第二話 名前のない女 ②
翌日の退勤時刻を少し過ぎた頃。
オリエントフーズが入るオフィスビルの近くにある、落ち着いた雰囲気のカフェラウンジに、一人の女性の姿があった。
艶のある黒髪のロングヘアに、ワインレッドのシルクのブラウスと黒のタイトなペンシルスカート。 ミクの姿になった未来だった。
ミクは窓際の席に座り、甘いベリー系のカクテルが注がれたグラスをゆっくりと傾けながら、ビルから出てくる社員たちの姿を観察していた。 昨日、高瀬の部署のフロアを通り抜けた際、給湯室の前でため息をついていた二人の若い女性社員の顔はしっかりと記憶している。彼女たちが退勤後に立ち寄りそうな店をいくつか絞り込み、ここで待ち伏せをしていたのだ。
やがて、カフェの自動ドアが開き、見覚えのある二人の女性社員が入ってきた。
二人は疲れた表情で席に着くと、すぐに高瀬に対する愚痴をこぼし始めた。
「……ほんと、今日も高瀬さんの機嫌最悪だったね。東都ビバレッジの若い担当の子、手書きのPOP五百枚押し付けられたらしいよ」
「うわ、また? 先月も別のメーカーの女の子泣かせてたのに。でもさ、私たちも下手に逆らうと、すぐ『これだから女は使えない』って評価下げられるから、何も言えないしね……」
重い空気の中でため息をつく二人。 ミクはグラスを置くと、ファイルを手にして立ち上がり、ヒールの音を静かに響かせながら彼女たちのテーブルへと歩み寄った。
「突然ごめんなさい。オリエントフーズの営業部の方かしら?」
涼しげで知的な声が降ってくると、二人の女性社員は驚いて顔を上げた。 目の前に立つ、モデルのように洗練された美女に、二人は目を丸くしている。
「あ、はい……そうですけど、どちら様ですか?」
「私はミク。フリーランスで企業間の取引環境のコンサルティングをしているわ。実は今、いくつかの食品メーカーさんから依頼を受けて、御社の高瀬智也さんに関する非公式なヒアリングを行っているの」
ミクはゆっくりと右耳に長い黒髪をかけ、相手を安心させるような柔らかな微笑みを浮かべた。 もちろん、メーカーからの依頼などというのは真っ赤な嘘だ。しかし、ミクの纏う隙のない知的な雰囲気と、あらかじめ用意しておいたダミーの調査資料の束が、その嘘に圧倒的な説得力を与えていた。
「少しだけ、お時間をいただけないかしら? もちろん、あなたたちのお名前が外に出ることは絶対にないわ。……あなたたちも、彼のやり方にずっと苦しんでこられたのでしょう?」
その言葉は、誰にも相談できずに鬱憤を溜め込んでいた彼女たちの心の奥に、すっと染み込んでいった。
二人は顔を見合わせ、やがて観念したように小さく頷いた。
「……ここじゃなんですから、奥の席へどうぞ」
ミクが向かいの席に腰を下ろすと、女性社員たちは最初は遠慮がちに、しかしミクが巧みに相槌を打って共感を示すうちに、次々と高瀬の日常的なパワハラやモラハラの実態を語り始めた。
「高瀬さん、東都ビバレッジの美咲さんっていう子のこと、『あいつはチョロいから、少し脅せば何でも言うことを聞く』って喫煙所で笑ってたんです。『東都なんて、うちが契約切るって言えばどんな無理難題でも飲むからな』って……」
「来週の金曜日に食事に誘ってるのも、最初から下心見え見えで……。私たち、同じ女として本当に見ていられなくて」
ミクは涼しい顔のまま、テーブルの下でスマートフォンの録音アプリを稼働させていた。
だが、彼女たちの証言だけでは、まだ高瀬の息の根を止めるには足りない。高瀬はオリエントフーズの営業部長のお気に入りだ。多少のハラスメントの噂程度なら、「熱心な指導の一環だった」ともみ消される可能性がある。
必要なのは、会社組織が絶対に彼を庇いきれなくなるほどの、致命的な『裏切り』の証拠だ。
「ふふっ、本当にそうでしょうか?」
ミクはわざとらしく小首を傾げ、氷の入ったグラスをカランと揺らした。
