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第三話 二つの顔 ④

大崎営業部長が事実上の解任となり、営業部全体の統括代行を任されるようになってから数日が過ぎた。 金曜日の夜、黒崎未来は少し早めにオフィスを出ると、待ち合わせ場所である街角へと向かっていた。


先週、小会議室で白石凛と交わした食事の約束の日だった。 街灯の下で待っていた凛は、ミントグリーンの柔らかなカーディガンに、アイボリーのロングスカートを合わせていた。栗色のボブカットが夜風に揺れ、未来の姿を見つけると、陽だまりのような温かい微笑みを浮かべて小さく手を振った。


「こんばんは、黒崎さん。お仕事、お忙しいんじゃないですか?」


「いえ、大丈夫です。お待たせしてすみません」


二人は並んで歩き出した。 大崎を追い落とし、社内の派閥争いに勝利して以来、未来の頭の中は常に冷たく張り詰め、社員のことも取引先のことも「駒」や「数字」として計算する感覚が強まっていた。


しかし、こうして凛の隣を歩いていると、彼女の周囲に流れるゆったりとした静謐な空気に当てられて、張り詰めていた神経が不思議と緩んでいくのを感じた。


「お店、この先の路地にある洋食屋さんで予約してあるんです。少しレトロな雰囲気のお店なんですけど、お嫌いじゃないですか?」


「ええ、構いませんよ。なんでも食べますから」


未来が頷くと、凛は嬉しそうに目を細めて先導した。 大通りから一本入った、蔦の絡まるレンガ造りの小さな洋食レストランだった。


カラン、と古風なドアベルが鳴り、二人は店内へと足を踏み入れた。 琥珀色の温かい照明。壁に掛けられた古い絵画。そして、厨房から漂ってくるじっくりと煮込まれたデミグラスソースの甘く香ばしい匂い。


その空気を胸いっぱいに吸い込み、奥の窓際のテーブル席が見えた、まさにその瞬間だった。

未来の足が、ぴたりと止まった。


店内の景色に重なるようにして、頭の奥で、古いフィルム映画の一コマのような映像がフラッシュバックしたのだ。 同じ琥珀色の照明。同じ窓際の席。 そこで誰かと向かい合って座り、湯気の立つハヤシライスを食べながら、お腹を抱えて笑い合っていた記憶。


「……あれ。ここ、前にも来たよな?」


未来の口から、無意識のうちにそんな言葉がこぼれ落ちていた。 誰に確認するでもなく、あまりにも自然な「素」の口調だった。


その言葉を聞いた瞬間、前を歩いていた凛の背中がビクッと跳ねた。 ゆっくりと振り返った凛の表情は、まるで時間が止まったかのように凍りついていた。大きく見開かれた澄んだ瞳が、信じられないものを見るように未来の顔を射抜いている。


「……覚えてるの?」


凛の声は、かすかに震えていた。 期待と、恐怖と、今にも泣き出してしまいそうなほどの切実な痛みが、その短い一言に凝縮されていた。


「え……?」


凛にそう問い返されて、未来自身もハッと我に返り、自分の言葉に驚いた。


(……俺は今、なんでそんなことを言ったんだ?)


もう一度、店内の景色を見回してみる。 つい一秒前まで、確かに頭の奥にあったはずの「誰かとここで笑っていた温かい映像」は、手を伸ばして掴もうとした途端、まるで朝霧が晴れるかのように跡形もなく消え失せていた。


窓際の席を見ても、壁の絵画を見ても、もう何の感情も湧いてこない。 自分が本当にこの店に来たことがあったのか、それとも似たような別の店と勘違いしただけなのかすら、完全に分からなくなっていた。


「……あ、いや。すみません、気のせいでした。なんだか雑誌か何かで見たことがあったような気がして、つい」


未来は無意識に左手で首の後ろを揉みながら、曖昧に笑って誤魔化した。


凛は、未来のその表情と仕草を、数秒間だけ食い入るように見つめていた。 やがて、彼女の瞳からすっと光が引き、長いまつ毛が伏せられる。彼女の左手の親指の爪を、右手の指先がカリカリと軽くこすっていた。


「……そうだね。このお店、よく雑誌にも載ってるから、きっとそれを見たんですね」


凛はすぐに穏やかな笑顔を作り直し、窓際の席へと座った。 だが、メニューを開きながらも、彼女は未来の目を真っ直ぐに見ようとはせず、テーブルに置かれた水差しやカップの縁を細い指先で静かになぞっていた。


