第7話「月光の庭園と隠された温度」
夜の底は深くどこまでも冷たい。
巨大な公爵邸は静寂に包まれていた。
ルシアンは広い寝台の上で身をよじる。
何度寝返りを打っても眠りは訪れない。
最高級の絹のシーツは肌にどこまでも滑らかだ。
それがかえってルシアンの神経を逆撫でしていた。
図書館で耳にしたメイドたちの会話が頭から離れない。
あの冷酷なクロードが密かに自分を気にかけている。
花を飾り、食事の献立まで確認しているという事実。
その不器用な庇護の痕跡が心を激しくかき乱す。
十年間の沈黙と届かなかった手紙の理由がわからない。
ルシアンは重い羽毛の掛け布団を押し除けた。
冷え切った大理石の床に素足をそっと下ろす。
高い窓から差し込む月光が部屋を青白く染め上げている。
ルシアンは薄手のガウンを肩に羽織った。
かすかな衣擦れの音だけが部屋に落ちる。
冷たい真鍮のドアノブを回して廊下へと足を踏み出した。
壁に並ぶランプの光は弱く、影が長く伸びている。
息の詰まる部屋から逃げ出したくて、裏庭への階段を下りた。
重いガラス扉を押し開けると、冬の夜の冷気が肺を満たす。
火照った頬を撫でる夜風が心地よかった。
幾何学模様に整えられた植え込みが月光に浮かび上がっている。
中央に設えられた噴水からは静かな水音が響いていた。
ルシアンは濡れた庭石を踏みしめながら歩みを進める。
ふと夜風に乗って、かすかな煙草の香りが鼻をかすめた。
ハッとして顔を上げると、噴水の縁に人影が座っている。
月の光を背に受けてその輪郭は暗く沈んでいた。
だが広い肩幅と真っ直ぐな背筋は間違いなく彼だった。
クロードが一人で夜の庭園に佇んでいる。
ルシアンは息を呑んで慌てて木陰に身を隠そうとした。
しかし足元の枯れ枝を踏む音が、静寂の庭に高く響いてしまう。
人影がゆっくりとこちらを振り向いた。
灰色の瞳が月明かりの下で鋭い光を放っている。
見つかって逃げることは許されないと覚悟を決めた。
震える膝を叱咤してゆっくりとクロードの前に歩み出る。
「申し訳ありません。夜分に騒がせてしまって」
ルシアンの声はかすかに震えて夜気に吸い込まれて消えた。
クロードは何も答えない。
手にした葉巻を携帯用の灰皿に押し当てて静かに立ち上がる。
長身の彼が見下ろしてくると、ルシアンは思わず肩をすくめた。
厳しい叱責を受けるか、あるいは氷のような言葉を投げつけられるのか。
身をこわばらせて目を伏せたルシアンの耳に、予想外に低い声が届いた。
「……体調は、どうだ」
それは咎めるような響きではなかった。
ひどく不器用で言葉を探すようなかすれた声だった。
ルシアンは驚いて勢いよく顔を上げる。
クロードの眉間にはかすかなしわが寄っていた。
視線はルシアンの顔から薄着のガウンへと向けられている。
「食事の量は足りているか。不自由はないか」
立て続けに発せられた問いにルシアンは言葉を失う。
冷酷な公爵という仮面がほんの少しだけずれたように見えた。
そこにあったのは、かつてルシアンを案じてくれた幼馴染の顔だ。
「はい。何不自由なく過ごさせていただいております」
ルシアンが絞り出すように答えると、クロードは短く息を吐いた。
彼は自分が羽織っていた厚手の外套を脱ぐ。
そしてルシアンの細い肩に無造作に掛けた。
ずっしりとした重みとともにクロードの体温が伝わってくる。
「冷える。部屋に戻れ」
それだけ言い残してクロードは背を向けて歩き出す。
軍靴の音が石畳を叩いて少しずつ遠ざかっていく。
ルシアンは肩に掛けられた外套の襟を両手で強く握りしめた。
残る彼の匂いと温度が胸の奥を激しく締め付ける。
冷たい態度に見えて、その瞳の奥には確かに昔の優しさがあった。
ルシアンは外套に顔を埋めて、こぼれそうになる涙を必死に堪える。
月光が照らす庭園で、冷え切っていた心が少しずつ溶け始めていた。




