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第二話 名前のない女 ⑤

低く、棘のある声だった。 未来が視線を向けると、夕暮れの街灯の下を、一人の大柄な青年がこちらへ向かって歩いてくるところだった。


身長は百八十センチほど。 カーキ色のミリタリー系ジャケットに、履き古したデニムとごついワークブーツを合わせている。服の上からでも、鍛え上げられた筋肉質で骨太な体格をしていることがはっきりと分かった。


無造作なミディアムヘアの下にある顔立ちは整っているが、眉間には深い皺が刻まれ、まるで周囲のすべてを威嚇する野犬のようなピリピリとした警戒心を放っている。


青年は凛の隣まで歩いてくると、未来の顔を正面から見据えた。 その瞬間、青年の瞳が鋭く細められた。


「……やっぱり、お前か」


青年は吐き捨てるように、低く掠れた声で言った。 それは初対面の人間に対する言葉ではなかった。ずっと動向を追い続けていた相手、あるいは決して出会いたくなかった相手とついに鉢合わせてしまったかのような、苦々しさと怒りが入り混じった響きだった。


「え……? あの、俺の知り合いですか?」


未来は戸惑いながら問い返した。 白石凛に続いて、この目の前の青年にも、未来はまったく見覚えがなかった。


だが、青年のその大きな体躯と、少し猫背気味にポケットへ手を突っ込む立ち姿を見た瞬間、未来の脳裏に、ある記憶がフラッシュバックした。


――数日前の深夜。 ――『その力を、何のために使う?』というカードを見つけた直後、マンションのベランダから見下ろした夜道を歩いていた、あの黒いコートの男。


背格好が、目の前の青年と驚くほどよく似ていた。 もちろん、世の中に身長百八十センチ前後の男などいくらでもいる。だが、彼が放つ重苦しい存在感は、あの夜の闇の中で感じた気配と妙に重なって見えたのだ。


「……知り合い?」


青年は、未来のその言葉を聞くと、ひどく歪んだ笑みを浮かべた。 そして、苛立ちを隠そうともせずに「チッ」と短く舌打ちをし、無造作な前髪をガシガシと乱暴にかき上げた。


「……くだらねえ。ほんとに、そういう顔するんだな」


「創(はじめ)くん、やめて」


凛が静かな、けれど強い響きを持った声で青年を制した。 彼女は左手の親指の爪を右手の指先で軽くこすりながら、未来と青年の間にそっと割って入るように立った。


「ごめんなさい、黒崎さん。彼は結城創(ゆうきはじめ)といって、私の昔からの友人なんです。少し口が悪くて、初対面の人に誤解されやすいところがあって……」


「……初対面、ね」


結城と呼ばれた青年は、鼻で笑うように呟いた。 彼は未来の着ているスーツや、少し背筋の伸びた立ち姿を頭の先からつま先までじろじろと観察すると、冷たい目で言い放った。


「せいぜい気をつけるんだな、東都ビバレッジの『課長さん』よ。高いところに登れば登るほど、落ちる時は一瞬だぞ」


「……どういう意味ですか?」


未来がわずかに眉をひそめて聞き返した。 なぜ、通りすがりの女性の友人にすぎない男が、自分が東都ビバレッジの社員であり、しかも最近「課長」に昇進したことまで知っているのか。 先ほど凛には「東都ビバレッジの営業部の黒崎未来です」としか名乗っていないはずだ。役職までは口にしていない。


未来の鋭い視線に気づいたのか、凛がハッとしたように息を呑んだ。 しかし結城は、答える代わりにもう一度乱暴に前髪をかき上げると、凛の腕を掴むようにして促した。


「行くぞ、凛。約束の時間、過ぎてるだろ」


「あ……ええ。……ごめんなさい、黒崎さん。突然お引き止めしてしまって。来月のコンペの件で、もしかしたら御社にお伺いすることもあるかもしれません。その時は、よろしくお願いしますね」


凛は未来に向かって深く会釈をした。 去り際、彼女が未来に向けた眼差しは、まるで暗闇の中へと一人きりで歩いていく迷子を見つめるかのように、痛々しいほどの優しさと悲しみに満ちていた。


並んで遊歩道を歩き去っていく二人の背中を、未来はしばらくその場に立ち尽くしたまま見送っていた。


白石凛と、結城創。 二人は間違いなく、俺のことを知っていた。 それなのに、俺の頭の中には、二人に関する記憶の欠片すら残っていない。


未来は自分の右手を見た。 そこにはまだ、先ほどポケットから見つけた、数週間前のマカロンとハーブティーのレシートが握りしめられていた。


思い出せなくなった、学生時代の同級生の顔。 昨日、銀座のデパートの前で消えていた、誰かに革の手袋をもらった記憶。 そして今日、自分の前に現れた、自分を知っているはずの男女。


(……まさか、あいつらが、俺の忘れた記憶の……?)


