第一話 影のない男 ⑤
「黒崎課長、こちらの決裁書類に承認印をお願いします!」
「課長、来期の予算案のドラフトですが、一度目を通していただけますでしょうか」
翌日から、黒崎未来を取り巻く環境は劇的に変わった。 東都ビバレッジ営業部、第二課。その一番奥にある課長席が、今の未来の定位置だった。
昨日まで田中修一がふんぞり返って座っていた肘掛け付きの椅子に腰を下ろし、未来は次々と運ばれてくる書類に目を通していく。 フロア全体を見渡せるこの席からの眺めは、係長時代のデスクとはまったく違っていた。
田中の姿が消えた第二課には、嘘のように明るく活気のある空気が流れている。
部下たちは皆、新しく課長になった未来の指示を仰ぎ、頼りにし、感謝の目を向けてくる。
「ありがとう、星野さん。この資料、すごく分かりやすくまとまってるね」
「ほ、本当ですか!? ありがとうございます、黒崎課長!」
星野美咲が、ポニーテールを揺らして嬉しそうに顔を輝かせる。 自分の言葉ひとつで後輩がやる気を出し、自分の判断ひとつで課全体の仕事がスムーズに回っていく。
(悪くないな……)
未来は書類にハンコを押しながら、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。 初めてだった。自分の力で理不尽な壁を打ち破り、誰かを救うことができたという確かな実感。
これまでずっと、自分が我慢して頭を下げていれば丸く収まると思っていた。 けれど、本当に誰かを守るためには、時に手段を選ばず『力』を使ってでも、上に立って戦わなければならないのだ。
昼休み、給湯室の方から美咲と女性社員たちの楽しげな話し声が聞こえてきた。
「ねえ聞いた? 第一課の人たちも『第二課にすごい女性コンサルが入ったらしい』って噂してたよ」
「ミクさんのことだよね! あの人、一体どこの誰なんだろう。黒崎課長の知り合いなのかな?」
「分かんないけど、私たちの悩みを聞いて、あっという間に田中課長を追い詰めてくれたんだもん。ミクさんなら、どんな理不尽な相手でも絶対に負けないんだろうな……」
美咲たちの無邪気な会話を遠くに聞きながら、未来は手元のマグカップに淹れたブラックコーヒーを一口飲んだ。 苦い液体が喉を通る。
誰も、目の前でコーヒーを飲んでいる二十九歳の男が、その『ミク』本人だとは夢にも思っていない。 男の黒崎未来として表の組織を動かし、女のミクとして裏の情報網を掌握する。この二つの姿があれば、これから先、どんな敵が立ちはだかろうと恐れることはない。
「……いい顔になったじゃないか、未来」
不意に横から声をかけられ、顔を上げると、第一課の武田健太郎が分厚い胸板を揺らしながら立っていた。 相変わらず少しシワの寄ったスーツを着て、額の汗をヨレヨレのハンカチで拭っている。
「武田。どうしたんだよ、他部署のフロアまで来て」
「いやなに、同期が一番乗りの出世頭になったんだ、冷やかしに来るに決まってんだろ。……課長サマ、今夜は空いてるか? 祝杯を挙げようぜ」
「ああ、いいよ。いつもの店でいいか?」
「おう! 今夜は俺が奢ってやるから、腹いっぱい唐揚げ食えよ!」
武田はガハハと豪快に笑い、未来の肩をバシンと強く叩いて自分の課へと戻っていった。 その泥臭くて裏表のない笑顔を見ていると、未来の肩から自然と余計な力が抜けていくようだった。
*
「っくぅ~~っ! やっぱり出世祝いのビールは格別だなあ!」
その夜。駅前のガード下にある大衆居酒屋で、武田はいつものように最初の一口でジョッキを半分空け、店内に響くような声を上げた。
「お前が飲んでどうするんだよ、俺の祝いだろ」
「細かいことは気にすんなって! いやあ、それにしても昨日の会議は凄かったな。お前が田中の野郎に証拠を突きつけた時の顔、第一課の奴らもみんなシビれたって言ってたぞ」
武田は上機嫌で自分のジョッキを傾け、運ばれてきた山盛りの鶏の唐揚げと、自家製風に焼かれた羽根つき餃子を未来の前に押しやった。
「ほら、どんどん食え。お前、昔からここの唐揚げが一番好きだっただろ」
「ああ、ありがとう」
未来は箸を伸ばし、揚げたての唐揚げを口に入れた。 ジュワッと広がる油と肉の旨味。美味しいとは思う。だが、なぜか以前ほど感動がないことに気づき、未来は小さく首を傾げた。自分の味覚が少し変わったのだろうか。
「でもよ、未来」
武田が餃子を頬張りながら、ふと真面目な目をして未来を見た。
「課長になったのは本当にめでたいが、あんまり無理すんなよ。大崎部長の目もあるし、上に立ちゃ立つで、今まで以上に面倒な社内政治に巻き込まれるんだからな」
「分かってるよ。でも、もう前みたいに黙って頭を下げる気はない。うちの課の連中を守るためにも、俺がしっかりしないと」
「そうか。……まあ、お前がそう言うなら大丈夫だろうけどよ」
武田は少し困ったように後頭部をガシガシと掻いた。
「なんかさ、今日のお前見てると、ちょっとだけ背筋が伸びすぎてるっつーか……。ま、生きてりゃなんとかなるだろってくらいで、たまには俺の前では弱音も吐けよな」
「なんだよそれ。俺は何も変わってないって」
未来は笑って発泡酒のグラスを合わせた。
会話が弾む中、武田がふと昔話を始めた。
「そういやさ、お前がそこまで思い切って動いたの見るの、入社一年目の新人研修以来じゃねえか? あの時も、同じ班だった……ほら、あいつ誰だっけ。お前が大学時代から仲良かった奴」
「え? 大学時代から……?」
「ほら、あいつだよ。途中で会社辞めて他所に行っちまったけど、研修の時にお前とよくつるんでた……ええと、俺も名前がパッと出てこねえな。お前の方がずっと仲良かっただろ、学生時代いつも一緒にいたっていう同級生だよ」
武田に言われ、未来は記憶の糸を手繰り寄せようとした。 大学時代、いつも一緒にいた同級生。そして同じタイミングでこの会社を受けるかどうかの話をした友人。
確かに、そんな友人がいたはずだ。
大学の講義をサボって、安い定食屋で飯を食って、将来の話をした――。
(……あれ?)
