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第二話 名前のない女 ①

『その力を、何のために使う?』


東都ビバレッジ営業部、第二課。 一番奥の課長席で、黒崎未来は手元のブラックコーヒーに口をつけながら、数日前に自宅のテーブルに残されていたあの白いカードの文字を思い返していた。


結局、あの夜にベランダから見かけた黒いコートの男が誰だったのかは分からないままだ。 ただの通りすがりだったのかもしれないし、自分の秘密を知る何者かだったのかもしれない。


念のため玄関の鍵を交換し、部屋の隅々まで盗聴器やカメラがないか調べたが、怪しいものは何一つ見つからなかった。

カードそのものも、翌朝もう一度見直した時には、なぜか最初から自分の引き出しの奥に入っていたメモ紙だったような気さえしてきて、未来はそれをシュレッダーにかけた。


(……考えすぎだ。俺はただ、やるべきことをやっただけじゃないか)


未来はモニターに視線を戻し、決済待ちの稟議書に次々と承認のクリックをしていく。


二十九歳での異例の課長昇進から、二週間が経っていた。 社内ではすでに、未来が前任の田中課長の不正を暴いた功労者として一目置かれている。部下たちの士気は高く、第二課の営業成績は順調に推移していた。


だが、一歩会社の外へ出れば、話は別だった。 若くして急に課長になった未来を、長年の取引先の中には「経験不足の若造」として軽く見る者も少なくない。


その日、フロアの入り口から戻ってきた後輩の星野美咲の姿を見た瞬間、未来は小さく眉をひそめた。


いつもならポニーテールを軽やかに揺らして明るく挨拶をする美咲が、今日は青い顔をして、唇を強く噛み締めながら自席へと歩いてきたのだ。 レモンイエローのブラウスの肩が、小刻みに震えている。


「……美咲ちゃん? どうした、オリエントフーズの商談だったよな」


未来が課長席から声をかけると、美咲はビクッと肩を揺らし、慌てて笑顔を作ろうとした。


「あ、黒崎課長……。ただいま戻りました。いえ、その……ちょっと先方の高瀬さんから、追加の要望をいただきまして……」


語尾が震えている。 それを見て、隣の企画課の席から相沢沙耶がすっと立ち上がり、美咲のデスクへと歩み寄った。


「美咲ちゃん、ちょっとその発注書見せてみなさい」


「あ、相沢主任……」


沙耶は美咲の手から書類を受け取ると、細いフレームの眼鏡のブリッジを中指でクイッと押し上げた。 数秒間、書類に目を通した沙耶の表情が、見る見るうちに険しくなる。


「……黒崎くん。ちょっとこれ見て」


沙耶が課長席までやってきて、書類を未来のデスクに置いた。

そこには、来月行われる大手食品卸『オリエントフーズ』の販促キャンペーンに関する条件が記載されていた。


「なんだこれ……。納品価格を従来の十五パーセント引き? しかも、キャンペーン用の販促什器の費用と、週末の店舗応援の人件費をすべてうちが負担することになってるじゃないか」


未来は思わず声を上げた。

こんな条件を飲めば、東都ビバレッジ側には利益がまったく残らないどころか、完全な赤字になる。


「高瀬さんが……『うちの倉庫で東都さんの飲料の箱が少し潰れてた、クレームとして上に報告されたくなければ、この条件で来月のキャンペーンを回せ』って……」


美咲が消え入りそうな声で言った。 焦ると早口になり、身振りが大きくなるいつもの彼女ではない。よほど高圧的な態度で詰め寄られたのか、両手を胸の前でギュッと握りしめている。


「しかも、それだけじゃないんです……」


美咲は悔しそうに唇を少し尖らせ、目に涙を浮かべた。


「私が『一度持ち帰って課長に相談します』って言ったら、『これだから女の営業は話が通じなくて困るんだよな』って笑われて……。『来週までに、手書きで全店舗分のPOPを五百枚書いて持ってこい。お前みたいな若い女の子が一生懸命書いた方が、現場のおじさんたちも喜ぶだろ』って……」


フロアの空気が、ピリピリと凍りついた。 五百枚の手書きPOPなど、通常の業務をこなしながら一週間で作れる量ではない。事実上の徹夜強要であり、明白な嫌がらせだった。


「……はあ!? なんだそりゃ、完全にイカれてんじゃねえか!」


第一課との境目あたりで話を聞いていた武田健太郎が、丸太のような太い腕を組んで憤りの声を上げた。額の汗をヨレヨレのハンカチで拭いながら、ずかずかとこちらへ歩いてくる。


「オリエントフーズの高瀬智也だろ? あいつ、第一課でも評判最悪だぞ。男の担当者が行くとヘコヘコしてるくせに、相手が若い女性社員だと分かると急に態度がデカくなって、無理難題をふっかけてくるんだ。……おい未来、こんなもん突っぱねちまえよ!」


武田の言う通りだった。 だが、未来はすぐには頷けず、無意識に左手で首の後ろを揉んだ。


オリエントフーズは、東都ビバレッジにとって首都圏のスーパーや小売店へ商品を卸すための極めて重要なハブ企業だ。 そして担当の高瀬は、先方の営業部長のお気に入りとして知られており、下手に逆らって取引を縮小されれば、課長になったばかりの未来の責任問題に直結する。


