004 暖かな日々
これからまだまだ成長する緑の麦畑、新緑の芽吹く茶畑、澄み渡る空の色は緑の映える柔らかな青さを讃えている。
もしも心を抑える重さがないのだとしたら
俺はこの景色を、ただ美しいと思えたのに――
「グハハハハ、どうしたクライ!辛気臭ぇ面して家の前に立たれると声かけ辛ぇじゃねえか」
ならば声を掛けないでくれ虎男
俺だって浸って考え事くらいするんだよ
台無しだよ馬鹿やろう
「ハッ…」
「ギュンターさん、どうかしましたか?」
ギュンターは突然神妙な顔をして手を口元にあてていた。周りにいるティアたちが心配そうな顔でそれを見ている。
「気づいちまったんだが…クライの場合」
「クライの場合?」
「辛気臭ぇんじゃなくて、神気くせぇんじゃねぇだろうか!?グハハハハハ」
「黙れ虎、そして森へ帰れ」
俺の心の声はダダ漏れだった。
エミル姉が冷ややかな視線を送っているのに、歯を食いしばり頬を膨らませ涙目になってまで、こみ上げる笑いを必死に耐えるゼル姉。ゼル姉はどうも食べ物関連じゃない方面でも残念な傾向にある様子だ。
「みんなでお昼一緒に食べようって話になってたんだよ」
俺はギュンターから送られる感想を求めるような熱い視線を完全に無かったかのように話し出すティアのスルースキルに感心していた。みんなで飯を食うことは構わないんだが、トリシアさん達はギュンター達が来ること知らないんじゃないのか。
「あれまぁティア、あんたみんなをつれてきたのかい」
ほらみろ、そんなデカイ虎つれて来られたら夕食の食材まで無くなる
「はいんな、すぐに昼飯にするよ」
ニッと男らしい笑顔をみせるトリシアおばさん。
「悪ぃなトリシア、突然来ちまってよ」
「トリシアの料理はこの村の上位」
「すみません、私たちまでお邪魔していいんですか?」
「はっは、いいさいいさ、村長のトコじゃあんたたいが参っちまうだろうからね」
「グハハハハ、ったく敵わねぇなトリシアにゃ」
「あの家にはお茶と寝床以外に用はない」
「ゼル…もうちょっと言い方があるでしょお部屋まで用意していただいてお世話になってるんだから」
「村長本人に用は無い?」
エミル姉は手で目を覆って諦めたようだ。
ぞろぞろと家の中に入る。先ほどまで緊張感が占拠していたリビングだが今は賑やかなもんだ。トリシアさんの料理の手際の良さが凄い、窯のようなものに薪をくべ火力を調節しているようなのだが、火事でも起こさんとするほどの火力にして一気に野菜を炒める。野菜は色の鮮やかさが増すんだが、振られる鉄鍋には今日捕ったイノシシの魔物からとったであろう油が溶かされ大火力に晒されながら鍋を振り、空に放たれた野菜に向け投げつけるように塩と乾かして砕いたハーブが注がれる。
次々に皿によそわれていく野菜炒めを俺は惚れ惚れと眺めていた。このオバちゃんは家庭料理の枠を超え、炎と向かい合い野菜に命を吹き込んでいるのだ。野菜炒めなどのかんたんな料理は出来る端から俺とティアで運んでいたのだが、次を運ぶ前に空にしてしまうゼル姉と虎男。
自重しろ虎男。なんで肉食じゃねぇんだよ。俺の常識をこれ以上壊さないでくれ。
解体が大変だということもあり、一頭分のもも肉と肩肉しか持ち込まなかったというのに、薄切りや角切りなどで形を変え火加減を変え調理法を変え、昨日から仕込んだのであろう骨を砕き煮込んだことで濃厚な出汁を湛えるツユに塩を加え味を調え炒めた野菜の一部と肉を戻したスープ。
立ち込める湯気が美味しさを語っている。朝に食べた簡単な野菜スープでは無い。これは本気の一品だ。ゼル姉がおもむろに立ち上がる。
ゼル姉がそれを食卓へ運ぶ。
彼女の瞳は、スープに敬意を払うが如く瞳に光を讃えていた。食卓にある取り皿に丁寧にお玉で一杯ずつ注ぎ、普段なかなか見せない微笑みを浮かべ一人ひとり全配る。
皆に行きわたると自分の前には鍋をおくゼル姉。立ち上がった時からやると思っていたが、その通りに動くこの残念美人はエミル姉に任せておこう。すぐに空にしやがるから運ばずにおいた野菜料理などを持って席につく。
