第一話 影のない男 ③
金曜日の午後十時過ぎ。 東都ビバレッジが入るオフィスビルは、ほとんどのフロアの照明が落とされ、静まり返っていた。
黒崎未来は通用口から社員証をかざしてビルに入り、誰もいないエレベーターで営業部のフロアへと上がった。 手には、先ほどまで自分が身につけていた女性用の衣服やパンプスが入った紙袋を提げている。それを自分のロッカーの奥深くへと押し込むと、未来は深く息を吸い込んだ。
非常灯の緑色の光だけがぼんやりと浮かぶ、暗いオフィス。
昼間は電話のベルや社員たちの話し声で溢れている空間が、今はまるで深い海の底のように静かだった。
未来は足音を殺し、第二課の島へと歩み寄った。 一番奥にある、田中修一課長のデスク。 未来は周囲に誰もいないことをもう一度確認すると、スマートフォンのライトを最小限の明るさで点灯させ、デスクの下へと身を屈めた。
美咲が言っていた通りだった。 デスクの天板の裏側を手探りで撫でると、ザラリとした養生テープの感触があり、その下に小さな金属の塊が貼り付けられていた。
テープを剥がし、スペアキーを指先でつまむ。 未来の心臓が、ドクン、と一度だけ強く脈打った。 他人の机を勝手に開ける。それは明確なルール違反であり、普段の未来なら罪悪感で手が震えていたはずの行為だった。
だが、今の未来の頭の中には、驚くほど冷静な計算しかなかった。 先ほどまで『ミク』の姿でいた時の、あの氷のように冷たく澄み切った感覚が、男の身体に戻った今も頭の芯に残っているようだった。
一番下の引き出しの鍵穴に、スペアキーを差し込む。
カチリ、と小さな音を立ててロックが外れた。
引き出しを開けると、中には私物のゴルフ雑誌や、飲みかけの栄養ドリンクの箱が雑然と詰め込まれていた。
未来はそれらを慎重にどかし、一番底に隠されていた黒い革張りの手帳を引っ張り出した。
ページをめくる。 そこには、田中の几帳面な筆跡で、びっしりと数字と日付が書き込まれていた。
『〇月〇日 〇〇商事接待として計上 実費:銀座クラブ・ジュエル(三名分として水増し請求)』
『〇月〇日 販促用什器発注(ダミー業者・株式会社K企画) キックバック分:十五万円受領』
単なるキャバクラ代の私的流用だけではなかった。 田中は懇意にしている下請け業者と結託し、架空の販促費を会社に請求させて、その一部を自分のポケットに還流させていたのだ。完全な業務上横領であり、言い逃れの余地がない犯罪の記録だった。
「……なるほど。ここまで露骨にやってたのか」
未来は静かに呟き、スマートフォンのカメラで手帳の全ページを撮影し始めた。
シャッター音が響かないよう、指先でスピーカー部分を押さえながら、一枚ずつ確実に記録していく。
ふと、手帳の間から、折りたたまれた数枚の領収書の控えが滑り落ちた。
拾い上げて中身を確認した未来は、思わず息を呑んだ。
それは、半年前に第二課で発生した『発注ミスによる損害補填』の関連書類だった。 当時、入社二年目だった美咲が発注数を一桁間違えたとして、田中からフロア中に響く怒鳴り声で叱責され、危うく減給処分になりかけた案件だ。その時は未来が「係長である自分のチェック漏れです」と頭を下げて始末書を書き、事なきを得たのだった。
しかし、この手帳のメモと領収書が示している事実はまったく違った。 発注ミスなど最初から存在しなかったのだ。田中が自分の作った裏金の穴埋めをするために、架空の「発注ミスによる損失」をでっち上げ、その責任をまだ仕事に慣れていない美咲に丸ごと押し付けていたのである。
未来の奥歯が、ギリ、と音を立てた。
自分の手柄を奪われることは、まだ我慢できた。 だが、真面目に働いている後輩に無実の罪を着せ、涙を流させ、その裏で自分は銀座のクラブで酒を飲んでいたなど、絶対に許せることではなかった。
(あいつを、潰す)
強い怒りが込み上げてくる。 それと同時に、未来は自分の思考がひどく冷酷な方向へと滑っていくのを感じていた。 ただ反省させるだけじゃ足りない。二度とこの場所で偉そうな顔ができないように、全員の目の前で、逃げ場をすべて塞いで引きずり下ろしてやる。
