第二話 名前のない女 ③
翌日の木曜日、午後二時。
東都ビバレッジの第一会議室には、重苦しい沈黙が流れていた。
テーブルの向かい側には、オリエントフーズの高瀬智也が腕を組んで座っている。 昨夜、銀座のバーでミクに隠し口座の支店名を突きつけられたせいか、高瀬の目の下には濃い隈ができ、顔色もどこか土気色だった。彼はしきりに前髪を指先で梳きながら、苛立ちを隠せない様子で貧乏ゆすりをしている。
そして今回は、高瀬一人ではなかった。
彼の隣には、オリエントフーズの仕入れ統括部長である白川が同席していた。未来が昨日のうちに、「来月の大型キャンペーンの最終確認のため、ぜひ部長様にもご同席いただきたい」と直接連絡を入れて招き寄せたのだ。
東都ビバレッジ側からは、課長である未来と、担当の星野美咲、そして企画課主任の相沢沙耶が出席していた。 美咲は緊張で顔をこわばらせ、膝の上で小さな拳を固く握りしめている。
「――さて、黒崎課長。わざわざうちの白川部長まで呼び出して、一体どういうつもりかな?」
高瀬が先制攻撃とばかりに、棘のある声で口を開いた。
「来月のキャンペーン条件については、先日星野さんに伝えた通りだよ。十五パーセントの値引きと、販促什器および店舗応援の全面負担。それから、星野さん個人による手書きPOP五百枚の納品。これが飲めないなら、東都さんとの取引自体を見直すって話だったはずだけど」
隣に座る白川部長が、少し驚いたように眉をひそめた。
「おい高瀬、手書きPOP五百枚というのは何だ? 私はそんな条件、聞いていないぞ」
「あ、いえ部長。それは先方の星野さんが、前回の納品ミスの誠意としてどうしてもやらせてくれと仰いまして……」
高瀬が慌てて取り繕う。
美咲が「そんなこと言ってません!」と叫びそうになるのを、未来はテーブルの下で軽く手を挙げて制した。
「白川部長。本日はその『納品ミス』の件も含めまして、御社との健全な取引を継続するために、どうしてもご確認いただきたい資料がございます」
未来は静かに立ち上がると、手元のクリアファイルから数枚の書類を取り出し、白川部長と高瀬の前に置いた。 いつもなら困った時に出る「首の後ろを揉む癖」は、やはり今日も出なかった。未来は瞬き一つせず、氷のように冷たく澄んだ瞳で高瀬を見下ろした。
「……なんだこれは」
書類に目を通した白川部長の顔色が、見る見るうちに変わっていく。
「一点目は、先週の納品時における御社倉庫の検品記録、および当日の防犯カメラの確認書です。ご覧の通り、納品時に商品の箱が潰れていた事実は一切ございません。……つまり、高瀬様が主張されたクレームは、当社から不当な値引きを引き出すための完全な言いがかりです」
「なっ……! ふざけるな黒崎、お前、うちの現場を疑う気か!」
高瀬がバンと机を叩いて立ち上がった。
だが未来は、声のトーンを1ミリも変えることなく続けた。
「二点目をご覧ください。なぜ高瀬様が、これほど無理な条件を突きつけてまで当社との契約を破棄させようとしたのか。その『本当の理由』がそちらに記載されております」
高瀬の息が、ヒュッ、と詰まった。 白川部長が二枚目の書類をめくる。そこには、銀座のバーで高瀬自身のスマートフォン画面に映し出されていたネットバンキングの入金履歴のキャプチャ画像と、競合他社である『サクラ飲料』の営業担当とのメッセージのやり取りが鮮明にプリントされていた。
「高瀬……? この『コンサル料』という名目の毎月の振り込みは何だ? なぜサクラ飲料の専務から、お前の個人口座に三百五十万円もの金が入っているんだ!?」
白川部長の怒声が会議室に響き渡った。
「ち、違います部長! これは……その、プライベートな貸し借りで、会社の取引とは一切関係ありません! こんな画像は捏造です!」
額から脂汗を噴き出させながら必死に弁明する高瀬の前で、未来は懐からスマートフォンを取り出し、テーブルの中央に置いた。
「では、こちらもご確認いただきましょうか」
未来が再生ボタンをタップする。 静まり返った会議室に、グラスの氷が鳴る音と、昨夜の銀座のバーでの高瀬の上機嫌な声がクリアに響き渡った。
『特に東都ビバレッジなんて、僕がちょっと脅せば、原価割れだろうが何だろうが尻尾振って従うんだから』 『あそこの若い女の子の担当も、今度僕とデートする約束してるしね。僕の機嫌を損ねたら取引が飛ぶって分かってるから、逆らえないのさ』 『あそこが抜けた棚には、全部サクラ飲料の商品を入れることになってるからさ。棚を一つ変えるごとに、僕の個人口座に毎月まとまった額を振り込んでくれるんだよ。この時計も、そのおかげってわけ』
音声が止まった瞬間、会議室はまるで墓場のような静寂に包まれた。 美咲は信じられないものを見るように口元を両手で覆い、沙耶は冷たい軽蔑の眼差しで高瀬を睨みつけている。
「……あ、あの声は……きのうの、バーの女……!?」
高瀬の顔から完全に血の気が引き、ガタガタと膝が震え始める。
「な、なんでその音声をお前が持ってるんだ!? お前、あの女とグルだったのか! 罠だ、部長、私はハメられたんです!」
「黙れ、高瀬ッ!!」
白川部長が顔を真っ赤にして一喝した。
「取引先の女性社員にセクハラまがいの強要をした挙げ句、競合他社から裏金を受け取って自社の棚を売り渡していただと!? 貴様、これが表沙汰になったら懲戒解雇どころか背任罪で刑事告訴だぞ!!」
「ひっ……! ぶ、部長、どうかそれだけは……!」