「トリシアんとこの飯ぁ凄ぇ旨ぇじゃねぇか!こりゃ村長んとこから出てきて正解だ」
「ゼル…もうちょっとゆっくり食べましょうよ」
「はっは、わたしが本気だしたら、こんなもんさ」
「ふふふ~トリシアさんは凄いんだよクライ」
「本当だな、ってコクランさんの分はとっとかなくていいのか」
「あぁコクランなら村の集とアンタたちが担いできた肉の解体でもしてるだろうさ。一晩寝かしたから肉質もよくなって今頃解体したので焼肉でもしてんじゃないかね」
「…行かねば」
「ゼル、鍋持って立ち上がらない!」
賑やかな昼食を終え、雑談を交わしギュンター達は村長の家に戻っていった。ギュンター達は、もう2、3日この村に滞在するようだ。ゼル姉が「戻りたいと思えない」といっていたのが印象的だった。ギュンターも帰還するという話題になると苦い顔をしていた。
結局コクランさんは日が暮れるまで帰って来なかった。
風呂を浴び、つぎはぎだらけの着替えに袖を通し、外に出る。
コクラン夫妻の家からさらに坂を上がっていく。この村は谷のような立地にある。ようなというのは、ここに来るまでも森の中を少し登ったからだ。村は左右を岩壁に囲まれていた、成木を縦に5、6本積んでも届かないほど高い。翼でもない限り飛び降りようとは思わないだろう。
なだらかな坂を上りきると眼下には夜闇にも関わらず麦畑が月明りに照らされて青白く輝いていた。ふと見上げると降り注ぐような星空が広がっている。外灯などないからこそ、手を伸ばせば届くのではないかと言う、ありきたりな感覚に身が包まれるのだ。
それほど数多くの星が見えるのだ。星と言うのが、どこか遠くにある太陽であることを知っていると、魔法が使えても神の気が使えても、自身がとても小さな存在なのだと確認ができる気がする。
俺の体はまだ子供だ、力もギュンターのように鍛えた者に敵うべくもなく、魔法だってマスターどころかティアにすら敵わないのだ。
――旅に出る?君のような子供が一人でかね?
世間すら知らず、誇れる力もない俺のような小さな存在が一人で旅に出る。確かに鼻で笑ってしまうような考えなんだろう。それでも、それでも俺は世界を見たいんだ。マスターが楽しめと言ってくれた世界が、こんな気持ちのまま生きていく程に価値があるものなのか確かめるために
「 “ 灯 ” 」
神の気を込めた小さな火の玉を指先から頭上に放つ。ゆっくりと上昇させ辺りを照らす。天にある星々のように遥か彼方まで届けるほどの明るさは無いけれど、自分の周りくらいは十分に照らし出せる。
マスターみたいな力は無いけれど、手の届くところぐらい照らしていられる。小さな存在だけれど、自分の行き先くらいはこうして照らして進んでいこうと、そう思っているんだ。
「魔法の光と言うのはもっと暗いものだと思ったのだがね」
ふいに後ろから声がかかる。
コクランさんは、手に陶器の瓶を持っていた。多分焼肉に合わせたお酒が入っているんじゃないかと思う。灯の光に照らされているコクランさんは褐色ながらも少し赤みが差しているのが分かるからだ。
「得意なんですよ。一番練習した魔法がコレなんで」
煌々と輝く光の玉を見上げる。
俺の一番得意なコレには攻撃力もなければ、熱もほとんどない。神の気を放ち浄化する力があるが、瘴気がなければただ明るいだけだ。維持に特化させたものが灯、一瞬強烈な輝きを放つのが閃光。
この魔法があったから、あのトカゲから気を引いてティアを助けられたし、瘴気の魔王からマスターを守ることが出来たのだ。
「君はティアが話す凄い魔法使いとやらの教えを受けていたのではないのかね?」
「マスターは、俺にはあんまり魔法を教えてはくれませんでした」
「ふむ、ティアも同じような事を言っていたがね。魔法は教えてくれず、君は武器術ばかりやっていたとね」
「でも大切なことを沢山教えてくれました」
不器用で、言葉も足りなくて、伝えることがとても下手だったけれど
たくさんの優しさと、胸いっぱいの愛が詰め込まれた想いを受けたのだ
「言葉では…ちょっと何て言えばいいか分からないですけど」
「…私もトリシアもね、カーティスという女性には非常に感謝しているのだがね」
