第一話 影のない男 ①
「黒崎はまだ若いからな。今回の大型契約は、課長である俺が裏でフォローしたことにしておくよ」
東都ビバレッジ株式会社、営業部第二課。
夕方近いフロアに響いたその言葉に、黒崎未来は無意識のうちに左手で首の後ろを揉んだ。 考え事をする時や、どうしようもない理不尽を飲み込まなければならない時に出る、彼の昔からの癖だった。
目の前のデスクには、営業課長の田中修一がふんぞり返って座っている。 四十二歳。小太りの体型を窮屈そうにスーツに押し込め、ハンカチで額の汗を何度も拭っている。机の下では、せわしない貧乏ゆすりがずっと続いていた。
未来の手元にあるのは、三ヶ月かけてようやくまとめた地方スーパーとの大型契約の稟議書だった。
何度も先方に足を運び、担当者の愚痴を聞き、配送ルートを調整して、昨日ようやく内諾を取り付けたばかりだ。
しかし田中は、決裁印を押す直前になって、稟議書の『主担当』の欄を自分の名前に書き換えさせたのである。
「……なるほど。分かりました」
未来は短く答え、少し猫背気味の背中を丸めて頭を下げた。 ネイビーの無難な吊るしのスーツを着た未来は、どこにでもいる「気のいい、少し疲れた会社員」に見える。
ここで反論することもできた。だが、見栄っ張りで小心者の田中に逆らえば、自分の人事評価を下げられるだけでは済まない。田中は必ず、課内のさらに弱い立場の人間へ八つ当たりを始める。
自分が黙って頭を下げておけば、とりあえずこの場は丸く収まるのだ。
「分かればいいんだよ。お前も係長なんだから、会社のためを思うなら、上への見え方ってもんをだな……」
田中の満足げな小言を聞き流しながら自席へ戻ると、斜め向かいの席から鋭い視線が飛んできた。
後輩社員の星野美咲だった。 二十四歳。清潔感のあるポニーテールに、レモンイエローの柔らかなブラウスを着た彼女は、納得がいかないというように少し唇を尖らせている。
「黒崎さん。それって、おかしくないですか?」
美咲が声を潜めながらも、強い口調で言った。 焦ると早口になり、身振りが大きくなるのが彼女の癖だ。
「あの契約、黒崎さんが毎日遅くまで残って一人でまとめた案件ですよね? なんで田中課長の手柄になってるんですか!」
「美咲ちゃん、声が大きいよ」
未来は周囲を窺いながら、苦笑いでなだめた。 正義感が強く、理不尽を嫌う美咲にとって、今の未来の態度はひどく情けない「上司に媚びる冴えない先輩」に映っているに違いない。
「いいんだよ。誰の名前で通ろうと、契約が成立すれば会社の利益になる。会社のためだ」
「……またそれですか。黒崎さんがそうやってすぐ折れるから、田中課長がつけあがるんですよ」
美咲は呆れたように息を吐き、プイと顔を背けてパソコンの画面に向き直ってしまった。
未来が再び左手で首の後ろを揉んでいると、今度は隣の通路を挟んだ企画課の席から、トン、トン、とペン先で机を軽く叩く音が聞こえてきた。
同期の相沢沙耶だった。 モスグリーンの細身のパンツスーツを綺麗に着こなした彼女は、書類から目を上げると、中指で眼鏡のブリッジをクイッと押し上げた。
「美咲ちゃんの言う通りね。また全部譲ったの?」
「沙耶まで……。聞いてたのかよ」
「声が筒抜けだったもの。昔の黒崎くんは、そんなこと言わなかったけどね。入社した頃は、もう少し自分の仕事に意地を見せてた気がするけど」
沙耶の冷静な指摘に、未来は曖昧に笑って肩をすくめるしかなかった。 彼女のように観察眼の鋭い同期には、自分がただ波風を立てるのを恐れて逃げているだけだということが、半分くらい見透かされているのかもしれない。
*
「っくぅ~~っ! やっぱ仕事終わりの一杯は効くなぁ!」
その日の夜。駅前のガード下にある騒がしい大衆居酒屋。 ジョッキに注がれた安い発泡酒を一口で半分ほど飲み干した武田健太郎が、店内に響くような声を上げた。
「お前、いつ見ても気持ちいい飲み方するな」
