第三話 二つの顔 ①
「……第一課の武田主任が、東北支社の物流倉庫へ異動?」
月曜日の朝。 東都ビバレッジ営業部のフロアに張り出された内示の紙を見て、黒崎未来は思わず眉をひそめた。
異動の理由は『現場業務の再構築および適性見直しのため』と記されている。 だが、営業の最前線で安定した成績を上げ続けていた主任を、前触れもなく地方の倉庫管理へ回すなど、誰の目に見ても明らかな左遷だった。
「黒崎さん、これって、おかしくないですか!?」
後ろから覗き込んでいた星野美咲が、納得いかないというように唇を尖らせ、早口でまくし立てた。
「武田主任といえば、第一課のムードメーカーで、取引先からの信頼も厚いじゃないですか! なんで急に東北なんて……しかも来月からだなんて、あんまりです!」
美咲の言う通りだった。 未来が視線をフロアの奥へと向けると、ちょうど第一課の島で、武田健太郎が周囲の同僚たちに囲まれているのが見えた。
武田はいつものように年中持ち歩いているヨレヨレのハンカチで額の汗を拭いながら、困ったように後頭部をガシガシと掻いている。
「いやあ、参ったよな! でもま、生きてりゃなんとかなるだろ! 向こうの空気と水でじゃがいも育てたら、もっと美味いのができるかもしれねえしな!」
武田はガハハと豪快に笑って周囲を安心させようとしていた。 しかし、入社以来の付き合いである未来には分かった。笑っている武田の目元がわずかに引きつっており、シワの寄ったスーツの拳が固く握りしめられていることに。
彼には妻と、まだ三歳になる子供がいる。念願のマイホームを買ったばかりだという話も、少し前に居酒屋で聞いたばかりだ。このタイミングでの単身赴任か、あるいは家族を連れての地方転勤が、彼の愛する「普通の日常」をどれほど大きく狂わせるかは想像に難くなかった。
「……大崎部長の差し金ね」
いつの間にか隣に立っていた企画課主任の相沢沙耶が、細いフレームの眼鏡のブリッジを中指でクイッと押し上げながら、低い声で呟いた。
「大崎部長?」
「ええ。先週の金曜日の幹部会議で、来期の販売ノルマの引き上げ案が出たのよ。大崎部長が自分の派閥の手柄にするために強引に通そうとしたんだけど、武田くんが『現場の負担が大きすぎて取引先が潰れます』って正面から反対したの」
沙耶は手元のペン先でバインダーを軽くトントンと叩きながら、ガラス張りの部長室の方へと冷ややかな視線を向けた。
「大崎部長がどんな人か、黒崎くんだって知ってるでしょう? 自分の派閥に従わない人間や、会議で自分に恥をかかせた人間は、『能力不足』という名目で次々に地方へ飛ばしてきた。去年の秋に異動させられた第三課の佐々木さんもそうだったわ」
未来は部長室のブラインドの隙間から見える、大崎啓介の横顔を見つめた。 四十八歳。細身で神経質な体躯をしたあの男は、社内政治と派閥作りに異常な執着を持っている。
そして、沙耶はふと未来の方に向き直ると、声を潜めて続けた。
「それにね、黒崎くん。今回の武田くんの異動、あなたへの『見せしめ』の意味もあるんじゃないかしら」
「俺への……?」
「田中課長を追い出し、オリエントフーズの高瀬さんを排除して、二十九歳で異例の課長昇進。今のあなたは営業部の中で目立ちすぎてるのよ。大崎部長の派閥にも入らずに独自のやり方で結果を出しているあなたが目障りだから、まずは一番仲のいい同期の武田くんを飛ばして、自分の権力を見せつけようとしてるのよ」
未来はすぐには言葉を返せず、課長席へと戻ってブラックコーヒーを一口飲んだ。 苦い液体が喉を通る。
自分のせいで、武田が巻き込まれたのか。 いや、それ以前に、自分の保身と派閥の維持のためだけに、真面目に働いている社員の人生や家族の生活を平気で踏みにじる大崎のやり方は、到底許せるものではなかった。
*
その日の午後、未来は決裁書類を手に、一人で営業部長室へとノックをして入った。
「失礼します、大崎部長。……書類の提出と合わせて、今朝出た第一課の武田主任の異動について、少しお伺いしたいのですが」
デスクの奥に座る大崎啓介は、手元の高級ボールペンをカチ、カチ、と神経質に鳴らしながら、冷たい目で未来を見上げた。
「なんだね、黒崎課長。他部署の人事に口を出すとは、随分と余裕があるようだね」
「武田主任は現在の担当エリアでトップクラスの継続率を維持しています。彼を今、東北の物流倉庫へ異動させるのは、営業部全体の数字にとってもマイナスになるかと存じますが」
未来が理路整然と意見を述べると、大崎は眉間に深い皺を寄せ、「チッ」と露骨に舌打ちをした。
「数字だけが評価基準じゃないんだよ、黒崎くん。組織というのはね、上の決定に素直に従い、全体の和を乱さない人間で固めなければ回らないんだ。……君も、若くして課長になったからといって、自分が特別な人間だと勘違いしない方がいい」
大崎はボールペンをカチカチと鳴らす速度を早め、威圧するように身を乗り出した。
「田中くんの一件やオリエントフーズの件は、たまたま運が良かっただけだ。私のやり方に疑問を持つようなら、第二課の課長ポストだって、いつまで君の席であり続けるか分からんよ。……下がりたまえ」
「……なるほど。よく分かりました」
