第一話 影のない男 ②
翌朝、目を覚ました未来は、一番に洗面所の鏡へと向かった。
そこに映っていたのは、寝癖のついた無造作な黒髪と、少し寝不足で目の下に隈を作った二十九歳の男――見慣れた黒崎未来の顔だった。
(……夢、だったのか?)
ほっとしたような、それでいてどこか拍子抜けしたような気分で息を吐く。
だが、洗面台の隅に目をやった瞬間、その安堵は凍りついた。
白い陶器の上に、昨夜車のダッシュボードから見つけたワインレッドのリップスティックと、小さなガラスのアトマイザーがちょこんと置かれていたのだ。
未来は恐る恐る鏡に向き直り、昨夜のあの感覚を思い出しながら、頭の中で『あの姿』を強くイメージした。
――グニャリ、と視界が揺らぐ。
音もなく骨格が縮み、筋肉が柔らかく再構築されていく。 数秒後、鏡の中に立っていたのは、艶のある長い黒髪を持つ、涼しげな目元の美女だった。
「……夢じゃない」
自分の喉から漏れ出た、澄んだ女性の声。 未来は震える指で、自分の細くなった顎のラインや、滑らかな頬の肌に触れた。何度試しても結果は同じだった。強く念じるだけで、男と女の身体を自在に行き来できる。
一体なぜ、自分の身体にこんな異変が起きたのか。
そしてなぜ、車の中にこの姿にぴったりの化粧品が残されていたのか。
疑問は尽きなかった。 気になって部屋のクローゼットや収納の奥も探ってみた。すると、普段は開けない衣装ケースの底から、黒いタイトなペンシルスカートや、ワインレッドのシルクのブラウス、そして女性用のパンプスが数足、綺麗に畳まれて入っているのが見つかったのだ。
サイズはどれも、百六十二センチ・五十キロのこの『ミク』の身体に寸分違わず合っていた。
(誰がこれをここにしまったんだ? 俺か? ……いや、そんな記憶はまったくない)
背筋に薄ら寒いものが走る。 まるで、自分の知らないもう一人の自分が、ずっと前からこの部屋で生活していたかのような不気味さだった。
警察か病院に行くべきだろうか。
いや、そんなことをしてどうなる。「自分が女に変身できるんです」などと口走れば、精神科に回されるか、よくてモルモットにされるだけだ。
未来は男の姿に戻ると、左手で首の後ろを揉みながら深く息を吐いた。 理由は分からない。過去の記憶に何かおかしな空白がある気もする。 だが、確かなことが一つだけあった。
この『ミク』という姿を使えば、黒崎未来としては決して踏み込めない領域へ、誰にも気づかれずに入り込めるということだ。
*
その週の金曜日。 定時を少し過ぎた東都ビバレッジの営業部フロアでは、田中課長の苛立った声が響いていた。
「おい星野! 先週の会議で使った経費の精算書、まだ処理してないのか!」
田中は小太りの腹を揺らしながら、美咲のデスクの前に立ちはだかっていた。額の汗をハンカチで拭いながら、机の下で貧乏ゆすりをしている。
「すみません、田中課長。ただ、こちらの領収書ですが、金額と但し書きに少し確認したい点がございまして……」
美咲が控えめに、だが納得がいっていない様子で少し唇を尖らせながら書類を差し出す。
「ああ? 細かいことをごちゃごちゃ言うな! 俺が承認したんだから、事務のお前は黙ってハンコを押して経理に回せばいいんだよ! これだから女は仕事が遅くて困る!」
バン、と美咲のデスクを叩き、田中は吐き捨てるようにして自分の席へと戻っていった。
フロアの空気は最悪だった。周囲の男性社員たちは関わり合いになるのを恐れてモニターに視線を落とし、美咲は悔しそうに下唇を噛み締めている。
未来は自分の席から立ち上がると、さりげなく美咲のデスクへ歩み寄った。
「美咲ちゃん。その書類、俺の方で確認して経理に回しておくよ」
「黒崎さん……。でも、これ、絶対におかしいんです。接待交際費って書いてありますけど、先方の会社名も曖昧で……」
「いいから。田中課長と正面からぶつかっても、美咲ちゃんが傷つくだけだ。ここは俺に任せてくれ」
