第三話 二つの顔 ⑤
『ミクになった回数を数えろ』
自分の筆跡で殴り書きされたその短い一文を、黒崎未来は息を止めたまま見つめ続けていた。 書斎の蛍光灯が、ジーッという微かな電子音を立てて白いメモ用紙を照らし出している。
間違いない。 『回』という漢字の最後の跳ね方も、少し右上がりに癖のある文字の並びも、紛れもなく未来自身の字だった。
「……いつだ? 俺はいつ、こんなものを書いた?」
記憶の糸を必死に手繰り寄せる。 だが、自分がこのメモを書いた場面など、頭の中のどこを探しても出てこなかった。
未来は震える手でデスクの上のノートパソコンを開き、スマートフォンのカレンダーやメモアプリ、さらにはパソコンのテキストファイルまで手当たり次第に検索をかけた。
もし過去の自分が『ミク』に関する記録を残していたのなら、他にも何か手がかりがあるはずだと思ったのだ。
しかし、画面に並ぶのは日々の営業スケジュールや取引先のデータばかりで、ミクに関する記述はどこにも見当たらなかった。
ただ一つ、パソコンのゴミ箱の履歴の奥深くに、数ヶ月前の日付で『名称未設定.txt』というファイルが完全削除されたログだけが残っていたが、中身を復元することはできなかった。
(数ヶ月前……?)
未来の背筋に、氷を当てられたような冷たい戦慄が走った。 自分は二週間前、田中修一に手柄を奪われたあの夜に、洗面所の鏡の前で『初めて』ミクに変身したはずだった。
けれど、あの夜、自分の車のダッシュボードの奥からは、最初からミクの唇に合うワインレッドのリップスティックが出てきた。 クローゼットの衣装ケースの底には、ミクのサイズに寸分違わず合わせたシルクのブラウスやペンシルスカートが綺麗に畳まれて入っていた。 そして今、引き出しの奥から見つかった、自分自身の筆跡による警告。
(もし……あの日が『初めて』じゃなかったとしたら?)
以前にも、自分はミクになっていたのか? そして、ミクになるたびに大切な記憶が抜け落ち、ついには「自分がミクになっていたこと」や「なぜこのメモを書いたのか」という記憶そのものまで、一度リセットされてしまったとでもいうのか?
未来は椅子から立ち上がり、洗面所へと向かった。 鏡の前に立つ。 そこに映る二十九歳の男は、少し青ざめた顔をしながらも、驚くほど冷たく据わった瞳でこちらを見つめ返していた。
意識を揺らす。 ――グニャリ、と視界が歪み、骨格が音もなく縮んでいく。 数秒後、鏡の中に現れたのは、艶やかな長い黒髪と涼しげな瞳を持つ『ミク』の姿だった。
ミクはゆっくりと右手を上げ、自然な仕草で右耳に髪をかけた。 そして、鏡の中の自分自身に向かって、わざとらしく小さく小首を傾げてみせる。
「……ふふっ、本当にそうでしょうか?」
自分の口から滑り出たその澄んだ声を聞いて、未来はハッとして男の姿へと戻った。 荒い息を吐きながら、洗面台の縁を両手で強く掴む。
やはり、別人格などではない。ミクになっている間の意識は、紛れもなく黒崎未来自身のものだ。 それなのに、あの姿になった瞬間、恐怖や迷いが綺麗に消え去り、すべてをチェスの駒のように冷徹に見下ろす感覚に支配される。
今夜、凛と行ったあの古い洋食レストラン。 『ここ、前にも来たよな?』と自分が口にした時、凛が見せたあの凍りついたような顔と、『……覚えてるの?』という震える声。
あれは、本当に自分の記憶の残滓だったのか。 それとも、凛という女性が、記憶の曖昧な自分を何かの目的で誘導するために仕掛けた罠なのか。 考えれば考えるほど、自分が立っている足元の地面が底なし沼のように揺らいでいく感覚があった。
*
翌朝。
ほとんど眠れないまま出社した未来を待っていたのは、人事部からの正式な辞令だった。
『黒崎未来を、営業部・部長代理に命ずる。合わせて、来月より新設される営業本部・戦略推進室の室長を兼務するものとする』
大崎が失脚して空席となった営業部のトップの座に、二十九歳の未来が事実上そのままスライドする形での大抜擢だった。 係長から課長へ昇進してわずか数週間でのさらなる昇格に、フロア中がどよめきに包まれた。
「黒崎さん、いえ、黒崎部長代理! おめでとうございます!」
星野美咲が、ポニーテールを揺らして一番に駆け寄ってきた。 彼女の瞳は、まるで物語の主人公を見るかのようにキラキラと輝いている。
