第三話『ヴァルハイト家』
『ヴァルハイト家』
城塞都市リンデンが産声を上げた数百年も昔、その礎を築いたとされる『創設の四名家』。その中でも筆頭に数えられる、歴史と格式の頂点に君臨する一族である。
都市の政治、経済、そして文化のすべてにおいて、彼らの影響を受けぬ領域など存在しない。現在の領主すら一目置くその絶対的な名門は、市街で最も格式高い一等地へ、天を突くような白亜の屋敷を構えている。
数多の歴史の荒波を越え、リンデンの民へ豊かな暮らしと誇りをもたらし続けてきた高潔なる血統。その歴史を背負う誇り高き一族の威厳を、疑う者などこの街には一人として存在しなかった。
そしてその輝かしい一族の現当主の愛娘であり、次期当主と目されるシャルロッテ・フォン・ヴァルハイトへの、巷での評判もまた、畏敬に満ちたものばかりであった。
――いわく、一切の妥協を許さぬ完璧なる才女。
――いわく、その青い瞳に睨まれた不届きな商人は、恐怖のあまりその場で平伏するという。
――いわく、陽光を浴びて美しく弾む金髪は、名門の格式と気高さそのものの体現。
背筋をピンと伸ばし、周囲を見下ろすように優雅に歩く彼女の姿は、誰もが未来のリンデンのさらなる繁栄を確信するに十分な威厳に満ちていた。
もうすぐ十六歳を迎える彼女のお披露目パーティーは、リンデンの全貴族のみならず、平民たちの間でも「どれほど完璧で洗練された夜会になるのか」と、数ヶ月前から持ち切りの話題となっている。
完璧で、高慢で、誰の手も届かない高嶺の花。それが、リンデンの人々が抱く『シャルロッテ・フォン・ヴァルハイト』という少女の絶対的な評価だった。
―――――――――
「――って、街の女の子たちの間でも、本当に大人気で憧れの的なんですよ、店長!」
カウンターに肘をついてアクビを噛み殺している店長に向けて、ナズナは身乗り出すようにして熱っぽく語りかけていた。
「同世代の女子からしたら、シャルロッテ様はもう雲の上のカリスマなんです。お洋服のデザインを真似する子がたくさんいたり、あの綺麗な金髪縦ロールに少しでも近づけようって、みんな必死に髪を巻く練習をしてるくらいなんですから! 背筋をピンと伸ばして歩く姿なんて本当に格好よくて、お披露目パーティーでシャルロッテ様がどんなドレスを着るのか、みんな今から興味津々で――」
『ピンポンパンポ〜ン』
ナズナの熱弁を遮るように、静かな夜の店内に間の抜けた入店音が響き渡る。
自動ドアが静かに開くと、そこへ滑り込んできたのは、頭からすっぽりと漆黒のマントを被った不審極まりない二人組だった。
先頭を歩く小柄な猫背のマント姿の人物は、深く被ったフードの隙間から、芸術的な金髪縦ロールをこれでもかと主張激しくはみ出させている。背後には、同じく黒マントを羽織りながらも、やたらと背筋の伸びた老人が、恭しく買い物カゴを腕に引っ提げて従っていた。
先頭のマントの人物は、周囲を警戒するようにキョロキョロと見回すと、口元をマントの手で隠しながら、あからさまに作った低い声で囁いた。
「……セバス、油断するんじゃないわよ。わたくしたちがヴァルハイト家の者であることは、絶対に悟られてはならないわ。あくまで一般の旅人を装うのよ」
「御意にございます、お嬢様。私の変装も完璧かと」
ひそひそと話す主従の会話は、深夜の静まり返った店内に筒抜けだった。
「シャルロッテ様! セバスチャン様! こんばんはーっ!」
カウンターの向こうからナズナがいつも通り弾けるような笑顔でパタパタと手を振った。
「――っ!」
シャルロッテと呼ばれたマントの人物の身体が、まるで雷に打たれたかのようにビクンと硬直する。
はみ出た縦ロールがバネのように激しく揺れた。
「な、ななな、何を言っているのかしら、そこの店員さん! わたくしは通りすがりの、しがない庶民の、ええと……、ただの風来坊よ!」
「ええっ? でもシャルロッテ様、マントからいつものすっごく綺麗な縦ロールが思いっきりはみ出てますよ?」
「うぐっ……! こ、これはただの、縦に巻いた、バナナの皮よ……!」
「えっ、バナナの皮ですか……!?」