いや、と未来は頭を振った。 もし仮に、彼らが自分の過去の知り合いだったとして、なぜそれをはっきりと言わないのか。「久しぶり、大学時代の同級生の結城だよ」とでも言えばいいはずだ。 それを言わずに、初対面のふりをして近づいてきたり、意味深な警告を残して去っていったりするのは、明らかに不自然だった。


まるで、未来が記憶を失っていることを最初から知っていて、何か別の目的のために周囲をうろついているかのようだ。


未来は握りしめていたレシートをくしゃりと丸め、ポケットの奥へと押し込んだ。


*


その日の夜。 自宅のマンションに戻った未来は、リビングの照明もつけずに、窓ガラスの前に立って夜の街を見下ろしていた。


冷蔵庫から取り出した無糖のブラックコーヒーを、グラスに注いで一口飲む。 冷たく苦い液体が、喉の奥へと落ちていく。


部屋の隅にある姿見には、街灯の逆光を受けて黒く沈んだ、未来自身のシルエットが映っていた。


この二週間で、自分は『ミク』の力を二度使った。 一度目は、部下の手柄を奪い、横領を繰り返していた田中課長を排除するため。 二度目は、弱い立場の女性社員を脅し、裏金を受け取っていた取引先の高瀬を排除するため。


どちらも、間違いなく「正しいこと」だったはずだ。 あの力を使わなければ、美咲は今頃、泣きながら五百枚のPOPを書き、高瀬との不快な食事会に引きずり出されていただろう。自分がミクになったからこそ、彼女は救われ、笑顔を取り戻すことができた。


『正しいことをするのと、正しいやり方をするのは別です』


昼間、法務部の榊原から言われた言葉が耳の奥で蘇る。 だが、未来はグラスを強く握りしめ、その言葉を頭の中から振り払った。


綺麗事だ。 ルールや手続きばかりを気にしていたら、悪人はいつまでも安全な場所で笑い続け、弱い人間ばかりが踏みつけられる。 多少の代償があろうと、誰かに奇妙な目で見られようと、結果として周囲の人間を守り、会社に利益をもたらしているのだから、自分の選択は絶対に正しい。


(……代償?)


ふと、自分の頭に浮かんだその言葉に、未来は小さく眉をひそめた。


もし、ミクになるたびに、自分の中から「昔の記憶」が少しずつ消えているのだとしたら。 それは本当に、ただの記憶だけなのだろうか。


今日、武田から見せられた三歳の子供の写真。 それを見ても、何の感情も湧かなかった自分。 高瀬が白川部長の前で泣き叫びながら引きずり出されていった時、胸の奥がスッとするような、冷たい快感を覚えていた自分。


姿見の方へと、ゆっくりと歩み寄る。 暗いガラスの中に、黒崎未来の顔が浮かび上がる。


試しに、意識をほんの少しだけ揺らしてみる。 すると、鏡の中の自分の顔に重なるようにして、あの艶やかな長い黒髪と、すべてを見透かすような涼しげな瞳を持った『ミク』の顔が、幻のようにうっすらと浮かび上がった。


『あなたなら、どうします?』


自分の頭の中で、ミクの透き通った声が響いたような気がした。


あれは本当に、俺自身の声なのか。 それとも、俺が記憶を失っていく隙間に、少しずつ入り込んできている『別の何か』の声なのか。


分からない。 ただ、今の未来にとって、ミクの力はすでに手放すことのできない最も確実な武器になっていた。


東都ビバレッジの営業部には、まだ未来を目の敵にする人間や、古い派閥で会社を牛耳ろうとする上層部がいくらでもいる。営業部長の大崎も、急に頭角を現した未来のことを決して良くは思っていないはずだ。


この場所で生き残り、自分の人生を自分自身で決めるためには、もっと上へ行くしかない。


「……誰にどう思われようと、関係ない」


未来は暗い部屋の中で、ぽつりと呟いた。 瞬きを忘れたその瞳は、窓の外に広がる東京の夜景を、どこまでも冷たく静かに見つめ続けていた。


(第二話 完)

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