第二話 名前のない女 ④
オリエントフーズの高瀬智也が失脚し、会社から事実上の追放処分を受けたという知らせは、翌日には東都ビバレッジの営業部全体へと駆け巡った。
大型キャンペーンの条件はすべて東都ビバレッジ側の希望通りに巻き戻され、美咲が押し付けられていた五百枚の手書きPOPも当然ながら白紙となった。
「黒崎課長、本当にありがとうございました! 来月のキャンペーン、私、絶対に成功させてみせます!」
定時を過ぎたオフィスで、星野美咲はポニーテールを弾ませながら元気よく頭を下げた。 レモンイエローのブラウスを着た彼女の顔には、いつもの明るく快活な笑顔がすっかり戻っている。
「ああ、期待してるよ。何かあったら一人で抱え込まずに、すぐに俺に言うんだぞ」
「はいっ! ……それと、もしあの『ミクさん』にお会いすることがあったら、星野が心の底から感謝していたとお伝えください! 私、ミクさんみたいに、弱い立場の人を理不尽から救えるカッコいい女性になれるように頑張りますから!」
目をキラキラと輝かせて退勤していく美咲の背中を見送りながら、未来はデスクのブラックコーヒーに口をつけた。
これで二度目だ。 男の黒崎未来ではどうにもできなかった壁を、女のミクとして裏から崩し、完璧な勝利をもぎ取った。 榊原や沙耶は「やり方が危うい」と眉をひそめていたが、結果を見ればどちらが正しいかは明白だった。美咲は救われ、会社の利益は守られ、悪人は排除されたのだ。
(俺のやり方は、間違っていない)
未来はパソコンの電源を落とし、デスクの上の書類を片付けた。
「お、未来。もう帰るのか?」
通路を通りかかった第一課の武田健太郎が、シワの寄ったスーツの上着を肩にかけながら声をかけてきた。額の汗をいつものヨレヨレのハンカチで拭っている。
「ああ。今週は色々と立て込んでたからな、今日は真っ直ぐ帰るよ」
「そうか。いやあ、オリエントフーズの件は聞いたぜ。あの高瀬の野郎をギャフンと言わせたんだってな! ほんと、課長になってからのお前は頼もしい限りだぜ」
武田はガハハと笑いながら、自分のスマートフォンを取り出して画面を見せてきた。 待ち受け画面には、三歳になる武田の子供が、泥だらけのじゃがいもを両手に持って満面の笑みを浮かべている写真が映っていた。
「見ろよこれ、先週末にうちの庭で掘ったじゃがいもだ。今度こそ、これ使って嫁がコロッケ作るって言うからさ、お前も休日に飯食いに来いよな。お前、昔から子供好きだったろ?」
「……ああ。そうだな、ありがとう」
未来は笑顔を作って頷いた。 だが、武田の子供の写真を見つめても、なぜか胸の奥がピクリとも動かないことに、未来自身が一番戸惑っていた。
『可愛い』とも『羨ましい』とも感じない。ただ、ピクセルの集合体として写真の構図や色合いを冷ややかに認識している自分がいる。 それどころか、武田とこうして他愛のない雑談をしている時間さえ、「早く終わらないだろうか」とわずかに煩わしく感じていることに気づき、未来はかすかな違和感を覚えた。
(……疲れてるんだな、やっぱり)
武田と別れてオフィスビルを出ると、秋の夕暮れの涼しい風が頬を撫でた。 空は茜色から深い群青色へと移り変わり、街路樹の並木道にはオレンジ色の街灯が灯り始めている。
最寄り駅へ向かって歩いていた未来の足が、ふと、交差点の手前で止まった。
駅へ行くなら、このまま大通りを直進するのが最短ルートだ。
それなのに、なぜか今の未来の足は、自然と大通りから一本外れた静かな裏通りの遊歩道へと向かおうとしていた。
(……なんだ? こっちに用事なんてないはずなのに)
頭ではそう思っているのに、身体の奥に染み付いた「習慣」のようなものが、未来の足をそちらへと誘導していた。
まるで、金曜日のこの時間には、いつもこの遊歩道を歩いて誰かと待ち合わせをしていたかのような、奇妙な感覚。
導かれるままに遊歩道へ入ると、どこからか甘く香ばしい焼き菓子の匂いと、爽やかな茶葉の香りが漂ってきた。 視線の先にあったのは、レンガ造りの小さな紅茶とマカロンの専門店だった。
ガラス張りのショーケースの中に並ぶ、色とりどりのマカロンとハーブティーの缶。 それを目にした瞬間、未来のポケットの中で、何気なく突っ込んでいた左手の指先が、小さな紙片に触れた。
取り出してみると、それは数週間前の日付が印字された、まさに目の前にあるこの店のレシートだった。 買っているのは、カモミールティーの茶葉と、ピスタチオのマカロンが二つ。
(俺が、これを買ったのか……? いや、俺は甘いものもハーブティーも飲まない。じゃあ、誰のために……?)
