第一話 影のない男 ④
週明けの月曜日。 東都ビバレッジ営業部の定例会議は、張り詰めた空気の中で始まろうとしていた。
広い会議室には長机がロの字型に並べられ、上座には営業部長の大崎啓介が腕を組んで座っている。四十八歳。細身で神経質な顔立ちをした大崎は、手元のボールペンをカチ、カチ、と小さく鳴らしながら報告書の束に目を通していた。
そしてその隣には、法務部からコンプライアンス担当課長の榊原誠が同席していた。 チャコールグレーのオーダースーツを寸分の狂いもなく着こなした榊原は、七三分けの黒髪の下にある銀縁眼鏡の奥から、静かで冷徹な視線を会議室全体に向けていた。
「――以上のように、我が第二課が獲得した地方スーパーとの大型契約により、今期の部門目標は大幅に達成される見込みです。これも課長である私の綿密な指導と、裏でのフォローの賜物であると自負しております」
立ち上がって報告を行っていた田中修一課長が、小太りの胸を張りながら得意げに締めくくった。 額に浮かんだ汗をハンカチで拭いながらも、その口元は満足げに緩んでいる。
末席に座る星野美咲が、悔しそうに唇を少し尖らせて下を向くのが見えた。 隣の企画課の席では、相沢沙耶が呆れたように中指で眼鏡のブリッジを押し上げ、小さく息を吐いている。
「うむ、ご苦労だったな田中課長。引き続き数字を伸ばしてくれ」
大崎部長がボールペンを止め、次の議題へ移ろうとした、まさにその時だった。
「――大崎部長。発言よろしいでしょうか」
静かに手を挙げて立ち上がったのは、黒崎未来だった。 普段なら会議の席で自分から前に出ることなど決してない気弱な係長の突然の行動に、周囲の社員たちが驚いたように視線を向ける。
「なんだ黒崎くん、手短にしてくれたまえ」
「おい黒崎、勝手な真似をするな! 俺の報告はもう終わったんだぞ!」
田中が慌てて声を荒らげ、机の下で貧乏ゆすりを激しくする。 未来は田中の方を一度だけ見た。 不思議と、いつもなら無意識に出る「左手で首の後ろを揉む癖」は出なかった。代わりに、未来はほとんど瞬きをすることなく、静かな目で田中を見据えた。
「ただいまの第二課の報告ですが、一点だけ重大な事実誤認があります。それを訂正し、本来の報告を行うために資料を用意いたしました」
未来は手元のブリーフケースから、週末の深夜に作成しておいた人数分のクリアファイルを取り出し、美咲に目配せをした。 美咲は一瞬戸惑ったものの、未来の真剣な眼差しに何かを感じ取ったのか、すぐに立ち上がって大崎部長や榊原課長、そして各課の主任たちへと資料を配り始めた。
「な、なんだこれは……!? おい黒崎、お前何を配ってやがる!」
自分の手元にも置かれた資料の表紙を見た瞬間、田中の顔からサッと血の気が引いた。 そこには、『第二課における経費不正流用および業務上横領に関する調査報告書』と明記されていたのだ。
「資料の一ページ目をご覧ください」
未来の声は、驚くほど落ち着き払っていた。
「ここ一年間、田中課長が『接待交際費』として経理に申請し、承認された領収書の一覧です。宛先はすべて主要な取引先となっておりますが、実際の利用店舗はすべて銀座の同一の高級キャバクラです。さらに、領収書の宛名はすべて手書きであり、筆跡鑑定ソフトで照合した結果、田中課長ご自身の筆跡と九十九パーセント一致いたしました」
会議室が、ざわっ、と大きく揺れた。 第一課の席に座っていた武田健太郎が、目を丸くして「おいおい、マジかよ……」と呟くのが聞こえた。
「で、でっち上げだ!」
田中が顔を真っ赤にして立ち上がり、机をバンと叩いた。
「部長! こんなものは捏造です! 黒崎は日頃から私の指導に不満を持っていましてね、私を陥れるためにこんな偽の資料を――」
「三ページ目をお開きください」
未来は田中の怒鳴り声を、氷のように冷たい声で遮った。
「こちらは、田中課長のデスクの一番下の施錠された引き出しから発見された『個人の手帳』のコピーです。鍵はデスクの天板の裏側に養生テープで隠されていました」