高瀬はその場にへたり込み、左腕の高級時計を隠すようにしながら必死に白川部長の袖にすがりついた。昨日までの傲慢な態度は見る影もない。
「さらに付け加えさせていただきますと」
未来は冷徹な声で、最後のトドメを刺した。
「こちらのUSBメモリには、御社の営業部の女性社員の方々から寄せられた、高瀬様による日常的なパワーハラスメントおよびモラルハラスメントの音声証言が収録されております。もし今回の件が御社内で適切に処理されない場合は、これらの全データを取引先各社および労働基準監督署へ提出する準備がございます」
逃げ道は、1ミリたりとも残っていなかった。 白川部長は深々と頭を下げ、震える声で未来に謝罪した。
「黒崎課長、ならびに星野様……。弊社の管理不行き届きにより、多大なるご迷惑とご不快な思いをさせましたこと、心よりお詫び申し上げます。高瀬は本日付で全業務から外し、厳正なる処分を下します。来月のキャンペーンにつきましても、すべて従来通りの条件にて進めさせていただきます……!」
引きずられるようにして会議室から退室していく高瀬の背中を、未来は何の感情も宿らない静かな瞳で見送った。
*
オリエントフーズの二人が帰った後、会議室には未来と美咲、そして沙耶の三人が残された。
「……黒崎課長……っ」
美咲の目から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
ずっと張り詰めていた糸が切れたように、彼女はその場に座り込んで何度も未来に頭を下げた。
「ありがとうございました……! 私、どうしたらいいか分からなくて、自分のせいで会社の取引がなくなっちゃうんじゃないかって、ずっと怖くて……!」
「美咲ちゃんは何も悪くないよ。課長として、部下を守るのは当然のことだからな。もうあの男と会う必要はない。安心しろ」
未来が優しく声をかけると、美咲は涙を拭いながら、ふとハッとしたように顔を上げた。
「あ……! でも、さっきの録音に入っていた女性の声……。高瀬さんが『昨日のバーの女』って言ってましたけど……」
美咲の瞳が、驚きと強い憧れでキラキラと輝き始める。
「あの涼しげで綺麗な声……間違いありません、先週の金曜日に私たちがお店で会った『ミクさん』です! オリエントフーズの女性社員の人たちから証言を集めてくれたのも、銀座のバーで高瀬さんから自白を引き出してくれたのも、全部ミクさんだったんですね!?」
「……まあ、彼女の調査力には今回も助けられたよ」
未来が曖昧に微笑んで頷くと、美咲は胸の前で両手を握りしめた。
「すごい……! 田中課長の時だけじゃなくて、また私を助けてくれたんだ……! ミクさんって、本当に弱い人たちを守るために戦ってくれる、正義のヒーローなんですね!」
興奮したように早口で語る美咲を見つめながら、未来の胸の奥には、前回以上の強い全能感が広がっていた。 自分の力ひとつで、絶対的な強者だったはずの取引先をひざまずかせ、部下の涙を笑顔に変えることができる。
だが、会議室を出た廊下で、未来を待っていたのは称賛の声だけではなかった。
「――また随分と、鮮やかな手口でしたね、黒崎課長」
書類の束を抱えた相沢沙耶と並んでいた法務部の榊原誠が、銀縁眼鏡の奥の冷たい瞳で未来を見つめていた。 榊原はカフスボタンの位置を指先で直しながら、静かに未来の前へと歩み寄った。
「白川部長から、法務部の方にも正式な謝罪の連絡が入りましたよ。競合他社からの裏金に、銀座のバーでの隠し録り、さらには先方の社員からの内部証言……。わずか二日足らずで、よくこれだけの『爆弾』を揃えましたね」
「偶然、有力な情報提供者がいたものですから。結果として会社の利益と社員の尊厳は守られました。何か問題でも?」
未来が背筋を伸ばして真っ直ぐに問い返すと、榊原は数秒間だけ静かに目を閉じた。
「……先日も申し上げましたよね、黒崎くん。正しいことをするのと、正しいやり方をするのは別です。今回の証拠の集め方は、一歩間違えれば違法なプライバシー侵害や脅迫と取られかねない、非常に危ういものです」
「しかし、正規の手続きで抗議していたら、今頃うちは契約を切られ、星野さんは泣き寝入りしていました。違いますか?」
未来の声には、一切の迷いがなかった。 そのあまりにも堂々とした、冷徹なまでの結果主義の態度に、隣にいた沙耶が中指で眼鏡のブリッジを押し上げながら、小さく息を呑むのが分かった。
「力を手に入れた人間は、すぐにその力を振るうこと自体が目的になる。……あなたのその『情報提供者』が誰なのかは知りませんが、深入りしすぎないことです。いつか必ず、あなた自身の身を滅ぼすことになりますよ」
榊原はそれだけ言い残すと、静かな足音で去っていった。
「……黒崎くん」
沙耶が心配そうに、だがどこか警戒するような目で未来を見た。
「榊原課長の言う通りよ。美咲ちゃんを助けてくれたことには感謝してるけど……今のあなた、なんだか危なっかしくて見ていられないわ」
「心配性だな、沙耶は。俺はただ、会社のため、みんなのために動いてるだけだよ」
未来は軽く笑って肩をすくめ、自分の課長席へと戻っていった。 榊原や沙耶の警告は、今の未来には、結果を出せない人間たちの臆病なブレーキにしか聞こえなかった。
自分のやり方が正しいことは、すでに二度の圧倒的な勝利が証明している。 デスクに座り、冷めたブラックコーヒーを飲み干した未来の瞳からは、かつての迷いも、そして人間らしい温かな揺らぎも、また一つ静かに消え去ろうとしていた。