「彼が東都ビバレッジさんにそこまで無理な条件を突きつけるのは、単にいじめたいからだけかしら? ……まるで、東都ビバレッジさんが自分から契約を降りるように、わざと仕向けているみたいだわ」
「え……?」
「あなたなら、どうします? もし、あるメーカーを追い出して、別のメーカーの商品を棚に並べたい特別な理由があるとしたら」
ミクの静かな誘導に、一人の女性社員がハッと息を呑んだ。
「……サクラ飲料、ですか?」
「ええ。何か心当たりがあるのね?」
「実は……高瀬さん、半年前くらいから、急に羽振りが良くなったんです。昨日も、百万円以上する新しい高級時計を自慢してて。ちょうどその頃から、会議でやたらと『これからは東都ビバレッジよりサクラ飲料を推すべきだ』って主張するようになったんです」
もう一人の女性社員も、声を潜めて身を乗り出した。
「そういえば先月、高瀬さんのデスクに書類を置きに行った時、個人のスマホの画面が見えちゃったんです。サクラ飲料の営業担当の人からメッセージが来てて、『今月分の謝礼はいつもの銀座のバーのボトルキープ代として処理しておきます』って書いてありました……!」
――やはり、そうか。 ミク(未来)の瞳の奥が、冷たく光った。
競合企業からの個人的なリベート(賄賂)の受領。 自分の懐を肥やすために、会社の利益を無視して東都ビバレッジに不当な要求を突きつけ、取引を破綻させようとしていたのだ。これなら、どれほど上司に気に入られていようと、オリエントフーズとしても懲戒処分にせざるを得ない。
「その銀座のバーの名前、覚えているかしら?」
「えっと、確か……並木通りにある『ノクターン』っていう会員制っぽいお店だったと思います。高瀬さん、水曜日の夜はいつもそこに行くって自慢してましたから」
今日は水曜日だった。
時計の針は、午後八時を指している。
「ありがとう。あなたたちの勇気あるお話、決して無駄にはしないわ」
ミクは優雅に微笑んで立ち上がると、テーブルに多めの紙幣を置き、カフェを後にした。
*
午後九時半。銀座・並木通り。 重厚な木製の扉を開けてバー『ノクターン』へ足を踏み入れたミクは、カウンターの中央で一人、ウイスキーのグラスを傾けている高瀬智也の姿をすぐに見つけた。
高瀬は自分の左腕にはめた高級時計を眺めながら、前髪を指で何度も梳いている。 ミクはバーテンダーに軽く目配せをすると、高瀬のすぐ隣の空いていたスツールへと、自然な動作で腰を下ろした。
ふわりと漂った甘く冷たい香水の匂いに、高瀬が隣を向く。 そして、そこに座るミクの整った横顔と、タイトなスカートから伸びる美しい脚線美を目にした瞬間、高瀬の目が分かりやすく見開かれた。
「……こんばんは。お一人ですか?」
高瀬はすぐさま声のトーンを低く作り、前髪を撫でつけながら声をかけてきた。 昨日、未来に対して見せた傲慢で冷淡な態度とはまるで別人のような、下心と虚栄心に満ちた笑顔だった。
「ええ。仕事の打ち合わせが早く終わってしまって、少しだけ飲んで帰ろうと思って」
ミクがゆっくりと右耳に髪をかけながら微笑むと、高瀬はすっかり気を良くしたように身を乗り出してきた。
「奇遇だなあ、僕もなんですよ。よかったら、そちらのグラス、僕にご馳走させてくれませんか? こんな綺麗な人を一人で飲ませておくなんて、銀座の男が廃るからね」
「まあ、お優しいのね。……素敵な時計。とても高価なものでしょう?」
ミクが視線を落とすと、高瀬は待ってましたとばかりに左腕を突き出し、時計の文字盤を見せびらかした。
「わかる? これ、スイスの限定モデルでさ、普通じゃ手に入らないんだよ。まあ、僕くらいになると、取引先から色々と『特別な感謝』をされる立場だからね」
そこからは、驚くほど簡単だった。 ミクが甘いカクテルを口に運びながら、「すごいですね」「どんなお仕事をされているんですか?」「私、業界の裏話って大好きなんです」と少し小首を傾げて相槌を打つだけで、見栄っ張りな高瀬は面白いように自分の権力と裏の顔を自慢し始めたのだ。
