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第四話 二つの顔を持つ恋 ①

仕立ての良いダークネイビーのオーダースーツに袖を通し、黒崎未来は姿見の前でネクタイを締めた。


営業部部長代理、兼、営業本部・戦略推進室室長に就任してから、二年という歳月が流れていた。 三十一歳になった未来の身体からは、かつて無難な吊るしのスーツを着てペコペコと頭を下げていた「気のいい、少し疲れた会社員」の面影は完全に消え失せている。


色味こそ以前と変わらない地味なネイビーやグレーばかりだったが、今の未来の体躯に寸分の狂いもなくフィットした最高級の生地は、ピンと伸びた背筋と相まって、周囲を無言で圧するような冷徹な風格を放っていた。


鏡の中の自分は、ほとんど瞬きをしていなかった。 困った時に左手で首の後ろを揉む癖も、この二年間、社内で出た記憶はない。


『ミクになった回数を数えろ』


二年前、デスクの引き出しの奥から見つかった、自分自身の筆跡によるあの警告のメモは、今も手帳のポケットに折りたたんで入れてある。 この二年間、未来はめったなことでは『ミク』に変身しないよう自らを律してきた。部長代理と室長という表の権限を駆使するだけで、社内の大抵の業務や人事は思い通りに動かすことができたからだ。


プライベートでは、あの時パッケージのコンペを通じて再会した白石凛との穏やかな関係が続いていた。週末には彼女の部屋を訪れ、一緒に食事をしたり、彼女の飼っている猫を眺めたりする時間が、未来にとって唯一の静かな日常となっていた。


だが、今日から始まる案件は、これまでの二年間の平穏とは桁が違った。


*


「――納入価格を一律二十パーセント引き下げろ、ですって!? そんなの、うちに赤字で商品を卸せって言ってるようなものじゃないですか! それって、おかしくないですか!?」


東都ビバレッジ本社、営業本部の会議室。 星野美咲の甲高い声が響き渡った。二十六歳になり、後輩を指導する立場になった今でも、理不尽なことに対して唇を尖らせ、焦ると早口になって身振りが大きくなる彼女の癖は変わっていない。


未来が率いる戦略推進室には、実務の要として美咲と、企画課主任の相沢沙耶が引き続き名を連ねていた。


「落ち着きなさい、美咲ちゃん。相手は全国に三百店舗を展開する最大手スーパー『グローバルマート』よ。うちの年間売上の二割近くを占める最大級の取引先なんだから、向こうも強気に出てくるわ」


三十一歳になった沙耶が、細いフレームの眼鏡のブリッジを中指でクイッと押し上げながら、冷静にたしなめた。


「でも相沢主任! 値引きだけじゃないんですよ!? 『来期の棚割りを維持したければ、販促協力金として別途三千万円を拠出しろ』なんて……こんなの、事実上のリベート要求じゃないですか!」


美咲が悔しそうに拳を握りしめて未来の方を見た。 未来は手元のブラックコーヒーを一口飲み、タブレット端末に表示された先方の担当者プロフィールに視線を落とした。


グローバルマート本社、食品統括部チーフバイヤー・南條裕二(なんじょうゆうじ)。三十八歳。 百八十二センチの長身に派手な柄のネクタイを好み、メーカーの営業マンたちの間では「蛇」のように狡猾で冷酷な男として恐れられている人物だった。


「先月、先方の担当がこの南條バイヤーに交代してから、要求が一気に過酷になったな。だが、来期の年間契約更新は来週末に迫っている。ここでグローバルマートの棚を失えば、東都ビバレッジの今期の業績は一気に傾く」


未来が静かに言うと、沙耶がペン先で机を軽くトントンと叩きながら眉をひそめた。


「おまけに今回は、経営陣があの大物コンサルタントを交渉のアドバイザーとして呼んでるんでしょう? 確か、もうすぐこの会議室にいらっしゃるはずだけど……」


沙耶が言いかけた、まさにその時だった。

ノックの音とともに会議室の重い扉が開き、一人の男が部屋の中へと足を踏み入れた。


身長百七十八センチ、体重八十キロ。 白髪混じりの髪を完璧なオールバックに撫でつけ、光沢のあるイタリア製の高級スーツを着こなしたその男は、分厚い胸板と太い首を持つ、まるで肉食獣のような圧倒的な体躯をしていた。胸元にはボルドーとゴールドの派手なポケットチーフが覗き、左腕には重厚な金の時計が光っている。


男が一歩部屋に入っただけで、会議室の空気の密度がグッと重くなり、美咲が思わず息を呑んで一歩後ろへ下がったほどだった。


「やあ、待たせたね。私が堂島ストラテジーの堂島剛だ」


腹の底に響くような、低く熱量のある声だった。 五十二歳の経営コンサルタント――堂島剛は、会議室の中をぐるりと見渡すと、一直線に未来の前へと歩み寄り、値踏みするようにその目を細めた。


「君が噂の黒崎未来くんか。若くして社内の膿を出し切り、この二年間で営業本部の数字を過去最高に引き上げた若き獅子だ。……なるほど、いい目をしている。無駄な感情がなくて実にいい」