未来が書類を受け取ると、美咲は「……すみません」と小さく頭を下げた。 その声には、感謝と同時に、「やっぱりこの先輩は何も変えてくれない」という諦めが滲んでいた。
自席に戻り、田中から押し付けられた領収書の束に目を通す。 確かに不自然極まりない数字だった。一晩で十数万円の飲食代が、月に何度も計上されている。田中が会社の経費を私的に流用しているという噂は、どうやら本当らしい。
だが、この領収書のコピーだけでは、田中を追い詰めるには弱い。 「重要な取引先との極秘の会食だった」と言い張られれば、上層部も課長である田中の言葉を優先するだろう。決定的な証拠――たとえば、実際の金の流れを記した『裏帳簿』のようなものがなければ、逆にこちらが返り討ちに遭う。
そして、男の未来が社内でその裏帳簿を探し回れば、すぐに田中の耳に入って警戒されるのは目に見えていた。
(……やるしかないか)
未来は時計を見た。午後七時。 美咲が同僚の女性社員たちとアイコンタクトを取り、バッグを手にして席を立つのが見えた。金曜日の夜、彼女たちがよく会社近くのダイニングバーで女子会を開き、日頃の愚痴を発散していることを未来は知っていた。
男の黒崎未来には、彼女たちは決して本当の胸の内や、社内の深い噂話を明かさない。 だが、同じ女性である『ミク』としてなら――。
*
午後八時。
オフィス街の路地裏にある、照明を落としたお洒落なダイニングバー。
カラン、とドアベルを鳴らして店内に入ってきた一人の女性に、店内の客たちの視線が一斉に集まった。
艶のある黒髪のロングヘア。 ワインレッドのシルクのブラウスに、ボディラインを上品に際立たせる黒のタイトなペンシルスカート。百六十二センチの均整の取れたスタイルが、ヒールの音を響かせながらゆっくりとカウンターへ向かう。
ミクの姿になった未来だった。 不思議なことに、この姿になって服を着た瞬間から、未来の頭の中は驚くほど冷たく澄み渡っていた。恐怖やためらいが消え、自分がどう動けば相手がどう反応するかが、パズルを解くように自然と理解できるのだ。
ミクはカウンターの端――美咲たち女性社員三人が座るテーブル席のすぐ背後の席に腰を下ろした。
「カシスソーダを、甘めでお願い」
バーテンダーに注文する。普段の未来ならブラックコーヒーかビールしか頼まないが、この身体は自然と甘いカクテルを求めていた。
すぐ後ろのテーブルから、美咲の少し早口で熱を帯びた声が聞こえてくる。
「――だから! 今日の田中課長の態度も、本当にあり得ないと思わない!? なんで私が怒鳴られなきゃいけないのよ!」
「まあまあ美咲、落ち着きなって。抹茶ラテ頼んだげるから」
「お酒飲んでる時に抹茶ラテはいらない! でもほんと、黒崎さんも頼りないし……。『俺に任せてくれ』って言ってたけど、どうせまた課長の言いなりになって処理するだけだよ」
同僚の女性社員二人も、うんうんと頷きながらグラスを傾けている。
「わかるー。黒崎さん、人はいいんだけどね。でも田中課長のあの領収書、経理の女の子たちもみんな怪しんでるよ。絶対キャバクラ代だって」
「だよね! 誰か、あの課長の悪事を暴いてくれないかなあ……」
その言葉が落ちた瞬間、ミクはグラスを手に取り、ゆっくりと振り返って美咲たちのテーブルへと視線を向けた。 そして、右耳に長い黒髪をゆっくりとかける。相手から情報を引き出そうとする時に出る、ミクの自然な仕草だった。
「――素敵な正義感ね。少し、お邪魔してもいいかしら?」
涼しげで知的な声が響くと、美咲たちはハッとして顔を上げた。 目の前に立つ洗練された大人の美女に、美咲は目を丸くして言葉を失っている。
「あ、あの……どちら様ですか?」
「突然ごめんなさい。隣で聞いていたら、あまりにもうちの業界によくある話だったから、つい親近感が湧いてしまって。私はミク。フリーランスで企業コンサルの仕事をしているわ」
ミクが柔らかな、それでいてどこか謎めいた笑みを浮かべると、美咲たちの警戒心はすっと解けていった。
