第三話 二つの顔 ②
水曜日の午後七時。
東都ビバレッジのオフィスビルから少し離れた、静かな裏通りにある紅茶専門店に、一人の女性の姿があった。
艶のある黒髪のロングヘア。 深いブラックのジャケットの下にワインレッドのシルクのブラウスを着こなし、タイトなペンシルスカートに身を包んだ『ミク』――女性へと姿を変えた黒崎未来だった。
ミクは店内の奥の席に座り、甘いリキュールを少し垂らしたカクテルティーをゆっくりと傾けながら、入り口のドアを見つめていた。
大崎啓介営業部長。 自分の派閥に従わない社員を『能力不足』という名目で次々と地方へ左遷し、営業部を私物化している男。同期の武田を救い、そして自分自身がこれ以上大崎に潰されないためには、あの男を部長の座から引きずり下ろすしかない。
そのための最大の鍵を握っているのが、大崎の専属秘書である小田切という女性社員だった。 数日間の観察で、彼女が毎週水曜日の退勤後に、大崎の目を逃れるようにしてこの紅茶専門店で一人きりの時間を過ごしていることを、未来は突き止めていた。
カラン、とドアベルが鳴り、グレーの控えめなスーツを着た三十代前半の女性――小田切が店内に入ってきた。
彼女の顔には深い疲労の色が張り付いており、案内された二人掛けのテーブルに座るなり、重いため息をついた。
注文を終えた小田切が、バッグから手帳を取り出してスケジュールを確認し始めた、その時だった。 ミクはすっと立ち上がり、ヒールの音を静かに響かせながら彼女のテーブルへと歩み寄った。
「――こんばんは。小田切さん、かしら?」
涼しげで知的な声がかけられると、小田切はビクッと肩を揺らして顔を上げた。 目の前に立つ、モデルのように洗練された美女の姿に、小田切は警戒と戸惑いの入り混じった目を向ける。
「……はい、そうですけど。どちら様でしょうか?」
「突然ごめんなさい。私はミク。フリーランスで企業コンサルの仕事をしているわ。実は、東都ビバレッジの何人かの女性社員さんたちから、あなたのお話を伺っていて」
ミクはゆっくりと右耳に長い黒髪をかけ、相手の緊張を解きほぐすような柔らかな微笑みを浮かべた。
「『ミク』……? あ、もしかして、最近営業部の若い子たちの間で噂になっている……?」
小田切の瞳がわずかに見開かれた。 田中元課長やオリエントフーズの高瀬が失脚した背後で、女性社員たちの相談に乗ってくれた『謎の女性コンサルタント』の噂は、すでに秘書の彼女の耳にも届いていたらしい。
「少しだけ、ご一緒してもいいかしら? あなたも今、ひとりで抱えきれないほど重い荷物を背負わされているのでしょう?」
ミクの静かな、けれど心の奥底を見透かすような言葉に、小田切は数秒間ためらったあと、小さく頷いて向かいの席を勧めた。
「……私に、何のご用ですか? もし大崎部長のことで何か探りを入れていらっしゃるなら、私からは何も申し上げられません。私は部長の秘書ですから」
小田切は背筋を伸ばし、硬い表情で言った。
長年の秘書業務で培われた防衛本能だ。田中や高瀬の周辺にいた若い女性社員たちとは違い、彼女は会社の機密を扱う立場としての警戒心を持っている。
だが、ミク(未来)には、小田切がカップを持つ指先がわずかに震えていることや、目の下にコンシーラーで隠しきれなかった濃い隈があることがはっきりと見えていた。
「ふふっ、本当にそうでしょうか?」
ミクはわざとらしく小首を傾げ、涼しげな瞳で小田切の目を真っ直ぐに見つめた。
「あなたが本当に大崎部長に忠誠を誓っているなら、毎週水曜日のこの時間に、こんな場所でひとりぼっちでため息をついたりはしないはずよ。……昨日の午後も、部長室から怒鳴り声が聞こえていたわね。『だからお前は要領が悪いんだ』って」
「……っ」
小田切が息を呑み、視線を逸らした。
「ご自分のミスの責任はすべて秘書であるあなたに押し付け、休日の個人的なゴルフコンペの手配から、派閥の飲み会の幹事まで無給でやらせる。逆らえば『お前の代わりなどいくらでもいる、地方の関連会社へ飛ばされたいのか』と脅す。……違うかしら?」
まるで見てきたかのように言い当てるミクの言葉に、小田切の唇が小刻みに震え始めた。
「……仕方ないじゃないですか……っ」
絞り出すような声だった。
「大崎部長は、役員の一部とも繋がっている実力者です。あの人に睨まれたら、この会社では生きていけません。去年、部長の方針に意見した第三課の佐々木さんも、先月、経費の使い方に疑問を呈した経理の先輩も、みんな『能力不足』という評価に書き換えられて、地方へ飛ばされました……。そして今度は、第一課の武田主任まで……」
「ええ、知っているわ。武田さんには奥様と小さなお子さんがいらっしゃるのにね」
ミクが静かに相槌を打つと、小田切の目から、ついに堪えきれなくなった涙が一粒、頬を伝ってこぼれ落ちた。
「私だって……本当は、あの人のやり方が嫌なんです……! 真面目に働いている人たちの人事評価を、自分の好き嫌いだけで勝手に書き換えて、人生を狂わせて……。その書類を清書して人事に提出させられているのは、いつも私なんですよ!? 自分が犯罪の片棒を担いでいるみたいで、毎日吐き気がするんです……!」