思い出そうとした瞬間、またしても頭の奥に白い靄がかかり、思考が弾かれる。 ただ、誰かがそのマカロンを美味しそうに頬張りながら、自分に向かって微笑んでいた温かい空気感だけが、幽霊のように胸の奥をかすめた。
呆然と店の前に立ち尽くしていた、その時だった。
カラン、と澄んだドアベルの音が鳴り、店のガラス扉が内側から開いた。 小さな紙袋を手に提げて出てきた一人の女性が、店のすぐ前に立っていた未来の姿を見て、ハッと息を呑んで足を止めた。
身長は百五十八センチほどだろうか。 華奢で小柄な身体を、アイボリーの柔らかなニットと、ミントグリーンのロングスカートで包んでいる。 街灯の光に照らされた栗色のボブカットが、夕風にふわりと揺れた。
二人の視線が、正面からぶつかる。
女性の大きく澄んだ瞳が、驚きに見開かれた。 だがそれは、偶然通りかかった知人に対する驚きではなかった。 まるで、「もう二度とここへは来ないと思っていた人間」が、約束の場所にふらりと戻ってきたのを目撃したかのような――切実な痛みと、かすかな期待が入り混じったような揺れ方だった。
彼女の周囲だけ、街の喧騒から切り離されて時間がゆっくりと流れているような、不思議な静謐さがあった。
「……久しぶり」
女性の唇から、風に乗るような小さな声がこぼれ落ちた。 陽だまりのように温かい声なのに、その奥には、今にも泣き出してしまいそうな深い悲しみが滲んでいるように聞こえた。
未来は息を止め、目の前の女性を見つめた。 彼女の手に提げられた小さな紙袋。その中に入っているものが、自分がポケットの中のレシートで買ったものとまったく同じ「ハーブティーとマカロン」であることが、なぜだか直感的に分かった。
これほど印象的な女性に会ったことがあれば、忘れるはずがない。 それなのに、未来の記憶のどこを探しても、彼女の顔も名前も存在しなかった。
「……え?」
未来が戸惑いの声を漏らし、無意識に左手で首の後ろを揉んだ瞬間だった。
女性の表情が、ほんの一瞬だけ、凍りついたようにこわばった。 彼女は、未来の「見知らぬ他人を見る目」と、首の後ろを揉む昔ながらの癖、そして未来の右手に握られた古いレシートへと順番に視線を走らせた。
彼女の左手の親指の爪を、右手の指先が無意識にカリカリと軽くこする。不安や動揺を押し殺すようなその仕草のあと、彼女はすぐに瞳から悲しみの色を消し去り、花が開くような穏やかな笑顔を作った。
「……あ、ごめんなさい。私たち、前に会ったことあったっけ?」
「いえ……たぶん、人違いじゃないかと」
未来は答えながら、自分の心臓が奇妙な早鐘を打っているのを感じていた。 本当に人違いなのだろうか。 彼女がなぜこの時間にこの店から出てきたのか。そしてなぜ自分は、何の用もないはずのこの店の前に、古いレシートを持って引き寄せられるように立っていたのか。
「……そうだね。ごめんなさい、私の昔の知り合いに、あんまりにもよく似てたから、つい声をかけちゃって」
女性は少し寂しそうに目を伏せて微笑んだ。 それが未来を傷つけないための優しい嘘なのか、それとも記憶を失っている未来の様子を探るための演技なのか、未来には見当もつかなかった。
「私、白石凛っていいます。すぐそこのデザイン事務所で働いてて。実は来月から、東都ビバレッジさんの新しい販促パッケージのコンペに参加させていただくことになってるんです」
「え……? 東都ビバレッジって、俺の会社です。俺は営業部の黒崎未来といいます」
未来が思わず名乗ると、凛は「まあ」と小さく目を見張った。 だが、その驚き方さえも、最初から未来が東都ビバレッジの社員であることを知っていて、あえてこのタイミングで接触してきたかのような不思議な落ち着きがあった。
「未来、さん……」
凛は、未来の名前を、まるで何度も呼んだことのある大切な響きを確かめるかのように、ゆっくりと口にした。
「すごい偶然ですね。……あなたは、どう思う? こんなところで足を止めたのも、何か意味があると思いませんか?」
凛が小首を傾げて未来を見上げる。 どこまでも柔らかく、それでいて未来が忘れてしまった過去の奥底をじっと覗き込んでくるような澄んだ瞳だった。
未来が言葉を返そうとした、まさにその時だった。
「――おい、凛。こんなところで何やってんだ」
低く、どこか棘のある男の声が、二人の間に割って入った。




