第8話「夜会の招待と戸惑いの伴侶」
数日後の午後、ルシアンの部屋に初老の執事が訪れた。
彼の手には見事な金箔の装飾が施された封筒が握られている。
「旦那様からのご伝言でございます」
執事は深く頭を下げて静かに言葉を続ける。
「今宵の王家主催の夜会にルシアン様も同伴するようにとのことです」
ルシアンは耳を疑って手元の本を取り落としそうになった。
王家主催の夜会といえば国中の高位貴族が集まる最高の社交場だ。
没落寸前の男爵家の次男が足を踏み入れていい場所ではない。
「私のような者が公爵閣下の隣に立つなどあり得ません」
ルシアンは青ざめた顔で首を振って辞退の言葉を口にする。
「どうか閣下にお伝えください。私には不釣り合いだと」
しかし執事は困ったようにかすかに微笑むだけだった。
「すでにお召し物の準備も整っております」
執事の合図で数人のメイドが部屋に入ってくる。
彼女たちが慎重に運び込んだのは、目を奪われるほど美しい礼服だった。
深緑色のベルベット生地に銀糸で精緻な刺繍が施されている。
クロードの瞳の色に似た灰色の飾り帯がアクセントになっていた。
それは明らかに公爵の伴侶として仕立てられた意匠である。
ルシアンは抗う間もなくメイドたちの手で着替えさせられていく。
採寸などされていないはずなのに、服はルシアンの体に完璧に馴染んだ。
鏡の前に立たされたルシアンは自分の姿に息を呑む。
青白かった頬にはほんのりと赤みが差して、別人のように整えられていた。
「お迎えの馬車が正面玄関でお待ちでございます」
逃げ出すことはできないのだとルシアンは悟る。
重い足取りで部屋を出て、長く広い階段を下りていく。
玄関ホールにはすでに夜会の装いを整えたクロードが立っていた。
漆黒の礼服に身を包んだ彼の姿は、他を圧する存在感を放っている。
ルシアンが近づくと、クロードの灰色の瞳がゆっくりと動いた。
頭の先からつま先までを確認するように視線が這う。
ルシアンは緊張で身を硬くしてうつむき、自らの手を強く握った。
「……悪くない」
頭上から降ってきたのはかすれた低い声だった。
ルシアンが驚いて顔を上げると、クロードはすでに背を向けている。
しかしその耳元がほんの少しだけ赤く染まっているように見えた。
「行くぞ」
クロードは短く告げて、馬車へと続く重厚な扉の外へ歩き出す。
ルシアンは慌ててその後を追い、夜の闇が広がる外へ出た。
待機していた馬車は、公爵家の紋章が誇らしく刻まれた四頭立てだ。
従者が扉を開けてルシアンが先に乗るよう促される。
足元が震えて馬車の高いステップを上がりそこねそうになった。
その瞬間、背後から力強い腕が伸びてきてルシアンの腰を支えた。
背中に触れる硬い胸板とかすかな煙草の香りに全身が硬直する。
「……足元に気をつけろ」
耳元で囁かれた声に、ルシアンの顔は一瞬で火のように熱くなった。
クロードの腕はすぐに離れて、彼は何もなかったようにルシアンに続く。
向かい合わせの座席に座っても、ルシアンの心臓は激しく鳴り続けていた。
車輪が動き出し、馬車は王宮に向けて滑るように走り始める。
窓の外を流れる街灯の光が、クロードの横顔を断続的に照らし出す。
彼は腕を組んでただ静かに窓の外を見つめていた。
ルシアンはその横顔からどうしても目を離すことができなかった。
不安とかすかな期待が入り交じり、胸の奥が甘く疼いている。
二人を乗せた馬車は華やかな夜の闇の奥へと進んでいった。