堂島はニヤリと笑いながら、太い指で自分の顎をゆっくりと撫でた。


「堂島先生。本日はお忙しい中ありがとうございます。黒崎です」


未来が頭を下げると、堂島は豪快に笑ってソファの真ん中にどっしりと腰を下ろした。


「堅苦しい挨拶は抜きにしよう。今日の午後、グローバルマートの南條がここへ来るんだろう? あの男は私もよく知っている。正論や誠意などという綺麗事が一番通じない相手だ」


堂島の言葉に、沙耶が少し警戒したような表情で口を開いた。


「では、当社の商品の品質データや、この二年間の販売実績をどれだけ丁寧にプレゼンしても無駄だと仰るのですか?」


「無駄だね」


堂島は即座に斬り捨てた。


「ビジネスの交渉とは、説得ではない。支配だ。南條のような人間は、相手が自分より弱いと見ればどこまでもむしり取る。まずは午後、君たちが考える『正攻法』とやらでぶつかってみるといい。奴がどういう生き物か、骨の髄まで理解できるはずだ」


*


その日の午後二時。 特別応接室に現れたグローバルマートの南條裕二は、噂通りの男だった。


百八十二センチの長身痩躯に、ギラついた黄色と紫の派手なストライプのネクタイ。 ソファに浅く腰掛け、長い足を組んだ南條は、未来たちが用意した分厚い提案書を一瞥すらしようとしなかった。


「――ですので南條様。当社の主力ラインナップは過去二年間の市場調査でも競合他社を十五パーセント上回る回転率を維持しておりまして、従来の納入価格を据え置いていただいても、御社には十分な利益が――」


未来がデータを示しながら正攻法で説明を続けるのを、南條は退屈そうに聞いていた。 そして、おもむろに右手の小指を立てると、その伸ばした小指の爪で、自分の前歯の隙間をカリ、カリ、といじり始めたのだ。


下品で、相手を完全に舐め切った仕草。 同席していた美咲が、あまりの無礼さに顔を赤くして拳を握りしめる。


「……で? 話はそれだけ、黒崎室長?」


南條は小指の爪の先をフッと吹きながら、爬虫類のような冷たい目で未来を見上げた。


「あのさあ、君が社内でどれだけ出世頭か知らないけど、小売の現場を舐めないでもらえるかな? データの数字なんてどうでもいいんだよ。俺が言ってるのは『卸値を二十パーセント下げるか』、それとも『来月からグローバルマート全三百店舗の棚から東都ビバレッジの商品をすべて撤去するか』、その二択なの」


「しかし、二十パーセントの引き下げと三千万円の協力金は、公正取引委員会のガイドラインに照らし合わせても、優越的地位の濫用に該当する恐れが――」


「へえ、公取委に駆け込む? どうぞご自由に」


南條は心底おかしそうに、ククッ、と喉の奥で笑った。


「そんなことをしたら、その瞬間にうちは『商品の品質に不安がある』って理由で全品返品して契約を打ち切るけどね。証拠なんてどこにも残らないよ、口頭での要望なんだからさ。……もっとも、俺が指定する『コンサル会社』を通じた特別販促枠として、裏で色をつけてくれるって話なら、考え直してあげなくもないけど?」


露骨な個人リベートの要求だった。 二年前に排除したオリエントフーズの高瀬よりも遥かにたちが悪い。高瀬は会社に隠れてコソコソと裏金を受け取っていたが、この南條は、自分の持つバイヤーとしての絶対的な権限を盾に、最初からこちらの足元を見て堂々と恐喝してきているのだ。


「……来週の水曜日までに返事をくれないかな。色よい返事じゃなければ、木曜日の朝にはライバル社の商品を棚に並べる手配をするから。じゃあね、若きエリートさん」


南條はひらひらと手を振り、長い足を揺らしながら応接室を出て行った。


重苦しい沈黙が落ちた部屋の中で、美咲が悔しそうに声を震わせた。


「な、なんですかあの人……! あんなの、ただの脅迫じゃないですか! 自分のポケットにお金を入れるために取引を人質にするなんて、絶対に許せません!」


美咲が怒りを爆発させる中、部屋の隅で一部始終を黙って見ていた堂島剛が、ゆっくりと立ち上がった。 堂島は未来の背後まで歩いてくると、その分厚い手を未来の肩にポンと置いた。


「分かっただろう、黒崎くん。綺麗事やルールを盾にしても、力を握っている悪党には指一本触れられない。正義だけじゃ、会社は動かせないんだよ」


堂島の低く響く声が、未来の耳元から脳の芯へと直接流れ込んでくる。


「相手を説得するな。逃げ道を全部塞げ。奴が二度と君の前で小指の爪を立てられないように、息の根を止めるための『急所』を握るんだ。……君なら、そのやり方を知っているはずだろう?」


堂島は太い指で自分の顎をゆっくりと撫でながら、まるで未来の奥底に眠る『もう一つの顔』を見透かしているかのように、深く獰猛な笑みを浮かべた。


「……ええ。そうですね、堂島先生」


未来は一度も瞬きをせず、南條が出て行ったドアを見つめたまま静かに答えた。


しばらく封印していた、あの力。 だが、会社を守るため、そしてあの傲慢な男を完全に屈服させるためなら、迷う理由などどこにもなかった。 未来の胸の奥で、久しく忘れていた冷たくて甘美な闘争心が、再び音を立てて膨れ上がっていくのを感じていた。

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