俺の横まで来てたコクランさんから、ふいにマスターの名前が語られた。灯によって照らされる麦畑の更に先を眺めながら話す。その表情は午前のものと異なり穏やかな、そしてどこか寂しさを滲ませていた。
「私たちの、いや、この隠れ里の事はトリシアから聞いたと思うんだが、私たちは神の忌み子とされているダークエルフの、言うなれば落ちこぼれのようなものなのだよ」
「……」
「我々エルフやダークエルフは長生きなんだ。しかしね、生きている間中ずっと世を恨んで過ごしている」
「大昔にね戦争があったらしいのだよ。今では耳を疑うようだがね、山を吹き飛ばしたり血を割り谷を作るような敵に対して、我々は力を合わせて戦ったそうだ。
その時は種族の壁もなく人も獣人やエルフなどの亜人も、地下暮らしから協力にきたドワーフや、他にも存在も疑わしいようなものまで、世界中が力を合わせて戦ったそうだ。
我々ダークエルフはね、その時に最も活躍したんだよ。最前線に立ち、自分たちのことなど省みず、愛した世界を守るためにやれることは何でもやった。多くの同胞の命を糧に行われた邪法や魂にまで傷をつける外法と呼ばれるものまで駆使して敵を討ったそうだ」
「血に塗れ、怪我無きものなど誰もいない程に何度も特攻をかけダークエルフは敵を根絶やしにした。私は先祖から伝わる話として祖父母からそう聞いていのだがね。
敵を討ち滅ぼした後、それまで力を合わせていた種族は…世界は我々ダークエルフに対し手の平を返したのだよ。ダークエルフは同族を殺してまで力をつけた。敵を殺し足りずに味方にまで手をかけた。討った敵と何が違うのか…などが世論となったそうだ」
「我々の祖先は、そうして世間から迫害されたのだよ。祖先の名誉のために言わせてもらうが、ダークエルフが手を染めた邪法や外法での犠牲はね、同じダークエルフの身内から志願があったものにしかかけられていないのだよ」
「…トリシアさんから聞いています。世界で最も誇り高い種族であったと」
「ふっ、そう、そうであったのだがね。仲間の犠牲すら貶され迫害された祖先たちは何もかもを恨んだんだ。かつて力を合わせ討った敵以上に世界を恨んだそうだ。
だが、それからは凄惨なものだ、恨みをぶつけ戦争を起こした。自らを認めない者など消えてしまえと戦争の時代がやってくる。ダークエルフに限らず、他の種族間にも飛び火し世界中で争ったそうだ。祖先は、更に力を得るべく敵の命をつかった邪法などを用いてね…恨みが恨みを呼び憎しみを憎しみで返す、ダークエルフと言うのはね、そんなことをずっと続けているんだよ」
少し前に歩いてコクランさんは手荷物酒瓶から酒をあおる。
「この里の者はね、そんな恨みに塗れた人生を歩みたくないと抜け出した者たちが作った村なのだよ」
邪神の寵児と言われている所以は、伝えるものによって異なる。マスターの部屋にあった書物のよると殺戮や破壊、死に関する神々に頼ったとあった。長い長い戦争の中でそうせざるを得なかった時代があったのだろう。
「私たち夫婦はね、70年ほど前にこの村に辿り着いたんだ。私たちはね、恨みに塗れた純血のダークエルフの里にいたのだよ。戦争も落ち着き、わだかまりこそあるもののお互いを受け入れつつある時代だというのに、今なお人を恨みエルフを恨み、力を付け戦争を起こそうとする馬鹿どもの一員だったのだよ」
酒瓶に蓋をして、地面に置くとコクランさんは俺に向き直った。灯の光に目を細めたため、魔力の維持を霧散させ消す。夜闇があたりを包み静寂が訪れた。
「私とトリシアの間には息子がいたんだ。その子はね、強く強く人間を憎んでいた。人間と会ったこともないのにだ、不思議に思わないかね?私たちはね、不思議に思わなかったのだよ。しかし、息子は行き過ぎたのだ、息子と息子の妻は邪法により生まれ来る我らの孫を高い魔力を持った兵器にしようとね夫婦で生贄となったのだ」
俯きつつも淡々と話すコクランさんは握る拳が震えるほどに力が入っていた。酔いを飛ばすほどの想いがあることが分かった。