未来は深く頭を下げ、部長室を後にした。 廊下に出た瞬間、未来の顔からは表情が消え、その瞳は一度も瞬きをすることなく冷たく据わっていた。
(……あいつが上にいる限り、俺の居場所も、周りの人間も、いつ潰されるか分からない)
大崎をこのままにしておけば、次は自分の番だ。 そして、自分が力を失えば、武田だけでなく、美咲や第二課の部下たちもまた大崎の派閥の人間にすり替えられ、理不尽に踏みつけられることになる。
自分がもっと上の立場へ行くしかない。 大崎を引きずり下ろし、誰にも文句を言わせない地位を手に入れること。それは決して私利私欲ではなく、友人や部下を守り、会社を正しく機能させるための『必要悪』なのだ。
未来が廊下を歩いていると、部長室と隣り合った小さな控室の前を通りかかった。
そこは大崎部長専属の秘書である、小田切という三十代前半の女性社員のデスクがある場所だった。
ちょうどドアがわずかに開いており、中から大崎の内線電話の怒鳴り声が漏れてきていた。
『おい小田切! 来週のゴルフコンペの手配、まだ終わらんのか! だからお前は要領が悪いんだ!』
受話器を置き、「……すみません」と消え入るような声で呟いた小田切が、疲れ切った顔で深くため息をつくのが見えた。彼女のデスクの脇には、大崎個人のスケジュール帳や、非公開の人事評価ファイルの束が積まれている。
未来の足が、静かに止まった。 大崎の周囲は、彼の息のかかった男性社員の派閥で固められている。だが、一番近くで彼の日常と裏の顔を処理させられている秘書の女性だけは、その支配に強いストレスと嫌悪感を抱いているはずだった。
(……突破口は、あそこだ)
*
その日の夕方。
営業部のフロアへ戻った未来に、美咲が内線電話を取り次いだ。
「黒崎課長、受付から連絡です。来月の新商品パッケージのコンペに参加されるデザイン事務所の『白石様』が、事前の資料受け取りにいらっしゃったとのことですが……」
「……白石さん」
未来の胸が、わずかにざわついた。 先週の金曜日、あの紅茶とマカロンの専門店の前で出会った女性――白石凛だ。
本来なら企画課の沙耶が対応する案件だが、沙耶が外出中だったため、課長である未来が小会議室へ資料を持って向かうことになった。
会議室のドアを開けると、窓際に立っていた小柄な女性がゆっくりと振り返った。 栗色のボブカットに、アイボリーの柔らかなジャケット。凛の周囲には、やはりオフィスの慌ただしさとは無縁の、時間がゆっくりと流れているような静謐な空気が漂っていた。
「お待たせしました、白石さん。企画課の相沢が外出しておりまして、代わりに私が資料をお渡しします」
「ありがとうございます、黒崎さん。またお会いできましたね」
凛は陽だまりのような温かい微笑みを浮かべ、未来から資料のファイルを受け取った。 その際、彼女の細い指先が、未来の指先にほんのわずかに触れた。
なぜかその瞬間、未来は無意識のうちに左手で自分の首の後ろを揉んでいた。 最近、社内ではめっきり出なくなっていたはずの昔からの癖が、彼女の前に立つと自然と出てしまうことに、未来自身も微かな戸惑いを覚えた。
凛はその未来の仕草をじっと見つめると、どこか懐かしそうで、それでいてひどく切なそうな色を澄んだ瞳に浮かべた。
「……お仕事、大変そうですね。少しお顔が疲れているみたいですけど」
「あ、いえ。課長になったばかりで、少しバタバタしているだけですよ」
「そう……。先週は、友人の結城が失礼なことを言ってしまって、本当にごめんなさい。あの子、昔から少し不器用なところがあって」
凛は謝りながら、不安を感じた時の癖なのか、左手の親指の爪を右手の指先で軽くカリカリとこすった。
「気にしていませんよ。ただ……結城さん、まるで以前から俺のことをよく知っているような口ぶりでしたね」
未来がさりげなく探りを入れると、凛の指先の動きがピタリと止まった。 彼女は数秒間だけ言葉を飲み込むように黙り込み、それから静かに未来の目を見上げた。
「……あなたは、どう思う? もし、自分が忘れてしまっているだけで、どこかで誰かと深く関わっていたとしたら」
「え……?」
「ううん、変なことを聞いてごめんなさい。……あの、黒崎さん。もしご迷惑でなければ、今度のお休みにでも、少しだけお食事でもご一緒できませんか? 先週のお詫びもしたいですし、コンペに向けて、現場の課長さんのお考えももう少し詳しくお聞きしてみたくて」
仕事にかこつけた、けれど明らかに個人的な響きを持った誘いだった。 あの結城という謎めいた男との関係や、自分のポケットに入っていたマカロンのレシートの謎。それらを確かめるためにも、彼女と話す機会を持つのは悪くないはずだ。
だが、それ以上に――今の未来には、彼女のその悲しげな瞳から逃れることができない、奇妙な引力が働いていた。
「……分かりました。こちらこそ、ぜひお願いします」
「本当ですか? 嬉しい……ありがとうございます」
凛が心からホッとしたように微笑む。 彼女がなぜ自分に近づいてくるのか、その本当の目的はまだ分からない。 けれど、会議室を出ていく凛の華奢な背中を見送りながら、未来は自分の胸の奥に、大崎への冷たい怒りとはまったく別の、名前のつかない微かな痛みが残っているのを感じていた。