「……俺が一度、高瀬さんのところへ行って話をしてくる。担当も俺が引き継ぐよ、美咲ちゃん」


「えっ、でも……! 高瀬さん、『今度お前の上司が直接謝りに来たら、その時点で契約自体を見直すからな』って言ってました……!」


美咲が顔を上げて言う。 相手は、こちらが上司を出してくることすら先読みして、退路を塞いでいるのだ。若くして課長になった未来の足元を完全に見て、美咲を人質にするようにして不当な条件を飲ませようとしている。


*


その日の午後。

未来は念のため、一人でオリエントフーズのオフィスへと足を運んだ。

「近くまで来たので、新任のご挨拶に」という名目だったが、応接室に現れた高瀬智也は、露骨に面倒くさそうな顔をしてソファにふんぞり返った。


三十五歳。中肉中背の体躯に、少し派手な光沢のあるスーツを着ている。 左手の袖口からは、営業マンの給料では到底買えないようなスイスの高級腕時計が覗いていた。


「ああ、黒崎課長ね。若いとは聞いてたけど、ほんとに僕より年下なんだ。で、今日は何の用? 星野さんには全部伝えたはずだけど」


高瀬は未来の顔を見ることもせず、自分の前髪をやたらと気にして指先で何度も梳きながら言った。


「来月のキャンペーン条件についてですが、高瀬様。少し当社の負担が大きすぎるかと存じます。また、五百枚の手書きPOPというのも、現実的なスケジュールとしては――」


「はあ? なに言ってるの、君」


高瀬は呆れたように鼻で笑い、前髪を梳く手を止めて未来を冷たく見下ろした。


「星野さんがねえ、先週の納品確認の時にちょっと不手際をやらかしてさ。僕が現場との間に入って、必死に頭下げて収めてあげたんだよ? その誠意を見せてほしいって言ってるだけなんだけど」


「不手際と仰いますが、納品時の検品書には異常なしのサインをいただいております」


「あとから見つかったんだよ。……なに? 東都ビバレッジの新しい課長さんは、うちの現場が嘘をついてるって言うわけ? いいよ別に、僕の一存で来期からの東都さんの棚割り、全部ライバル社の『サクラ飲料』に変えてもいいんだから」


高瀬はわざとらしく高級時計を見つめると、チラリと未来を見て薄笑いを浮かべた。


「それにさ、星野さんも『自分が責任取ってPOP書きます、高瀬さんのお役に立ちたいです』って言ってたよ? あの子、来週の金曜日の夜に、僕と二人きりでキャンペーンの反省会兼、お食事に行く約束までしてくれてるんだよね。そこへ無粋な上司が割り込んで、彼女の顔を潰すの?」


未来の背筋に、冷たい怒りが走った。 食事の約束など、美咲が自分からするはずがない。取引を盾にとって、断れない状況に追い込んで強要したのだ。


「……高瀬様。業務時間外の個人的な会食につきましては、当社としても――」


「うるさいなあ。君さ、まだ二十代でしょ? 課長になったばっかりで実績が欲しいんなら、余計な口出ししないで、部下の女の子にうまく立ち回らせとけばいいんだよ。それが大人のやり方でしょ?」


高瀬は立ち上がると、ネクタイに輝くブランド物のネクタイピンを指で弾き、そのまま応接室から出て行ってしまった。


一人残された応接室で、未来はゆっくりと息を吐いた。 怒りで手が震えているのかと思ったが、自分の手を見ても、指先はピクリとも揺れていなかった。 代わりに、頭の中が急速に冷えていく感覚があった。


正面から抗議すれば、あの男は本当に取引を切るか、美咲にさらなる嫌がらせをするだろう。 男の『黒崎未来』として正論をぶつけても、取引先という絶対的な強者の前では何の力も持たない。


(……あいつは、自分が絶対に安全な場所にいると思っている)


応接室を出て、オリエントフーズのオフィスフロアを通り抜ける。 ふと周囲を見渡すと、高瀬の部署で働いている女性社員たちが、高瀬の姿を見るなりサッと視線を逸らし、重苦しい空気でキーボードを叩いているのが目に入った。 給湯室の前では、若い女性社員が二人、疲れ切った顔で小さくため息をついている。


高瀬のあのモラハラ気質と女性蔑視は、東都ビバレッジの美咲に対してだけでなく、自社の女性社員たちに対しても日常的に向けられているに違いなかった。 そして、高瀬の左腕に光っていた、数百万円は下らないであろう高級腕時計。先ほど彼の口から出た、競合他社『サクラ飲料』の名前。


「……なるほど」


未来はエレベーターに乗り込み、閉まっていく扉の金属面に映る自分の顔を見つめた。 瞬きを一つもしない、静かで暗い瞳がそこにはあった。


美咲を守るためだ。 理不尽な要求から、自分の部下と会社を守るため。 そのためなら、もう一度だけ『あの力』を使うことに、何の躊躇いがあるだろう。


あの白いカードに書かれていた『その力を、何のために使う?』という問いかけが、再び脳裏をかすめる。 答えは決まっている。弱い立場の人たちを、あんな下劣な男から救い出すために使うのだ。


未来が心の中でそう決意した瞬間、エレベーターの鏡面に映る彼の輪郭が、ほんの一瞬だけ、長い黒髪の女性の姿に重なって見えた。

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