「生まれてきた子はね、とても人の形などしていなかったよ。黒い泥のような何かでしかなかったのだ。邪法の術士はね、もとよりその泥が欲しかったらしくてね、恨みや憎しみをもち息子たちの命を吸ったそれは、何かの素材になるとかでね。私は気が付いたら術士を斬り殺していた。私たちは、その時目が覚めたのだよ。息子と義娘を失ってようやく、ようやく自らの愚かさを呪えた、他人の不幸の為に生きていたことを恥ずかしく思えた、亡くしてようやく…だがね」
声に力がはいってきているコクランさんは捲し立てるように話し出す。
「君には分からないだろうがね。忌み子の忌み子、邪神の寵児とはね。ダークエルフの悲願なのだよ。高い魔力と知性を持ち、瘴気を扱え…そしてその特異性はね、過去封印された魔王と呼ばれる者たちであれ大昔に敵として在ったものであれ、生贄として扱えば使役できるとされているところにある。あの子とはね、そういった存在なのだよ」
歯を食いしばった後、一瞬の躊躇いを持たせ、手のひらを使い訴えかけてくる。
「…我々は、いや…私は、かね。私はね、赦されたいのだよ」
「……」
「息子たちを守れなかったことを、恨みを憎しみを継がせてしまったことを、恨むことでしか憎むことでしか生きてこられなかった迫害の歴史を生きて来たのは私ではないというのに、恨みを晴らすことを悲願として生きてきたことを!…私はね、赦されたいんだよ」
飲酒の官需の高ぶりではないのだろう。これはコクランさんの本心からくるものだ。彼の頬を伝う涙は本物だと思う。
「ティアはね、ダークエルフにとって最高の道具なのだよ。幼くして、およそ人としての扱いなど受けてこなかっただろう、ただ贄として良い状態を保つための教育がなされたに過ぎない。
私はね、ティアが村に預けられると聞いた時、もしこの不幸にしかなれない子を幸せにできたのなら…そう出来たなら少しは赦されるのではないかと思ったのだ。憎しみを継がせてしまった息子に、恨みに染められた義娘に、生まれてこなかった孫に…過ちに気付いて責め続けている自分自身に、赦されるのではないか、そう思ったのだよ」
トリシアさんがした話を思い出す
――これは贖罪なのさ、散々恨みつらみに塗れて生きてきてね、そのせいで大事なものまで失っちまって…人の不幸ばかりねがっていた私たちのね罪滅ぼしさね。
あたしたちゃね、この里に来て過去を悔いてばかりいたんだ、でもね、そんな昔の私たちみたいなのに囲まれてたのにね、ティアは恨みの一つも言いやしなかったのさ…
あたしゃ耐えきれずにね、あの子には全てぶちまけたのに、あの子は「いま、すてきな人たちに囲まれて私は、こうして生まれてきてよかったって」そう答えたんだよ。
あたしたちの偽善の押し付けを笑って許してくれたのさ。あたしたちゃね、たった半年でも心が洗われているんだ。
だから信じておくれ、あたしたちはティアの幸せを願ってやまないのさ。あの子が幸せになりのなら、汚れちまってるわたしたちの命なんてね、いくらでもくれてやりたいほど、あの子の幸せを願っているんだよ。だから――
コクランさんは落ち着きを取り戻していた。悲痛な表情は消えたが真剣な顔で俺を見据えている。
「初めはね、自分のためにティアを幸せにしたかったのだがね。私たちはあの子に幸せになって欲しいと、今は心からそう思っているんだよクライ君」
「俺もです。俺も、ティアには幸せになって欲しい。他の誰よりもティアには幸せになってほしい」
言い合って訪れる静寂の中、俺はコクランさんと想いが通じていることを感じた。お互い同じ気持ちなのだ。俺もコクランさんもティアの幸せを願ってやまない。
我慢ばかりして自分を抑えることなく、自分を出して心から笑って生きて欲しい。マスターが叶えられなかった幸せを、どうか、どうかティアには掴んでほしい。この世界で俺が最も幸せを望んでいる。多分生きている限りティアの幸せを願わない日は来ない。そう思う程にだ。
「…クライ君、ティアを連れて行ってやってくれないかね」
「なっ、何言ってんだ」
だからこそ、コクランさんの言葉は衝撃的だったのだ。敬語すら忘れてしまう程に
「この村にいた方がいいに決まってんだろ!