純粋な瞳で困惑するナズナの天然っぷりに、シャルロッテが顔を真っ赤にしていたその時。
レジの奥から、店長がいつもの死んだ魚の目を向けながら、冷淡にトドメを刺した。
「おい金髪縦ロール。入ってくるなり自分で『ヴァルハイト家の者であることを悟られるな』って大声で喋ってたぞ。毎度毎度バレバレだ」
「…………っ!!」
あまりの恥ずかしさに、シャルロッテの顔が耳の裏まで林檎のように赤くなる。
しかし次の瞬間、彼女はバサッと勢いよく漆黒のマントを脱ぎ捨て、腰に手を当てて胸を張った。
「――ふ、ふん! そうよ、わたくしがリンデン一の名門、ヴァルハイト家の次期当主、シャルロッテ・フォン・ヴァルハイトよ! あなたたちがそこまで私に名乗ってほしいって言うから、直々に名乗ってあげたんだから、光栄に思いなさい!」
「左様でございますな。お嬢様の高貴なる名乗りを直接聞けるとは、店長殿も果報者にございます」
完全に開き直って堂々と仁王立ちするお嬢様の後ろで、セバスチャンもまた、優雅な所作でマントを脱ぎ捨てて美しく一礼するのだった。
「はいはい毎度。名乗ったならサッサと買い物して帰れ、金髪縦ロール」
「な、ななな、誰が金髪縦ロールよ!? いまわたくしは、シャルロッテって名乗ったばかりでしょう!?」
ギャンギャンと怒るシャルロッテだったが、店長がすでに手元のタブレットに目を落として完全に興味を失っているのを見ると、「ふ、ふんだ!」とそっぽを向いて一目散に目的の場所へと歩き出した。
彼女が吸い込まれるように向かった先は、店内奥のデザートコーナー。
そこには今夜から始まった、期間限定の『北海道グルメフェア』という色鮮やかなポップが躍っていた。
「セ、セバス……見てちょうだい……!」
棚の前に立った瞬間、シャルロッテはハッと息を呑んでフリーズした。
彼女の青い瞳に映っているのは、フェアの目玉として神々しく鎮座する、瑞々しい輝きを放つガラス風のカップだった。
――『北海道産赤肉メロン使用 とろける食感の濃厚メロンジュレ』。
「……お嬢様、落ち着きを。呼吸が乱れております」
「落ち着いていられるわけないでしょう!? メロンといえば我が国でも限られた最高級の温室でしか栽培できない、夜会の主役にふさわしい至高の果実よ!? それが……まるで夕焼けみたいなオレンジ色じゃない。それに、このゼリー、わたくしの知るゼリーよりも、なんだかすごく柔らかそうに見えるのだけれど……」
シャルロッテが小首を傾げてガラスケースを凝視していると、背後からスッと影が差した。
「――それが美味いんだよ、金髪縦ロール」
「ひゃあっ!?」
いつの間にかレジを抜け出し、棚の補充がてら背後に立っていた店長が、いつになく真剣な目付きで腕を組んだ。
「そのオレンジ色のメロンはな、お前たちがよく知る緑色のメロンよりも、ずっと甘みが強くてコクがあるんだよ。香りの華やかさも段違いだ。それとその『ジュレ』ってのはな、普通の硬いゼリーと違って、口に入れた瞬間にジュースみたいに優しくとろけるように作ってある。つまり、最高に甘い果汁が、口の中で一気にじゅわっと広がるスイーツってことだ」
「口の中で、ジュースに……っ!?」
シャルロッテはゴクリと唾を呑んだ。後ろのセバスチャンも深く感心している。
「さあ、試してみたいならサッサとカゴに入れな。ちなみに、のんびりしてるとすぐ売り切れるぞ。なんせ――」
店長はデザート棚の端にある、次回の予告スペースを指差した。
「来週からは『沖縄グルメフェア』が始まっちまうからな。次は、甘いパイナップルが乗った贅沢なパフェや、外はカリカリで中はサクサクのドーナツが入荷する。このメロンジュレが食えるのは、今週一週間だけだ」
「な、なんですって!? 来週はパ、パイナップルと、ドーナツの……な、何よそれ、今からもう美味しそうじゃないのっ!!」
まだ見ぬ謎のスイーツの響きに、シャルロッテの脳内は大パニックである。
「セ、セバスチャン! 売り切れる前に早く! このゼリーをカゴに入れなさい! いえ、これはあくまで検食よ! 領地の安全のためなんだから!」
「御意にございます、お嬢様! では、来週の沖縄戦に備えるためにも、まずはこの北海道の果実を三個、厳重に確保いたします!」