「大手食品卸のオリエントフーズって知ってる? そこでの仕入れは、実質僕が全部握ってるようなもんでさ。メーカーの連中はみんな僕にペコペコしてるよ。特に東都ビバレッジなんて、僕がちょっと脅せば、原価割れだろうが何だろうが尻尾振って従うんだから」
「ふふっ、本当にそうでしょうか? 東都ビバレッジさんって、業界でも大手のしっかりした会社だと聞いていましたけれど」
「あそこは上が間抜けなんだよ。最近も二十代の若造が課長になってさ、昨日も僕に泣きついてきたけど、適当にあしらってやったよ。あそこの若い女の子の担当も、今度僕とデートする約束してるしね。僕の機嫌を損ねたら取引が飛ぶって分かってるから、逆らえないのさ」
高瀬は下品な笑みを浮かべ、グラスの氷を鳴らした。
カウンターの上に置かれたミクの小さなクラッチバッグの中では、ボイスレコーダーが赤いランプを静かに点灯させ、その一言一句を鮮明に記録し続けている。
「でも、そんな風に強く出て、もし東都さんに降りられたら困るんじゃありませんか?」
「全然? むしろ好都合だよ。あそこが抜けた棚には、全部『サクラ飲料』の商品を入れることになってるからさ。サクラの専務は話が分かる人でね、棚を一つ変えるごとに、僕の個人口座に『コンサル料』として毎月まとまった額を振り込んでくれるんだよ。この時計も、そのおかげってわけ」
高瀬はすっかり酔いが回ったのか、スマートフォンを取り出すと、サクラ飲料の担当者との生々しいやり取りの画面や、ネットバンキングの入金履歴まで、ミクの目の前で見せびらかすように開いてみせた。
「ね? だから君も、僕と仲良くしておけば悪いようにはしないよ。このあと、もう一軒どう?」
高瀬の手が、ミクの肩に触れようと伸びてくる。
ミクはそれを、流れるような自然な動作でかわし、スツールからすっと立ち上がった。
「え? あれ、もう帰っちゃうの?」
キョトンと見上げる高瀬を、ミクは氷のように冷たい瞳で見下ろした。 先ほどまでの柔らかな微笑みは、もうどこにもない。
「ええ。とても面白いお話を、たくさん聞かせていただきましたから」
ミクはバッグから一枚のコースターを取り出し、高瀬の目の前に置いた。 そこには、ミクが細いペンで書いた『サクラ飲料からの裏金受領額・合計三百五十万円』という数字と、先ほど覗き見た高瀬の隠し口座の支店名が正確に記されていた。
「なっ……!? なんでお前、これを……!?」
高瀬の顔から、一瞬で酔いが吹き飛んだ。 青ざめて立ち上がろうとする高瀬を残し、ミクは伝票を置いて、ヒールの音を響かせながら店の外へと歩き出した。
夜の銀座の冷たい風が、ミクの長い黒髪を揺らす。 人の気配のないビルの隙間へと入り込み、意識を切り替える。 数秒後、路地から出てきたのは、ネイビーのスーツを着た黒崎未来だった。
手の中のスマートフォンには、高瀬の破滅を決定づける完全な音声データと、画面を隠し撮りした画像が収められている。 これで、美咲は救われる。明日、高瀬に引導を渡してすべて終わりだ。
未来は満足げに息を吐き、駅へ向かって歩き出した。
だが、その時。
ふと通りかかったデパートのショーウィンドウに、革の手袋が飾られているのが目に入った。
なぜか、足が止まった。
(……この手袋。俺、誰かに似たようなのをプレゼントされたことがあった気がする)
冬の寒い日。 誰かが、少し照れくさそうに笑いながら、自分の冷えた手に手袋をはめてくれた記憶。 とても温かくて、胸がいっぱいになるほど幸せだったはずの思い出。
けれど、その手袋をくれた相手の顔も、名前も、それがいつだったのかも、未来の頭の中からは綺麗に消え失せていた。 ただ、ガラスに映る自分の無表情な顔だけが、夜の闇の中で白く浮かび上がっていた。




