないと誰も彼もが考えた時、久しぶりに晴れた。
山の幸を得るべく足を踏み入れるが、川は茶色く濁り、轟々とすごい音を立てていた。若木は根元から倒れ、道をふさいでいた。
僅かに残った木の実を取り尽くし、どうしようもない……そんな空気が流れていた時、その人は現れた。
「糸を紡いでいただきたいのです」
これまで見たことがないくらいに美しい女性だった。キラキラとした瞳がとても印象的だった。
次の領主様だという煌びやかな男性と共に現れたその人は、鈍色の繭を携えていた。その繭を真白い指で摘まむと、その繭から糸を紡いでくれれば、買い取ると言い出したのだ。
次期領主様の御付きの人たちは、食料を村の納屋に入れていた。久しぶりにまともな飯にありつけると喜んでいた村人たちは、彼女の言葉に怪訝そうな顔を浮かべていた。
「紡いだ糸を売ったお金で、食料はもちろん、生活必需品が買えるように手配しましょう」
「種もか?」
誰かが尋ねた。村には既に種となる籾や芋は残っていない。春が来ても、畑に植える物がない。死活問題だった。
「もちろん。必要な量をおっしゃっていただければ、糸の受取りに手配する行商人に持たせますわ」
「……やろう」
誰ともなしに答えていた。繭から糸を紡ぐのにどのくらい時間がかかるかなど分からない。だが、もともと綿花で糸を紡いでいたのだ。似たようなものだろうという思いがあった。
次期領主様と村長が言葉を交わしていた。
「昨年と今年、天災があった。その救済措置として、来年まで無税とする」
村長は深々と礼をして「有難い事でございます」と感謝を告げる。
「領主様のお心遣いに感謝しておりますと伝えてくださいまし」
「あぁ。伝えよう」
チラリと次期領主様が彼女を見た。
「そうだな。しばらくは糸からは税を取るまい」
周囲の大人たちの耳が動いた。ゴクリと唾を飲み込む音も聞こえる。
「し、しばらくといいますと?」
慎重に村長は言葉を紡ぐ。
「ヴィルベルト様、5年ほどでいかがでしょう」
笑みを浮かべた女性はカラリと言い放つ。
「5年か……そうだな。村の立て直しもあるだろう。無くなった備えも新たにしなくてはなるまい」
次期領主様が呟く声は大きくなかった。だが、シンと静まり返った広場にその言葉は確かに広がっていた。
「ご、五年でございますか」
村長は呻く。糸を紡げば全て村の収入になるのだ。大人たちの目の色が静かに変わっていた。
「もちろん、糸の品質に合わせて買取額は変わりますわ……そうですね、最低ラインでこのくらい。品質が良ければ、更に割増しで買い取らせていただきます。よろしくて?」
提示された金額は安くはなかった。
「村長、それに村の者たちにも、一つ伝えておこう」
次期領主様の声にビクリと大人たちの肩が震えた。
何を言われるのかと戦々恐々としているなか、次期領主様は笑いを堪えるように告げる。
「糸を紡ぐ際、魔力を吸い取られる。その魔力が糸の価値を上げるのだが……人は魔力を使い切れば倒れる。お前たちが考えるほど、楽に糸は紡げんぞ?」
「あら、大丈夫ですわ」
次期領主様の言葉に女性はコロコロと笑う。
「まさか、日々の生活を忘れてまで、糸を紡ごうなんて方、いらっしゃるわけないですもの」
バツの悪そうに大人たちは顔を見合わせていた。
次期領主様と婚約者である女性の置き土産である籠いっぱいの繭。紡いでみれば確かに微かに糸に魔力が吸われる。繭玉一個を糸にすれば、魔力の少ない人はしんどそうに座り込んでいた。村の中でも比較的魔力が高いおばば様とて、三つ仕上げるのがやっとだった。
ただ、糸を紡ぐ方法自体は難しくない。繭から剥がすように糸を捲るだけでいいのだ。子供にも出来る簡単な作業だった。
もちろん、魔力の不安定な幼子には向かないだろう。だが、一般的に7つを越えれば魔力が安定する。そうなれば、貴重な戦力だ。
俺も例外じゃない。父母や兄姉とともに繭から糸を剥がし、糸巻きへと巻きつける。剥がすタイミングに合わせて魔力の質を変えれば、糸が滑らかになる気がした。
一晩眠れば魔力は回復する。様々な方法で糸を紡いだ。竈や蠟燭に灯す火、喉が渇いたときの水、豊穣を願う大地、傷や病を軽くする治癒。それらを纏わせた魔力を吸わせて出来た糸を見比べる。
(糸なのに火の性質を好むのか?)