「ひっ……!?」
田中の喉から、空気の抜けるような情けない音が漏れた。
「その手帳には、先ほどのキャバクラの実際の利用記録だけでなく、下請けのダミー業者である『株式会社K企画』へ架空の販促費を発注し、その一部をキックバックとして個人口座に還流させていた記録が、日付と金額まで克明に記されています。会社の決済システムのログとも完全に一致しております」
大崎部長が眉間に深い皺を寄せ、チッ、と露骨に舌打ちをした。
「……田中くん。これはどういうことかね?」
「ち、違います部長! その手帳は……そうだ、誰かが私の机に勝手に入れたんです! 私は何も知りません!」
額から滝のように吹き出す汗をハンカチで拭いながら、田中は必死に周囲を見回した。
「おい、お前らも何か言え! 俺がどれだけ第二課のために働いてきたか、分かってるだろうが!」
しかし、第二課の社員たちは誰一人として田中と目を合わせようとしなかった。 それどころか、資料を配り終えて自分の席に戻っていた美咲が、ギュッと拳を握りしめて口を開いた。
「……四ページ目に記載されている、半年前の『発注ミスによる損害補填』の件ですが」
美咲の声は少し震えていたが、その瞳は真っ直ぐに田中を射抜いていた。
「あの時、田中課長は私が発注数を間違えたと仰いました。でも、この裏帳簿の記録にある通り……本当は課長が作った裏金の穴埋めをするために、私のミスをでっち上げて、黒崎係長に始末書を書かせたんですね。……それって、おかしくないですか!?」
美咲の痛烈な告発に、会議室の温度がさらに下がった。 沙耶の隣に座る女性社員たちからも、「あの領収書、私たちもずっとおかしいと思ってました」「他にも、自分のミスを部下に押し付けているのを何度も見ました」と、次々に証言の声が上がり始めた。
女性社員たちのネットワークが、一斉に牙を剥いた瞬間だった。 普段は見下し、取るに足らない存在として扱っていた彼女たちの言葉によって、田中の逃げ道は完全に塞がれたのだ。
「う、うそだ……お前ら、俺をハメたな……!」
田中は膝から崩れ落ちるように椅子に座り込み、震える手で何度も額の汗を拭った。
その時、それまで黙って資料をめくっていた法務部の榊原が、カフスボタンの位置を指先で神経質に直しながら静かに口を開いた。
「大崎部長。ここまで客観的な証拠と証言が揃っている以上、営業部内だけで処理できる問題ではありません。直ちに田中課長の職務権限を停止し、法務部および監査室による正式な調査を開始すべきかと存じます」
「……むう。やむを得んな。田中くん、別室で待機していなさい」
大崎は不機嫌そうにボールペンを机に放り投げた。 田中は何かを言いかけたが、周囲の冷ややかな視線に耐えきれなくなったのか、青い顔のままフラフラと会議室から連れ出されていった。
扉が閉まると、重苦しかった会議室の空気が一気に弛緩した。
未来は手元の資料を揃えながら、静かに息を吐いた。
初めてだった。 いつも理不尽に頭を下げ、悔しさを飲み込むことしかできなかった自分が、初めて自分の力で悪を倒し、傷つけられていた部下たちを救うことができたのだ。 胸の奥から、じんわりと温かい達成感と、これまでに味わったことのないような強い高揚感が湧き上がってくるのを感じていた。
*
会議が終わり、社員たちがそれぞれのデスクへと戻っていく中、廊下を歩いていた未来は背後から声をかけられた。
「黒崎係長」
振り返ると、法務部の榊原誠が立っていた。 無駄な肉が一切ない細身の体躯が、ブレのない美しい姿勢で未来の前に歩み寄ってくる。
「榊原課長。先ほどはありがとうございました」
「礼を言われる筋合いはないよ。私はコンプライアンス担当として、当然の手続きを進めただけだ」
榊原は銀縁眼鏡の奥の冷静な瞳で、じっと未来の顔を見つめた。
「それよりも黒崎くん。今回の調査報告書だが……実に見事な出来だった」