一度決壊した感情は止まらなかった。 誰にも言えず、同僚にすら相談できずに一人で抱え込んでいた罪悪感と恐怖を、小田切は目の前の『ミク』にすべて吐き出していた。
ミクはハンカチを差し出しながら、心の中で冷徹に計算を進めていた。 やはり、大崎の弱点はここにある。権力で人を支配する人間は、最も身近にいる実務担当者がどれほど自分を憎んでいるかに気づかない。
「あなたは悪くないわ、小田切さん。あなたも被害者よ。……でも、あなたなら、どうします? このまま一生、大崎部長の道具として誰かの人生を壊す手伝いを続けるの? それとも、彼を止めるために力を貸してくれるかしら」
「止めるって……どうやってですか? 部長は用意周到な人です。表向きの書類はすべて辻褄が合うように処理されています」
「表向きの書類は、ね」
ミクは再びゆっくりと右耳に黒髪をかけ、声を潜めた。
「大崎部長が自分の派閥を維持し、一部の役員に取り入るためには、かなりの『軍資金』が必要なはずよ。それに、人事評価を不当に書き換える前の『本来の評価データ』と、関連会社のイベント費用を水増しして裏金を作っている記録。……几帳面で神経質で、誰も信用しない大崎部長なら、自分が切り捨てた人間や、弱みを握った人間の記録を、必ず手元に保管しているはずだわ。それを管理させられているのは、あなたじゃないの?」
小田切がハッとして顔を上げた。
その瞳が大きく揺れている。図星だった。
「……部長室の金庫の奥に、外付けのハードディスクが一つあります。それと、私が管理を命じられている非公開のクラウドフォルダに、過去五年分の『裏の人事査定メモ』と、広告代理店を通じた還流金の記録が……」
「それがあれば、武田さんの異動も止められるし、これまでに不当に飛ばされた人たちも救えるわ」
「で、でも……! それを持ち出したら、私だとすぐにバレます! 部長に何をされるか……!」
「大丈夫。あなたが直接表に出る必要はないわ。来週の火曜日、定例の役員会があるでしょう? その場で、営業部の黒崎未来課長がすべてを公にする。……黒崎課長なら、田中元課長やオリエントフーズの件で、どれだけ頼りになるかあなたも知っているでしょう?」
自分の名前を、自分の口から『頼りになる人物』として語る奇妙な感覚。
だが、小田切はその名前を聞いた瞬間、すがるような光を目に宿した。
「黒崎課長と……ミクさんは、繋がっていらっしゃるんですか?」
「ええ。彼は決して、情報提供者を売ったりはしない。私が保証するわ」
小田切は膝の上で強く拳を握りしめ、数秒間目を閉じた。
やがて目を開けた彼女の瞳には、これまでの怯えではなく、強い決意が宿っていた。
「……分かりました。明日の夜、部長が会食で出た後に、データをコピーして指定の場所にお渡しします。……どうか、あの人を止めてください。お願いします、ミクさん……!」
「ええ。約束するわ」
ミクは完璧な微笑みを浮かべて頷いた。
*
翌木曜日の深夜。 小田切から非接触のロッカー経由で受け取ったUSBメモリを手に、男の姿に戻った未来は自宅のパソコンへと向かっていた。
画面に展開されたデータは、想像以上に生々しいものだった。 大崎が自分の派閥に属さない社員たちの評価スコアを意図的に引き下げていた履歴。武田に対しても、『会議にて部長方針に反発、見せしめとして東北倉庫へ異動させる』という大崎自身のコメントがメモとして残されていた。
さらに、新商品の販促イベント費を懇意の広告代理店へ水増し発注し、過去三年間で一千万円以上の裏金をプールして、自分の派閥の飲食代や個人的な高級ゴルフクラブの購入、さらには一部役員への過剰な接待に流用していた決定的な証拠が揃っていた。
「……なるほど。これだけあれば、役員会でも誰もあいつを庇えないな」
未来は満足げに呟き、データを整理して保存した。 これでまた一つ、自分の前に立ちはだかる邪魔者を消すことができる。
作業を終えてパソコンの画面を閉じた、その時だった。
ふと、デスクの端に置かれたマグカップのブラックコーヒーに視線を落とした瞬間、未来の頭の中で、パツン、と細い糸が切れるような感覚が走った。
痛みはない。 ただ、さっきまでそこにあって当然だった何かが、音もなく消滅したような空白感。
(……あれ?)
未来はキッチンのコンロの方へと視線を向けた。
シンクの上には、使い込まれた鍋やフライパン、そして何種類ものスパイスが並んだ調味料ラックが置かれている。
かつて、自分は料理をするのが好きだったはずだ。 休日に時間をかけてデミグラスソースを煮込み、得意だったハヤシライスを作って、誰かに振る舞っていた記憶がある。
それなのに今、その調味料の瓶を見つめても、どのスパイスをどのタイミングで入れればいいのか、どうやって火加減を調整していたのかが、まったく分からなくなっていたのだ。
いや、手順だけではない。 なぜ自分が、面倒な手間をかけてまで手料理を作ることが「楽しい」と感じていたのか、その温かい感情の理由そのものが、頭の中から綺麗に抜け落ちていた。
「……まあ、いいか。どうせ最近は外食かコンビニばかりだしな」
未来は小さく肩をすくめ、キッチンの明かりを消した。 自分がかつて大切にしていたはずの『日常の温もり』がまた一つ失われたことにすら、今の未来はもう、大した恐怖を感じなくなっていた。