「当たり前だろ、これのために毎日働いてんだから! ほら、未来も飲めって!」
武田は額に浮かんだ汗を年中持ち歩いているヨレヨレのハンカチで拭うと、未来のグラスに強引に瓶ビールを注いだ。
学生時代にラグビーをやっていた武田は、百七十五センチ・八十五キロというがっしりとした体格をしている。シワの寄ったスーツの上着を脱ぎ、ネクタイをだらしなく緩めた姿は、まさに「気のいいあんちゃん」そのものだ。
第一課の主任である武田は、未来にとって入社以来、唯一格好をつけずに愚痴や弱音を吐ける友人だった。
「で? また田中の野郎に手柄持っていかれたんだって? 沙耶から聞いたぞ」
武田は運ばれてきた鶏の唐揚げにレモンを絞りながら、呆れたように言った。
「沙耶のやつ、口が軽いな……」
「心配してんだよ、あいつも。もちろん俺もな」
武田は熱い唐揚げを口に放り込み、豪快に咀嚼しながら眉をひそめた。
「お前さ、昔から人が良すぎるんだよ。困ってる奴見たら自分が損してでも助けるし、上の奴に無理難題言われたら自分で抱え込む。そんなことばっかりやってたら、いつかポッキリ折れるぞ」
「折れないよ。俺が我慢すれば、課の連中に被害がいかないんだから。その方が効率がいいんだ」
未来は自分の好物である唐揚げを一つ箸でつまみ、口に運んだ。 揚げたてのはずなのに、なぜか今日はあまり味がしなかった。
「効率って……お前なあ」
武田は困ったように後頭部をガシガシと掻いた。
「ま、生きてりゃなんとかなるだろってのが俺の考えだけどよ。俺なんか、嫁と三歳のチビが飯食えればそれでいいから出世なんてどうでもいい。でも、お前は違うだろ? 自分の人生を、あんな上司に都合よく使われて悔しくないのかよ」
武田の真っ直ぐな言葉が、未来の胸の奥に小さく刺さった。
悔しくないわけがない。 自分の人生を、自分自身で決めたい。会社や理不尽な上司に支配されたくない。 そう思っているからこそ、必死に数字を作り、誰よりも真面目に働いてきたつもりだ。
けれど、現実はどうだ。 どれだけ正しく努力しても、田中のように声を荒らげ、権力を笠に着て、他人の成果を奪う人間が上に座り続けている。
「……じゃあ、どうしろって言うんだよ」
未来の声は、自分でも驚くほど低く沈んでいた。
「正面から田中に喧嘩を売れば、俺が飛ばされるだけだ。証拠もないのに『手柄を奪われた』なんて上に訴えたところで、管理能力不足だと笑われて終わる。……今の『黒崎未来』のままじゃ、あいつらの懐に入ることも、足元をすくうこともできないんだ」
「未来……」
武田が心配そうに顔を覗き込む。
「お前、最近顔怖いぞ。ちょっと抜こうぜ。今度の日曜、うちで餃子焼くから食いに来いよ。家庭菜園で掘ったじゃがいもも山ほどあるからさ」
「ああ……ありがとう。気が向いたら行くよ」
未来は作り笑いを浮かべ、ぬるくなったビールを喉に流し込んだ。
*
武田と別れた後、未来は一度マンションに戻り、駐車場に停めてある愛車のハンドルを握った。
深夜のドライブ。 宛てもなく夜の国道を走らせるのが、未来のストレス発散法だった。
街灯のオレンジ色の光が、フロントガラスを規則的に流れていく。
赤信号で車が止まったとき、ふと助手席のダッシュボードの奥で、何かが小さく反射した気がした。
気になって手を伸ばし、書類の下を探ってみる。 指先に触れたのは、小さなガラスのアトマイザーと、ワインレッドのリップスティックだった。
「……なんだ、これ?」
未来は眉をひそめた。
自分の車に、こんな女性用の小物を置いた記憶はない。誰かを乗せた時に落としていったのだろうか。
だが、ここ数年、自分の車に女性を乗せた記憶など一度もなかった。
試しにアトマイザーのキャップを外してみる。
甘く、それでいてどこか冷たく澄んだ香りが車内にふわりと広がった。
――その瞬間、頭の奥がチリッと焼けるように痛んだ。
(……この匂い、知ってる)