「ありがとうございます」
「だが」と、榊原は腕時計のバンドに指先で触れながら言葉を継いだ。「少しばかり、出来すぎているとも感じたよ」
「……と、仰いますと?」
「施錠された引き出しの中にある個人の手帳の存在。天板の裏のスペアキー。そして、通常の営業係長の閲覧権限ではアクセスしにくい、過去三年分の詳細な経理ログとの完璧な照合」
榊原の声には、感情の起伏がまったくなかった。まるで冷徹な裁判官が事実確認を行っているかのような響きだった。
「もちろん、社内の不正を暴いたこと自体は評価されるべきだ。しかし、その証拠を集める過程において、もし非正規の手段やルール違反が含まれていたとすれば……それは別の問題を生むことになる」
未来の背中に、わずかな緊張が走った。 やはり、この男は鋭い。
「正しいことをするのと、正しいやり方をするのは別です、黒崎くん。悪を裁くためなら少しぐらい手順を飛ばしてもいい――そう考え始めた時、人は簡単に一線を越える。今回はこれ以上詮索しないが、くれぐれも気をつけることだ」
榊原は数秒間だけ静かに目を閉じると、小さく会釈をして法務部のフロアへと去っていった。
一人残された廊下で、未来は自分の手のひらを見つめた。 榊原の忠告はもっともだ。 だが、今の未来の心には、その言葉はどこか遠い世界の綺麗事のようにしか響かなかった。
(正しいやり方だけを守っていたら、美咲ちゃんたちは一生救われなかったじゃないか)
そこへ、パタパタと軽い足音が近づいてきた。 美咲と、同期の沙耶だった。
「黒崎さん! 本当に、本当にありがとうございました!」
美咲は目を少し赤くしながら、何度も深く頭を下げた。
「私、黒崎さんのこと誤解してました。いつも田中課長に言い返さないから、何も考えてないんだって……。でも、水面下であんなにすごい証拠を集めて、私たちを守ろうとしてくれてたんですね!」
「いや、俺一人の力じゃないよ。みんなの証言があったからだ」
未来が微笑むと、美咲はふと声を潜めて、目を輝かせながら言った。
「でも……黒崎さんに課長の鍵の場所や裏帳簿のことを教えたのって、もしかして『ミクさん』じゃないですか?」
「え?」
「金曜日の夜、私たち、飲み屋でミクさんっていうすごく綺麗で知的なコンサルタントの女性に会ったんです! その人に田中課長の愚痴を話したら、『その理不尽はすぐに誰かが終わらせてくれる』って言ってくれて……! やっぱり、ミクさんが黒崎さんに協力してくれたんですよね!?」
美咲の無邪気で真っ直ぐな瞳が、未来を見上げている。 彼女の中ではすでに、『ミク』という謎の女性が、弱い社員たちを救うために暗躍してくれたヒーローとして完全に出来上がっていた。
「……ああ。まあ、そんなところかな。名前までは言えないけどね」
「やっぱり! ミクさんって、本当にすごいです……! 私もいつか、ミクさんみたいになりたいな」
嬉しそうに話す美咲の横で、沙耶だけは笑っていなかった。 沙耶は細いフレームの眼鏡の奥から、何か見慣れないものを見るような目で未来をじっと見つめている。
「どうした、沙耶?」
「……ううん、なんでもないわ。ただ、会議の時の黒崎くん、なんだか別人みたいだったから」
沙耶は中指で眼鏡のブリッジを押し上げると、少しだけ眉をひそめた。
「田中課長を追い詰めてる時、あなた、一回も瞬きしてなかったわよ。昔から困るとすぐ首の後ろを揉んでたのに、今日はそれもなかったし……なんだか、急に遠い人になっちゃったみたい」
「買いかぶりすぎだって。俺は何も変わってないよ」
未来はいつもの「気のいい青年」の笑顔を作って見せた。 だが、沙耶が去り際に向けたわずかな違和感の眼差しと、自分の中に芽生えた「力を振るうことの心地よさ」は、確かな事実として未来の胸の奥に居座り続けていた。
そしてその日の夕方。 人事部からの正式な通達により、田中の懲戒処分と左遷、そして黒崎未来の「営業部第二課・課長」への昇進が発表されたのだった。