「田中元課長に続いて、あの大崎部長の不正まで暴いて営業部を綺麗にしてくださるなんて……! 黒崎さんと、裏で協力してくれた『ミクさん』のおかげで、私たちの部署は本当に生まれ変わりました!」
「ありがとう、星野さん。でも、これからが本当の勝負だ。営業部全体の数字を背負うことになるから、今まで以上に気を引き締めていこう」
「はいっ! どこまでもついていきます!」
元気よく一礼して自席へ戻っていく美咲の背中を見送りながら、未来はガラス張りの部長室――今日から自分が使うことになる部屋へと視線を向けた。
「……すごい出世スピードね、黒崎くん」
書類を抱えた相沢沙耶が、未来の隣に立ち止まり、細いフレームの眼鏡のブリッジを中指でクイッと押し上げた。
「大崎部長の派閥にいた連中も、昨日の役員会の一件で完全に大人しくなったわ。今や営業部であなたに逆らえる人間は一人もいないわね」
「人聞きが悪いな、沙耶。俺は別に、誰かを従わせたくてやったわけじゃない。不正を正して、武田やみんなを守りたかっただけだよ。会社のためだ」
未来はいつもの穏やかな口調で答えた。 だが、沙耶は手元のペン先でバインダーをトン、と軽く叩き、少しだけ寂しそうに目を細めた。
「そうね。結果として武田くんは救われたし、そこは本当に感謝してる。……でも、黒崎くん。あなた、昇進が決まっても、ちっとも嬉しそうな顔をしていないのね」
「……え?」
「係長だった頃のあなたは、小さな契約が一つ取れただけでも、もっと分かりやすく喜んでたわ。今のあなたは、どれだけ大きな敵を倒しても、まるで最初から決まっていた作業を片付けただけみたいな顔をしてる」
沙耶の言葉に、未来は一瞬だけ言葉に詰まった。 昨日、役員会を終えたあとに自分自身が感じた「以前のような喜びがない」という空虚感を、同期の彼女は正確に見抜いていたのだ。
「……立場が変われば、責任も重くなるからな。浮かれているわけにはいかないよ」
未来は一度も瞬きをせずにそう答え、自分の荷物をまとめて部長室へと足を踏み入れた。
ブラインドの閉められた広い個室。
革張りの大きな椅子に深く腰を下ろすと、フロアの喧騒が遠い世界のもののように遮断された。
ポケットから、昨夜見つけたあのメモを取り出す。 『ミクになった回数を数えろ』。
恐怖はまだ、胸の奥にくすぶっている。 しかし、この部長室の重厚なデスクに両手を置き、自分の手の中にある権限の大きさを実感した瞬間、未来の頭の中では、恐怖よりも「冷徹な合理性」が静かに優位に立ち始めていた。
仮に、過去の記憶が少しずつ消えているのだとしても。 その代償として、自分は誰にも踏みつけられない地位と、悪を排除する絶対的な力を手に入れている。 来月からは営業本部の大型商談も自分の管轄になる。そこでさらに結果を出せば、会社の経営陣へと食い込むことすら夢ではない。
立ち止まるわけにはいかなかった。
*
そして、同じ時刻。 都内の雑居ビルの一角にある、薄暗いコンクリート打ちっぱなしの部屋。
ブラインドの隙間から差し込む細い朝の光の中で、一人の男がデスクの前に座っていた。 部屋の隅には複数のモニターが並び、壁にはいくつかの企業データや、東都ビバレッジの周辺地図がピンで留められている。
黒いコートを椅子の背もたれにかけたその男は、太く骨ばった指先で、一枚の古い写真を静かに持ち上げていた。
少し色褪せた、大学時代のスナップ写真だった。 桜並木の下で、三人の若者が肩を並べて笑っている。
真ん中に写っているのは、今よりもずっと無邪気で、少し照れくさそうに首の後ろを掻きながら笑っている学生時代の黒崎未来。 その隣で、未来の腕に寄り添うようにして、幸せそうに微笑んでいる栗色の髪の少女――白石凛。
そして、未来の反対側の隣にもう一人、背の高い少年が立っている。 しかし、その少年の顔の部分だけは、誰かの手によって不自然に破り取られ、白くザラついた紙の断面が剥き出しになっていた。
男は、破り取られた少年の顔の部分を親指の腹でゆっくりとなぞり、それから写真の中の未来と凛の笑顔へと視線を落とした。
モニターの画面には、今朝更新されたばかりの東都ビバレッジの人事異動情報――『営業部部長代理・黒崎未来』という文字が青白く浮かび上がっている。
「……まだ、そこまで思い出せないか……」
静まり返った部屋に、男の低く掠れた呟きが落ちた。 それが未来を案じる声なのか、それとも冷酷に観察する声なのかは分からない。
逆光の中に沈んだその男の顔は、最後まで深い影に覆われて見えなかった。
(第三話 完)