竈や蝋燭に炎を灯すときのような要領で繭糸に与えた魔力。昼間の明るい日差しにかざせば、鈍色の光沢の中にオレンジ色が混じる。室内では変わらないが、お日様の元では明らかに他の糸より艶やかだ。
「あんたの糸、綺麗ね」
羨ましそうに俺の糸を見た姉。滅多に褒められることなんてないからか、酷く照れ臭かった。
「……コツがあるんだ」
「すごいじゃん。あたしにも教えてよ」
「竈に火を炒れらる様になったら教えてやるよ」
姉は魔力の扱いがあまりうまくない。台所仕事に必須の竈への火入れもまともに出来ない。馬鹿にされたと受け取ったのだろう……へそを曲げて、しばらく口をきいてくれなかった。
村人総出で無理ない程度に糸を紡げば、短期間にそれなりの量が出来上がった。
だが、品質もまちまちで、買取額に差が出るだろうと判断した村長は、無税の間は個別での糸の売買を禁止し、村として一括売買で、村の必需品を買った残りを分配することに決めた。
村長が手紙を送れば、比較的早く行商人がやってきた。
糸を査定する行商人たちは、大量の荷物を運んできていた。査定した金額を確認し、村長が受け取る。その金の中から、事前に手紙で依頼していた種籾や種芋と交換してもらう。領主様からは、成長の早い果物の苗木まで届けられた。
残った金を村長の奥さんが「お疲れさまでした」と言いながら一人一人に配っていた。日頃小言ばかりの大人たちが、子供のような顔で金を受け取る。
俺の手元にも小銭が分けられた。初めての金だ。
「他にも持ってきたから、ぜひ買い取ってくれ」
行商人の言葉に、お金を受け取った大人たちは我先にと群がる。姉も友人と共に、貰った銭を握りしめて、綺麗な髪飾りを眺めていた。
数人いた行商人の荷物が空になる勢いで買い物をしている間、行商人の頭と村長が言葉を交わしていた。どうやら次の繭を受け取ったらしい。
「あまり皆に無理はさせないようにな」
「はぁ……分かっております」
苦笑いを浮かべた村長に、行商人の頭は「仕方ねぇな」とカラカラと笑って、受け取った糸の山を丁寧に箱に仕舞っていた。糸の品質ごとに分けて箱詰めしている。何となく眺めていれば、自分の糸が一等輝いて見えた。
「ところで村長。この糸を紡いだのは誰だ?」
行商人の頭が村長に尋ねる。その糸は俺が紡いだ奴だ。
「俺だよ」
思わず答えていた。少し自慢げな声色だったかもしれない。
「へぇ……坊主か。なかなかに上手く紡いだな」
「あぁ。コツがあるんだ」
ニヤリと笑う。いろいろ苦労を重ねたんだ。鑑定役なら分かってくれなきゃ困る。
「これならお嬢も喜ぶだろう」
行商人の頭が酷く嬉しそうなのが不思議だった。
数年後、俺は領都の学問所にいた。魔力を上手く吸わせて紡いだ糸が功を奏したらしい。
独学の魔力操作を更に磨きあげないかと勧誘されたもんだからその気になっちまった。
学問所で知ったんだが、この国には魔法学院って奴があるらしい。そこで今よりも凄い糸が作れるよう研究してこようと思う。
それだけじゃない……
共に領都の学問所で切磋琢磨した仲間たちと共に、新たな糸を、布を、染料を見つけて帰ってくると、あの女性に約束したのだ。
そう。ローデヴェルク侯爵の奥方であるイヴォンネ様に……
꧁∙·▫ₒₒ▫ᵒᴼᵒ▫ₒₒ▫꧁꧂▫ₒₒ▫ᵒᴼᵒ▫ₒₒ▫·∙꧂
聖暦890年某日。
繭を託した村から連絡が届く。種芋や種籾、その他求められた種や苗とともに、大量の繭を用意させ、カレイド商会の隊商を派遣した。彼らは渡した金を回収してみせると、選りすぐりの商品を持って行ったようだ。
ちなみに、カレイド商会の商会員たち全員に繭から糸を紡がせ、実際にどのような糸が出来るか検証させていた。なので、糸の査定も出来る。今回は最初の村ということで、査定の得意な者を派遣させていた。
帰ってきた商会員から糸を受け取れば、それなりの品質のものが想定以上に集まっていた。村人たちはだいぶ無理を重ねたらしい。
体調が悪くなっていなかったかと、今回の隊商の頭を務めた男に確認すると、重篤な症状こそなかったものの、体調を崩す者は出たらしい。やはり、少し考えなくてはならない。
男から「お嬢のお楽しみだ」と箱が渡された。開けてみれば、明らかに品質が良いと分かる糸が収められていた。聞けば、今回の村の少年が工夫を重ねて作った代物だというではないか。
日に翳せば、鈍色の光の中にオレンジ色が煌めく。僅かなオレンジの光が、まるで希望の光に見えて、胸が熱くなる。
これらの糸で布を織るよう、糸と共に機織りの街の職人たちに手紙を送る。激励がてら、前回届いた布の改良点を上げておくことにした。決してダメ出しなどではない。より良い布を織るための助言である。
つまり……そう、激励だ。
<イヴォンネの日誌より抜粋>