平和で、のどかで、俺たちの過ごした場所のように緑に囲まれてて、あんたたちみたいに大切に想ってくれる人がいる!!
アンタ言ってただろ、ティアを不幸にさせている世界に価値なんてないって!!」
「その気持ちは変わらない…変わらないがね」
コクランさんは膝を付き頭を下げた。こんな子供の俺に対し、土が手に膝につくことも厭わずに、プライドを想いが超えて頼んでいるのだ。
「それでも、ティアを連れて行ってくれないか…私も、この村にいて欲しい、いつづけて欲しい、だがね…だがあの子の本当に居たいところくらい…私にも分かるのだよ」
トリシアさんも言っていたのだ「あの子を連れて行ってくれないかい」と、この村のような平穏などあるかもわからない、世間も知らない俺の旅に連れて行って欲しいなど、まともとすら思えないお願いを俺はトリシアさんからもされていた。
「俺みたい子供に任せようとしてんじゃねぇよ!ここで大人になって、あいつなら美人になるだろ、いいやつ捕まえて、家族持ってよ、あんたらと一緒に生きて行けば幸せになれんじゃねぇかっそれを…」
「そこに、そこに本当に、あの子の気持ちがあるならそうしたがね…あの子はね、君がカーティスさんが迎えにくることを信じていた。いや、それだけがあの子の支えだったのだよ……」
ティアは一緒にいたかったのだ。マスターと俺と3人で一緒に過ごしていたかったのだ。そんなこと痛い程に知っている。魔王の贄にならないためにマスターが遠ざけた事を知っても、いつか2人が迎えにくると、ただ信じて待つことしかできなかったのだ。
1日が経ち、2日過ぎ…1週間…1ヵ月、俺が来るまでの半年の間、ティアがどんな気持ちでいたのか俺は知らない。手紙からは戻りたいと言いたいのを我慢して俺達の心配をしていることしか分からなかった。一体、どんな気持ちで過ごしてきたのだろう。
やっと心許せたマスターに出て行けと言われて、知らない土地の知らない人に預けられた時、ティアは、何を想っていたのだろう。
「…戻りませんか、そろそろみんな風呂もあがってますし、コクランさんが遅いとティアも心配しますから」
問いかけに応える声が無かった。すこし肌寒くすら感じる風が吹き抜けるばかりで、コクランさんは頭を上げる様子が無い。ただ無言で今も地に臥すように頭を下げている。
「俺に……何かできるとでも思ってるのかよ!?ガキでッ力もなく、世間も知らず、身内もいないッ一人で生きて行けるかすら分かんねぇんだよ!!」
我慢できずに荒げた声だけがあたりに響く
「俺に…俺に、どうしろってんだ…」
コクランさんが顔を上げた。正座のように地に座る形となっている。さっきまでの、どこか悲痛な表情は無い。今そこにあるのは真剣な表情をした一人の壮年男性であった。
「確かに君は子供だ、だがね私は君をただの子供などとは思っていないのだよ。君にはね、どこか我々のような人とは異なり永きを生きる者のような、見た目とね中身に歪みがあるよう思うほど君は、しっかり自分を持っていると感じたがね」
俺は小さく息を飲んだ。コクランさんは自分の意見を押し付けているだけで俺のことなど見てはいないのではないかと思っていたからだ。
「それにね、何も出来ないとも思わないのだがね。
君には『勇気』があるじゃないか。あの子の為に勝てない相手に立ち向かう勇気が、大切な人が亡くなった悲しみを越える勇気が、そして誰かのために退く勇気が君にはあると思うのだがね」
コクランさんは立ち上がると膝の土を掃い、真っすぐに俺を見据える。
「聞いていたことを申し訳なく思うがね。
君は言ったじゃないかね、我慢ばかりの生き方なんてやめようと。私にはね、クライ君の方こそ、あの子と離れることを我慢しようとしているように見えるのだが、どうなのかね?」
「俺は―――」
夜闇の静寂の中、麦を撫でる優しい風は心地よい程涼やかだったのに俺は今、寒いとすら感じていた。