すべてのページを撮影し終えた未来は、手帳と鍵を寸分違わず元の場所へと戻した。
しかし、これだけではまだ完璧ではない。 「そんな手帳は知らない、黒崎が勝手に作って机に入れたんだ」と田中がシラを切った場合、水掛け論になるリスクがわずかに残る。 田中の息の根を完全に止めるには、社内にある公式な『経費精算システム』の承認ログと、この裏帳簿のデータを完璧に照合し、さらには取引先のダミー会社からの入金記録の裏付けまで揃えておく必要がある。
そのためには、法務や経理の深いデータにアクセスする権限が必要だった。 係長である未来のIDでは、見られる範囲に限界がある。
未来は自分のデスクに戻り、パソコンを立ち上げた。
システムにアクセスするためのログイン画面が、青白い光を放って未来の顔を照らし出す。
(どうする? 週明けに経理に頼むか? いや、それでは時間がかかるし、事前に田中に情報が漏れるかもしれない)
左手で首の後ろを揉みながら画面を睨みつけていた未来の指が、ふと止まった。 そして、まるで何かに導かれるように、キーボードの上に置かれた両手が、タタタッ、と軽快な音を立てて動き始めたのだ。
通常のログイン画面ではない、システム管理用のコマンドプロンプト。
未来自身、そんな画面を開いたことなど一度もなかったはずだった。
それなのに、指先が勝手に文字列を打ち込んでいく。社内のセキュリティの隙間を縫い、一時的に閲覧権限をバイパスするための特殊なバックドアのコード。
「……え?」
未来は自分の指先を見つめた。
頭で考えるよりも早く、手が動いている。
(なんだこれ……? なんで俺は、こんなやり方を知ってるんだ?)
営業一筋でやってきた自分に、こんな高度なシステムエンジニアのような知識があるはずがない。 誰かに教わったのか? いつ? どこで?
思い出そうとすると、またしても頭の奥に白い靄がかかったようになり、思考が弾かれる。
だが、疑問を抱いている間にも画面は次々と切り替わり、経理部のロックされた過去三年分の詳細な決済データが、未来のモニターの前にずらりと展開された。
背筋に、冷たい汗がツーッと伝った。 自分の車にあった見覚えのない化粧品。 クローゼットの奥から出てきた女性用の服。 そして、自分が知らないはずの専門的な知識。
まるで、自分の知らない『誰か』の記憶や技術が、自分の中に最初から混ざり込んでいるかのようだった。あるいは、自分が何かとても重要な過去をすっぽりと忘れてしまっているだけなのか。
不気味な感覚に、未来は一瞬だけパソコンから手を離しかけた。 しかし、モニターに映し出された『承認者:田中修一』の文字の羅列を見た瞬間、その恐怖は強い高揚感へと塗り替えられた。
(……理由なんて、あとで考えればいい)
今は、目の前にあるこの武器を使うことだけを考えろ。 未来は再びマウスを握り、裏帳簿の写真と会社の決済データを一つずつ照合し、誰もがひと目で田中の犯罪を理解できる完璧な告発資料を作成し始めた。
作業を終え、データをUSBメモリに保存してパソコンの電源を落とした時には、時計の針は深夜二時を回っていた。
誰もいない暗いフロアで、未来は立ち上がり、大きく息を吐いた。 窓ガラスに、非常灯に照らされた自分の姿が映っている。 少し猫背だったはずのその立ち姿は、いつの間にか背筋がすっと伸びており、その目元には、これまで未来が一度も浮かべたことのないような冷たい光が宿っていた。
「……これで、全部終わる」
週明けの月曜日には、営業部の定例会議がある。 営業部長だけでなく、法務部のコンプライアンス担当である榊原も同席する場だ。 そこでこの資料を突きつければ、田中は二度と立ち上がれなくなる。
自分の力で、理不尽な悪を裁くことができる。 傷つけられた美咲たちの無念を晴らすことができる。
USBメモリをポケットの中で強く握りしめ、未来はオフィスを後にした。 エレベーターへ向かう暗い廊下に、コツ、コツ、と未来の靴音だけが規則正しく響いていた。 その背後で、窓ガラスに映った未来の影が、一瞬だけ長い髪の女性のシルエットに見えたことには、彼自身も気づいてはいなかった。




