第三話 二つの顔 ③
翌週の火曜日、午前十時。 東都ビバレッジ本社ビルの最上階にある特別会議室では、月に一度の拡大役員会が開かれていた。
重厚なマホガニー材のテーブルを囲むように、取締役や監査役、そして各部門の部長たちが顔を揃えている。 今回は「来期の全社営業戦略および人員再配置の最終承認」が議題となっているため、実務責任者として営業部各課の課長たち、そして法務部コンプライアンス担当課長の榊原誠も後方の席に陪席していた。
「――以上のように、来期のさらなる売上拡大に向けまして、現場の抜本的な引き締めを行います。その一環として、第一課の武田主任には東北支社の物流倉庫へ異動してもらい、現場の基礎から再教育を行う所存です」
スクリーンの前に立った営業部長の大崎啓介が、手元の高級ボールペンをカチ、カチ、と小さく鳴らしながら説明を締めくくった。 細身で神経質な顔には、「自分の決定に逆らう者は誰であろうとこうなる」という傲慢な自信が張り付いている。
大崎と懇意にしている数名の役員たちが、「うむ、現場の規律を保つのは重要だな」「大崎部長に一任しよう」と満足げに頷き合った。 このまま何事もなく、武田の左遷を含めた大崎の独断人事が承認されようとした、その時だった。
「――議長。営業部第二課の黒崎です。今の人員配置案、ならびに営業部全体の予算執行状況について、緊急にご報告すべき事項がございます」
後方の陪席者用の長机から、黒崎未来が静かに手を挙げて立ち上がった。 まだ無難な吊るしのネイビーのスーツを着ているものの、その立ち姿には猫背の面影は一切なく、ピンと伸びた背筋が周囲を圧するような奇妙な存在感を放っていた。
「黒崎くん、君は陪席者だぞ! 役員会の場で勝手な発言は控えなさい!」
大崎が眉間に深い皺を寄せ、チッ、と露骨に舌打ちをして睨みつけた。
「大崎部長。これからご提示する資料は、来期の全社戦略の根幹に関わるものです。役員の皆様にも必ず目を通していただく必要がございます。……榊原課長、事前にお渡ししていた資料の配布をお願いできますでしょうか」
未来が視線を向けると、隣に座っていた法務部の榊原が、カフスボタンの位置を指先で整えながら静かに立ち上がった。
「法務部としても、看過できない重大なコンプライアンス違反の疑義が確認されましたので、正式な審議を求めます」
榊原と法務部のスタッフが、役員たちの目の前に分厚い調査資料を配り始める。 自分の手元にも置かれた資料の表紙を見た瞬間、大崎のボールペンを鳴らす指がピタリと止まった。
「な……なんだこれは!? おい黒崎、貴様、どこからこんなデタラメな数字を……!」
「デタラメではありません。すべて大崎部長ご自身のクラウドフォルダ、および部長室の金庫内のハードディスクに保管されていた正規の記録です」
未来は一度も瞬きをすることなく、氷のように冷たい声で説明を開始した。
「まず一ページ目をご覧ください。今回、東北への異動対象となっている武田主任をはじめ、過去三年間に『能力不足』を理由に地方へ異動させられた計七名の社員について、書き換えられる前の『本来の人事評価スコア』と、大崎部長が独断でスコアを改ざんした履歴の比較表です。備考欄には、大崎部長ご自身のメモとして『会議にて部長方針に反発、見せしめとして異動させる』とはっきり記録されております」
特別会議室が、ざわっ、と大きく波立った。
「バカな……! そんなメモ、私は知らん! 黒崎くん、君は課長になったばかりで野心を拗らせ、上司である私を陥れようとしているのかね!?」
大崎が顔を紅潮させ、机を叩いて叫んだ。
「いいえ。僕は何もしていません。あなたがこれまで『能力不足』と切り捨て、踏みつけてきた社員たちの記録と証言が、ここにあるだけです」
未来は淡々と、大崎の逃げ道を一つずつ塞いでいった。
「続いて五ページ目をお開きください。こちらは、営業部が過去三年間に発注した新商品販促イベントの決済書類と、下請けの広告代理店から提出された『実際の精算書』の照合データです。大崎部長はイベント費用を毎回三割以上水増しして会社に請求させ、その差額――総額一千二百万円あまりを代理店側のプール金として裏で管理させていました」
「なっ……!?」
大崎の顔から、急速に血の気が引いていく。
大崎を支持していた役員の一人が、慌てたように資料をめくりながら声を上げた。
「ま、待て! それは単なる次期キャンペーンへの繰越金ではないのか!?」
「いいえ。八ページ目に、そのプール金から支払われた領収書の内訳がございます。銀座の高級クラブでの派閥メンバーの飲食代、大崎部長個人のゴルフクラブセットの購入費、さらには……この場におられる一部の役員の方々への、規定を大幅に超えたゴルフ接待および贈答品の購入記録です。すべて、大崎部長の専属秘書である小田切さんをはじめ、複数の関係者が『部長の直接の指示であった』と法務部に対して正式に証言しております」