運ばれてきた看板メニューのハヤシライスは、かつて未来が一番好きだったはずの料理だった。 数日前、自宅のキッチンで作り方を忘れてしまったあの料理。 スプーンですくって口に運ぶと、濃厚で深い味わいが広がった。美味しいとは思う。けれど、なぜ凛がわざわざこの店を選び、自分の好物であるハヤシライスを勧めてきたのかを考えると、未来の胸の奥には奇妙なざわめきが広がっていた。


「黒崎さん、お口に合いましたか?」


「ええ、とても美味しいです。……白石さんは、このお店によく来られるんですか?」


「はい。昔……とても大切な人と、特別な日によく来ていた場所なんです。その人が、ここのハヤシライスが大好きで」


凛は微笑みながら言ったが、その声にはどこか深い悲しみが滲んでいた。


「……その人とは、今は?」


「さあ、どうでしょうね」


凛はカップのハーブティーを一口飲み、少し悪戯っぽく、それでいて切なそうに小首を傾げた。


「すぐ近くにいるのに、すごく遠い場所に行ってしまったみたいで……。でも、私は今でも、その人のことが大切ですよ。……あなたは、どう思う? 忘れてしまった思い出は、最初からなかったのと同じだと思いますか?」


未来はスプーンを止め、凛の澄んだ瞳を見つめ返した。 彼女が語っている「大切な人」とは、一体誰のことなのか。 まさか、自分なのか。それとも、あの結城創という男のことなのか、あるいはまったく別の誰かなのか。


もし自分なのだとしたら、なぜ彼女は「私はあなたの恋人だった」と本当のことを告げないのか。 記憶を失っている未来を傷つけないためか、それとも――未来の記憶がないことを利用して、何か別の目的で近づいてきているのか。


疑念は浮かぶのに、目の前で微笑む彼女の温かさに触れていると、未来はそれ以上深く踏み込んで問い詰めることができなかった。


*


食事を終え、駅まで凛を送った未来は、午後十時過ぎに自宅のマンションへと帰り着いた。


部屋に入り、スーツの上着をハンガーにかけながら、今夜の凛の凍りついたような表情を思い返す。 『……覚えてるの?』 あの瞬間、自分が口にした「前にも来たよな」という言葉は、間違いなく自分の奥底に残っていた記憶の断片だったはずだ。


それなのに、なぜすぐに消えてしまったのか。 田中を倒したあと、学生時代の同級生の顔が思い出せなくなった。 高瀬を倒したあと、誰かに革の手袋をもらった記憶が消えた。 そして今回、大崎を倒すためにミクになったあと、料理の記憶と、あのレストランでの記憶が抜け落ちている。


(……まさか、本当に『ミク』になるたび、俺の記憶が消えているのか?)


未来は書斎のデスクの前に立ち、引き出しを開けて、以前から使っている古い手帳やノートを探り始めた。 もし自分が以前から記憶を失い続けているのだとしたら、過去の自分が何か記録を残しているかもしれないと思ったのだ。


一番下の引き出しの奥。 普段は使わない予備の万年筆の箱の下に、小さく折りたたまれた一枚のメモ用紙が挟まっているのが見えた。


未来は眉をひそめ、そのメモ用紙を引っ張り出して開いた。 そこに書かれていた文字を見た瞬間、未来の全身の毛穴が、ブワッ、と一気に逆立った。


『ミクになった回数を数えろ』


黒のボールペンで、強い筆圧で殴り書きされた一行。 リビングに置かれていたあのカードとは違う。文字の跳ね方も、漢字の癖も、間違いなく『黒崎未来自身の筆跡』だった。


「……な、んだこれ……? 俺が、書いたのか……?」


未来の指先が、カタカタと小刻みに震え始めた。 こんなメモを書いた記憶は、1ミリもない。 だが、紛れもなく自分の字だ。


『ミクになった回数を数えろ』。 自分は、田中課長の一件の時に「初めて」ミクに変身する力に目覚めたはずだった。それから今までの変身回数は、数えるまでもなく片手で足りる。


それなのに、なぜ「回数を数えろ」などという警告を、自分自身が書き残しているのか。 まるで、自分が『初めてだと思っていたあの日』よりもずっと前から、何度もミクになり、そのたびに変身したことすら忘れてしまっているかのような――そんな底知れない恐怖が、未来の喉元を冷たい手で締め上げた。

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