誰かの香りではない。
もっと近い。自分の肌から、自分の髪から、この香りが漂っていたことがあったような――そんな奇妙な既視感が胸をざわつかせた。
不気味さに駆られ、未来は小物をポケットに押し込むと、逃げるようにマンションへと引き返した。
自室のドアを開け、時計を見る。深夜一時を過ぎていた。
照明もつけず、薄暗い廊下を抜けて洗面所へ向かう。
鏡の前に立ち、蛍光灯のスイッチを入れた。
ジジ、と小さな音を立てて明かりが灯る。 鏡の中には、無造作な黒髪が乱れ、目の下に薄い隈を作った二十九歳の男が立っていた。
未来はポケットから、先ほどのワインレッドのリップを取り出し、洗面台の上に置いた。 なぜ、自分の車にこんなものがあったのか。
鏡の中の自分の顔を見つめる。 我慢ばかりして、美咲には失望され、沙耶には呆れられ、田中には踏みつけられる無力な男。
(こんな弱い自分のままじゃ、誰も守れないし、何も変えられない)
(もし、俺が『黒崎未来』じゃなかったら――)
(誰にも正体を知られず、相手の本質を見抜き、裏側からすべてをひっくり返せる『別の誰か』になれたなら――)
そう強く願った、まさにその瞬間だった。
まるでその「願い」が、固く閉ざされていた扉の鍵穴にカチリと噛み合ったかのように、未来の脳裏で何かが弾けた。
――グニャリ、と視界が歪んだ。
「……っ?」
めまいではない。耳鳴りもしない。
ただ、自分の身体の「輪郭」が内側から静かに溶けていくような、異様な感覚が全身を包んだ。
骨格が音もなく縮んでいく。
肩幅が狭まり、指先が細く伸び、喉仏の違和感がすっと消える。
痛みはまったくなかった。むしろ、ずっと窮屈な殻に閉じ込められていた身体が、本来あるべきもう一つの型へと解放されていくような、恐ろしいほどの「馴染み深さ」があった。
数秒後。
洗面所の床に立ち尽くしていた未来は、鏡の中を見て息を呑んだ。
そこには、黒崎未来はいなかった。
鏡の中に立っていたのは、艶のある長い黒髪が肩まで垂れた、見知らぬ若い女性だった。 年齢は二十五、六歳に見える。身長は未来より十センチ以上低くなり、緩くなったワイシャツの襟元からは、白く細い鎖骨が覗いていた。
「……え?」
思わず漏れた声は、未来の低い声ではなく、涼しげで耳に心地よく響く女性の声だった。
未来は震える手で自分の頬に触れた。 鏡の中の女性も、同じように細い指で頬に触れる。 そしてその手は、まるで何度もそうしてきたかのように自然な動作で、ゆっくりと右耳に長い黒髪をかけた。
自分自身の無意識の動きに、未来の背筋が凍りつく。 さらに視線を落とすと、洗面台に置かれたあのワインレッドのリップが、まるで最初からこの女性の唇のために選ばれたかのように、完璧に色が合っていた。
(元に戻れ……!)
恐怖に駆られて強く意識すると、再び身体の輪郭が揺らいだ。 ほんの一瞬で視界が高くなり、ワイシャツの窮屈さが戻る。 鏡の中には、呆然とした表情の黒崎未来が立っていた。
もう一度、あの女性の姿を思い浮かべる。 すると、やはり何の苦痛もなく、身体はあの黒髪の女性へと変化した。
意思ひとつで、男と女の身体を自由に行き来できる。 今日、初めて目覚めた力のはずだ。それなのに、身体の使い方も、声の出し方も、なぜこんなにも手慣れているのか。
鏡の中の涼しげで知的な瞳が、じっとこちらを見つめ返している。 その顔を見つめていると、未来の頭の中に、ふと一つの名前が浮かび上がった。
「……ミク」
いま自分で思いついた名前なのか。 それとも、ずっと前から知っていた名前を「思い出した」だけなのか、自分でも分からなかった。
ただ、その名前を口にした瞬間、鏡の中のミクが、ほんのわずかに小首を傾げて冷たく微笑んだような気がした。
男の黒崎未来にはできないことがある。 だが、この「ミク」という姿を使えば――。
洗面所の白い蛍光灯の下で、未来の足元に落ちていた影が、ゆらりと揺れた。