その瞬間、先ほどまで大崎を庇おうとしていた役員たちが、まるで火の粉を払うかのようにサッと顔を背け、口をつぐんだ。
ここで大崎の味方をすれば、自分たちも裏金による接待を受けていた共犯者として追及される。保身に走る彼らが、大崎を見捨てるまでに一秒もかからなかった。
「お、小田切が証言しただと……!? あの女、裏切ったのか……!」
大崎は手元のボールペンを握り潰さんばかりに強く握りしめ、全身を震わせた。 自分が絶対的な権力で支配していたはずの部下や秘書、そして頼りにしていた役員派閥のすべてが、目の前の二十九歳の若造のたった数枚の資料によって、音を立てて崩れ去っていく。
「大崎部長。私物のために会社の人事権と予算を歪める人間が、営業部のトップに座り続けることは、会社のためになりません」
未来の静かな声が、静まり返った会議室に響き渡った。
「榊原課長。あとの手続きは法務部にお任せします」
「……承知しました。議長、ただいまの資料と証言に基づき、大崎営業部長の職務即時停止と、査問委員会の設置を動議いたします」
誰も反対する者はいなかった。 蒼白な顔で椅子に崩れ落ち、唇をわなわなと震わせる大崎を残して、審判はあっけなく下されたのだった。
*
役員会が終了し、重苦しい空気の中で参加者たちが退室していく中、未来は自分の資料をブリーフケースに収めていた。
大崎は失脚した。 武田の不当な異動は白紙撤回され、大崎の派閥に怯えていた社員たちも救われた。さらに会議の直後、専務から個人的に呼び止められ、「大崎の後任が決まるまでの間、営業部全体の統括代行、および次期部長候補として動いてほしい」という事実上の昇進内示まで言い渡された。
係長から課長へ、そして営業部のトップへ。 わずか一ヶ月あまりの間に、未来はこれまで自分を踏みつけていた人間たちをすべてごぼう抜きにし、誰もが羨む権力の階段を駆け上がっていた。
(……勝った。これで三人目だ)
誰もいなくなった特別会議室の窓から、眼下に広がる東京のビル群を見下ろす。 田中を倒した時は、初めて自分の力で誰かを救えたという温かい達成感があった。 高瀬を倒した時は、強者をひざまずかせる強烈な全能感があった。
だが今、大崎という大きな壁を打ち破ったにもかかわらず、未来の胸の奥には、以前のような喜びも興奮もほとんど湧いてこなかった。 まるで、あらかじめ決められた数式を処理して、当然の結果を出しただけのような、ひどく冷たくて平坦な感覚しかなかったのだ。
「――未来ッ! お前、またやったんだってな!」
営業部のフロアへ戻ると、第一課の武田健太郎が、丸太のような身体を揺らして駆け寄ってきた。 額の汗をヨレヨレのハンカチで拭いながら、今にも泣き出しそうなほど顔をくしゃくしゃにして、未来の両肩をガッと掴む。
「人事から連絡が来てよ、俺の東北行き、取り消しになったぞ! 大崎の野郎が裏でやってたこと、お前が役員会で全部暴いてくれたんだってな! 本当に……本当にありがとな、未来! お前のおかげで、嫁もチビも泣かせずに済んだぜ!」
「ああ。武田が飛ばされるなんて、会社のためにならないからな。当然のことをしただけだよ」
未来は微笑んで返した。
「黒崎課長、すごすぎます……! あの大崎部長まで追い詰めちゃうなんて……!」
後ろからやってきた星野美咲も、ポニーテールを揺らして目を輝かせていた。彼女は声を潜めると、憧れを隠せない表情で未来に囁いた。
「秘書の小田切さんが法務部に証言してくれたって聞きました。もしかして今回も、あの『ミクさん』が小田切さんの相談に乗って、救い出してくれたんですよね!?」
「さあ、どうだろうな。俺はただ、自分の手元に集まった事実を並べただけだよ」
笑顔で答える未来の姿を、少し離れた企画課のデスクから、相沢沙耶がじっと見つめていた。 沙耶は細いフレームの眼鏡のブリッジを中指で押し上げると、手元のペン先で机を叩くことも忘れ、深い溜息をついた。
武田が大声で感謝し、美咲が無邪気に称賛している真ん中で、未来は確かに笑っている。 しかし、沙耶の目にははっきりと見えていたのだ。 笑っているはずの未来の目元がピクリとも動いておらず、その瞳がまるでガラス玉のように冷たく、目の前の親友の喜びに対して何の感情も映し出していないことが。
(黒崎くん、最近ほんとに変よ……。あんなに武田くんのために怒っていたはずなのに、どうしてそんな冷たい目で笑えるの?)
沙耶の胸に広がる拭いきれない不安をよそに、未来は静かに自分のデスクへと戻り、冷めきったブラックコーヒーを一口で飲み干した。