同じ女性であり、しかも自分たちより少し年上の頼れるお姉さんといった雰囲気のミクに、美咲たちはすぐに引き込まれたのだ。
「コンサルのお仕事をされてるんですか! すごい……!」
美咲がパッと顔を輝かせる。ミクは勧められるままにテーブルの空いた席へ腰を下ろした。
「先ほどのお話、経費の不正流用かしら? どこの会社にも、自分の立場を利用して甘い汁を吸う管理職はいるものね」
「そうなんです、ミクさん!」
美咲は身を乗り出し、先ほどの田中課長とのやり取りを熱っぽく語り始めた。 男の未来の前では見せない、無防備で率直な表情。周囲の同僚二人も、ミクが巧みに相槌を打つことで、次々と社内の噂話を口にし始めた。
「田中課長、いつも銀座の同じお店ばっかり行ってるんですよ。領収書の宛名は取引先の名前になってるんですけど、筆跡が課長の字なんです」
「ふふっ、本当にそうでしょうか?」
ミクはわざとらしく小さく小首を傾げ、甘いカクテルを一口飲んだ。
「そういう小心者ほど、自分がどれだけ得をしたか、あるいはどの取引先の名前を何回使ったか、必ずどこかに記録を残しているものよ。頭の中で管理できるほど器用じゃないはずだわ。……あなたなら、どうします? もし自分がその課長なら、大事な記録をどこに隠すかしら」
ミクの静かな誘導に、同僚の一人が「あ!」と声を上げた。
「そういえば……田中課長、自分のデスクの一番下の引き出しにだけ、いつも厳重に鍵をかけてます! しかも先週、誰もいないと思ってその引き出しから、黒い手帳みたいなのを出してニヤニヤしてるのを見ちゃいました!」
「黒い手帳、ね。でも、鍵がかかっているなら開けられないわね」
ミクが惜しむように呟くと、今度は美咲がハッとしたように口を開いた。
「鍵なら……私、場所を知ってます!」
「え?」
「先月、課長のデスクの横にペンを落とした時、見ちゃったんです。デスクの天板の裏側に、小さな鍵が養生テープで貼り付けてあるのを! あれ、絶対その引き出しのスペアキーですよ!」
――繋がった。 未来の頭の中で、すべてのピースがカチリと音を立てて組み合わさった。
田中の不正の証拠である裏帳簿は、デスクの一番下の引き出しにある黒い手帳。そしてその鍵は、デスクの天板の裏に貼り付けられている。 男性社員の目には決して留まらない、女性社員たちの細やかな観察眼と情報網が、わずか数十分の雑談ですべての答えを導き出したのだ。
「ありがとう。あなたたち、本当に優秀ね。そんな素敵な社員さんたちが泣き寝入りするなんて、間違っているわ」
ミクはすっと立ち上がると、自分の伝票だけでなく、美咲たちのテーブルの伝票もスマートに手に取った。
「えっ、ミクさん!? お会計は私たちが……」
「いいのよ、楽しいお話を聞かせてもらったお礼。……大丈夫、あなたたちが我慢しているその理不尽は、きっとすぐに誰かが終わらせてくれるわ」
ミクが振り返ってウインクをすると、美咲は憧れの眼差しで胸の前で両手を握りしめた。
「ミクさん……なんだか、映画のヒーローみたいですね! またどこかでお会いできますか?」
「ええ。あなたが正しいことを信じ続けていれば、きっとまた会えるわ」
そう言い残し、ミクは店のドアを開けて夜の路地へと出た。
夜風が長い黒髪を揺らす。 誰もいない暗い路地裏に入り、壁に手をついて意識を集中させる。 数秒後、そこには女性用の服を紙袋に詰め込み、スーツ姿に戻った黒崎未来が立っていた。
未来は左手で首の後ろを揉みながら、今しがた自分が『ミク』として発した言葉や仕草を思い返していた。
(……なんで俺は、あんな風に自然に振る舞えたんだ?)
まるで、女性の扱い方も、人心の掌握術も、最初から身体に染み付いていたかのようだった。 かすかな違和感は残る。だが、それ以上に、手に入れた決定的な情報への高揚感が未来の胸を熱くさせていた。
これで、田中を倒せる。 美咲たちを苦しめるあの理不尽な上司を、自分の手で排除できるのだ。
未来は紙袋を強く握りしめ、まだ明かりの消えた深夜のオフィスビルへと足を向けた。