未来の箸がピタリと止まった。
思い出せない。 その友人の名前どころか、どんな顔をしていたのか、どんな声をしていたのかが、頭の中からすっぽりと抜け落ちているのだ。
記憶の映像を再生しようとすると、自分の隣に座っているはずのその人物の顔の部分だけが、まるで最初から塗りつぶされていたかのようにぼやけて見えない。
「……未来? どうした、お前も名前ど忘れしたか?」
「あ……いや。ちょっと、今すぐには顔が浮かばなくて……」
「おいおい、薄情だなあ! あんだけ仲良かったって自慢してたのに、課長になると昔のダチの顔も忘れるのかよ!」
武田は冗談めかして笑ったが、未来は笑えなかった。 ただの「ど忘れ」ではない。喉元まで出かかって思い出せないのとは明らかに違う。記憶の引き出しを開けたら、そこにあるはずのファイルそのものが消滅していたような、底知れない空虚感だった。
未来は無意識のうちに左手で首の後ろを強く揉んだ。
*
午後十時過ぎ。 武田と駅で別れた未来は、少し酔いの回った頭を抱えながら、自宅のマンションへと続く夜道を歩いていた。
なぜ、あんなに親しかったはずの同級生の顔が思い出せないのか。 考えれば考えるほど、頭の中の空白が不気味に広がっていくような気がして、未来はかぶりを振った。
疲れているだけだ。この数日間、あまりにも色々なことが起きすぎた。
マンションのエントランスを抜け、エレベーターで自室の階へと上がる。
鍵を開けて部屋に入り、玄関で革靴を脱ぐ。
廊下の電気をつけ、リビングのドアを開けてスーツの上着を脱ごうとした、その時だった。
未来の足が、凍りついたように止まった。
誰もいないはずの暗いリビング。 窓から差し込む街灯の淡い光に照らされたローテーブルの中央に、一枚の白い紙が置かれていたのだ。
(……なんだ、あれ?)
今朝、家を出る時には確実になかったものだ。 玄関の鍵は閉まっていた。防犯チェーンこそかけていなかったが、誰かが侵入したような形跡はどこにもない。
未来はゴクリと唾を飲み込み、ゆっくりとテーブルへ歩み寄った。
指先でその白い紙をつまみ上げ、リビングの照明を点灯させる。
名刺サイズよりも少し大きい、上質な白いカードだった。 そこには、黒のインクで、たった一言だけこう記されていた。
『その力を、何のために使う?』
――ドクン、と心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
ペンで手書きされた文字だった。
どこかで見たことがあるような気もするし、まったくないような気もする、整った筆跡。
「……誰だ……?」
未来は部屋の中をぐるりと見回した。
クローゼットも、洗面所も、キッチンの奥も、人の気配はまったくない。ただ冷蔵庫の低いモーター音だけが、静まり返った部屋に響いている。
『その力』。 それが何を指しているのかなど、考えるまでもなかった。あの『ミク』へと姿を変える異能のことだ。
誰かが、自分の秘密を知っている。 それどころか、この部屋に自由に出入りできる人間がいるのか? いや、あるいは――自分が知らないうちに、自分自身で書いてここに置いたとでもいうのか?
未来は紙を握りしめたまま、ベランダの窓へと駆け寄り、勢いよくカーテンを開け放った。
五階のベランダから、深夜の静まり返った路地を見下ろす。
冷たい夜風が吹き抜ける無人の道路。
その街灯の下を、一人の男がゆっくりと歩いているのが見えた。
身長は百八十センチ近くあるだろうか。がっしりとした体格を黒いコートで包んだ男だった。 男はポケットに両手を突っ込み、少し俯き加減に夜道を歩いている。
ただの通りすがりの通行人かもしれない。 だが、男が街灯の真下を通り過ぎようとした瞬間、ほんの一瞬だけ足を止め、未来の部屋の窓――五階のベランダの方を、ちらりと見上げたような気がした。
遠すぎて、また逆光になっているせいで、男の顔は暗い影に落ちてまったく見えなかった。 あの男が本当に自分を見ていたのか、それともただの偶然で夜空を見上げただけなのか、未来には判断がつかなかった。
黒いコートの男はすぐに視線を戻すと、そのまま一定の歩調で角を曲がり、夜の闇の中へと姿を消していった。
ベランダの手すりを掴んだまま、未来はしばらくの間、誰もいなくなった路地を見下ろし続けていた。 手の中の紙が、じっとりとした手汗でわずかに歪む。
『その力を、何のために使う?』
失われた同級生の記憶。 部屋に残されていた謎の言葉。 そして、夜道を去っていった黒いコートの男。
すべてが何かの始まりを告げているようでありながら、その輪郭はどこまでも曖昧に霞んでいた。 ただ一つ確かなのは、黒崎未来がもう二度と、昨日までの「普通の会社員」には戻れないということだけだった。
(第一話 完)