完全に手のひらで転がされながら、主従はホクホク顔でメロンジュレをカゴに収め、レジへと戻ってきた。
カゴを受け取ったナズナが、バーコードを読み取りながら「ふふっ」と楽しそうに微笑む。
「シャルロッテ様、本当に甘い物がお好きなんですね」
「な、何を笑っているのかしら! これは検食よ、検食! ……でも、まあ、その、少しだけ楽しみではあるけれど……」
赤肉メロンの誘惑に早くも負けそうになりながら、シャルロッテはふと、自身の指先を見つめて小さくため息を漏らした。
そのわずかな表情の陰りに気付いたナズナが、首を傾げる。
「どうかされたんですか?」
「……別に、なんでもないわ。ただ、来週の『おきなわ』のフェアの頃には、わたくしはそれどころじゃないかもしれないと思ってね」
シャルロッテが少し声を落として呟く。
そう、あと一週間もすれば、街中が噂している彼女の十六歳の生誕祭――社交界お披露目パーティーが開催されるのだ。
表向きは華やかなお祝いの席。しかしその裏では、近隣都市の貴族たちからも「ヴァルハイト家の次期当主はどれほどの器か」と冷酷に値踏みされる、一歩も失敗の許されない戦場だった。
だが、そんな弱気な空気を振り払うように、シャルロッテはすぐにフンスと胸を張り、いつもの高慢で自信に満ちた笑みを浮かべてみせた。
「ふん! あなたたち、もしそんなにわたくしのドレス姿が見たいと言うなら、そのお披露目パーティーに招待してあげてもよろしくてよ! このわたくしの特別なお誘い、光栄に思いなさい!」
「ええっ!? 本当ですか、シャルロッテ様! 私、そんな凄いパーティーに行けるなんて夢みたいです! 絶対に行きます、今から着ていくお洋服考えなきゃ……!」
ナズナは目をキラキラと輝かせて、大喜びで両手を合わせた。
シャルロッテは「ふ、ふん、当然よ」と満足げに鼻を鳴らし、今度はレジの奥の店長へと視線を向けた。
「どうかしら、店長? あなたも名門ヴァルハイト家の宴をその目に焼き付けたいでしょう?」
「断る。絶対に行かない」
店長は死んだ魚の目のまま、秒で一蹴した。
「なっ……な、なによその、ゴミを見るような目は!? リンデン中の貴族が涙を流して欲しがる招待状なのよ!?」
「仕事以外でスーツ着て、格式だの何だのに縛られる空間に行くくらいなら、布団の中で泥のように眠る方を選ぶ。ナズナ、お前は店を休んで行っていいから、俺の分の招待状は転売するか、そこのゴミ箱に捨てといてくれ」
「捨てるなっ! 売るなっ! あーもう、本当に失礼な店長ね! セバス、もう行くわよ!」
「かしこまりました。店長殿、今夜も素晴らしい検食を感謝いたします……ナズナ殿、お嬢様はああ仰っていますが、当日はぜひお越しください。お嬢様もきっとお喜びになります」
「はいっ、セバスチャンさん! 楽しみにしています!」
「ちょっとセバス、余計なことを言わないの! ……ふ、ふんだ!」
シャルロッテは顔を真っ赤にして怒りながら、メロンジュレの入った袋を抱え、再び黒マントのフードを深く被って店を飛び出していった。
ピンポンパンポンと間の抜けた電子音に見送られながら、夜の街へと消えていく黒マントの後ろ姿。
「ふふ、シャルロッテ様、怒った顔も可愛かったですね」
クスクスと笑うナズナの後ろで、店長は自動ドアの向こうの暗闇をじっと見つめていた。
十六歳の誕生日。周囲からの憧れと、裏での冷酷な値踏み。
現代の知識を持つ店長には、それがどれほど残酷で、重苦しい『儀式』であるかがよく分かっていた。歴史ある名門の跡取りという神輿に担がれ、まだ十六歳の少女が一人、逃げ場のない戦場に立たされようとしている。歴史上の政略結婚や後継者争いのドロドロとした内情が、どうしても頭をよぎるのだ。
(ま、あいつのことだ。あのガチガチの縦ロールみたいに、どんだけプレッシャーがかかっても跳ね返してみせるんだろうけどな……)
「……来週の沖縄フェア、パイナップルのパフェは多めに発注しておくか」
店長はそう呟くと、いつものだるそうな態度で、手元のタブレットへと視線を戻すのだった。




