第四話 二つの顔を持つ恋 ②
南條が応接室を去った後、美咲と沙耶を自席へと戻した未来は、そのまま堂島剛と二人で会議室に残っていた。
ブラインドを半分閉め切った室内で、堂島は革張りのチェアに深く身を沈め、太い指先で自分の顎をゆっくりと撫でていた。 その獰猛な肉食獣を思わせる瞳は、値踏みするように未来の立ち姿を捉えて離さない。
「さて、黒崎くん。まずは私のやり方を一つ教えておこう」
堂島はテーブルの上に置かれたグローバルマートの会社案内を、分厚い手のひらでバンと叩いた。
「多くの営業マンは、相手から無理難題を突きつけられた時、どうやってその条件を緩和してもらおうかと頭を悩ませる。だが、それは最初から敗者の思考だ。交渉のテーブルに着く前に、まず相手が頼りにしている『前提』と『退路』をすべて潰しておくんだよ」
「前提と、退路ですか」
「そうだ。南條は先ほど、『木曜日の朝にはライバル社の商品を棚に並べる手配をする』と言ったな。奴がそこまで強気に出られるのは、うちに断られてもすぐに代替品を納品できる競合メーカー――おそらくサクラ飲料あたりと、すでに裏で握っているからだ」
未来は静かに頷いた。
「ならば、まずやるべきは南條への説得ではない。サクラ飲料が来月、グローバルマート全三百店舗分の飲料を急遽供給するために確保しようとしている『物流倉庫』と『配送トラックの空き枠』を、資金力に物を言わせて東都ビバレッジ側で今日中にすべて買い占めることだ」
「……なるほど」
未来の瞳の奥が、わずかに光った。
「物流の枠をこちらで押さえてしまえば、仮に南條がサクラ飲料へ発注を切り替えたとしても、来月のキャンペーン期間中に全国の店舗へ商品を届けることは物理的に不可能になる。つまり、南條は『東都ビバレッジを切る』という最大のカードを、知らないうちに失うわけですね」
「飲み込みが早くて助かるよ」
堂島は満足げに喉を鳴らして笑った。
「それが表の兵糧攻めだ。……だが、それだけでは南條のような狡猾な蛇は完全には死なない。追い詰められた蛇は、逆恨みして別の形で毒を吐く。奴を完全に飼い慣らし、こちらの言う通りに首を縦に振らせるためには、奴個人の『絶対に表に出せない弱み』を握り、喉元に突きつける必要がある」
堂島は立ち上がり、高級スーツのポケットチーフを整えながら未来に近づいた。
「南條裕二という男は、三千万円もの裏金を性急に欲しがっていた。一介のバイヤーが、会社の目を盗んでそこまで無茶な要求をする理由は一つしかない。……首が回らないほどの『個人的な金の問題』を抱えているからだ。そして、そういう男は必ず、身近なところでもう一つか二つ、致命的なボロを出している」
「……逃げ道を、全部塞ぐわけですね」
「その通りだ。正しさなどというものは、勝ったあとでいくらでも後から書き換えられる。……来週の水曜日までに、奴の首輪を用意しておきたまえ。君が噂通りの男なら、造作もないことだろう?」
堂島は不敵な笑みを残し、重厚な足音とともに会議室を出て行った。
一人残された会議室で、未来は自分の手帳を開き、ポケットに挟んであったあの古いメモを見つめた。
『ミクになった回数を数えろ』
二年間、この警告を意識して力を抑えてきた。 だが、堂島の言葉は、未来の奥底で眠っていた冷酷な闘争本能を、心地よく、そして決定的に揺さぶっていた。
ただ会社を守るだけではない。 あの南條という傲慢な男が、すべての退路を断たれ、自分の前で青ざめてひざまずく瞬間を想像すると、背筋がゾクゾクするような歪んだ高揚感が込み上げてくるのだ。
(……やるか。三年目に入る前の、久しぶりの仕事だ)
*
翌日の金曜日、午後七時過ぎ。
郊外にあるグローバルマート本社ビルの向かい側、植込みの陰に停められた車の中から、一人の女性がビルの通用口を見つめていた。
二年ぶりにこの世に現れた『ミク』だった。 艶のある黒髪のロングヘアに、ボディラインを美しく際立たせるブラックのタイトなワンピースと、ワインレッドのジャケット。 不思議なことに、二年というブランクがあったにもかかわらず、変身した瞬間の身体の馴染み具合も、頭の中が氷のように冷たく澄み渡る感覚も、まるで昨日までずっとこの姿でいたかのように自然だった。
ミクは車を降り、ヒールの音を響かせながら本社の近くにあるカフェバーへと足を向けた。 事前の下調べで、グローバルマート食品統括部の女性アシスタントたちが、金曜日の夜によくこの店で食事をしていることは把握していた。
店内に入り、目当ての社員証を首から下げたままの二人組の女性社員の隣席へと自然に滑り込む。 甘いカシスのカクテルを注文し、グラスを傾けながら、ミクはゆっくりと右耳に長い黒髪をかけた。
わずか十分後には、ミクは「小売業界の職場環境を取材しているフリーランスのライター」という肩書きで、二人の女性アシスタントとすっかり打ち解けていた。
「――じゃあ、お二人の部署のチーフバイヤーというと、南條さんかしら? 業界ではとてもやり手だとお聞きしているけれど」
ミクが柔らかな微笑みを浮かべて水を向けると、二人の女性社員は顔を見合わせ、露骨に嫌悪感の混じったため息をついた。
「やり手っていうか、ただの強欲ですよ、あの人……。自分の担当メーカーにばっかり無理な値引きを押し付けて、裏で絶対何かやってるって専らの噂です」
「そうそう! しかもここ数ヶ月、南條チーフ、異常にお金に汚くなってるんです。昼休みもずっとスマホで海外のカジノサイトとか競馬の画面ばっかり見てて、負けると小指の爪で歯をいじりながら舌打ちして、私たちに八つ当たりしてくるんですよ!」
「ふふっ、本当にそうでしょうか?」
ミクはわざとらしく小首を傾げ、涼しげな瞳を細めた。
「ただのギャンブル好きなら、そこまで焦ったりはしないはずよ。きっと、どうしても今すぐまとまったお金を作らなければならない理由があるのね。……あなたなら、どうします? もし会社にバレたらクビになるような借金を抱えていて、それを誰かに相談するとしたら」
「あ……!」
アシスタントの一人が、声を潜めて身を乗り出した。
「借金といえば、先月、南條チーフの個人宛てに、消費者金融や怪しい債権回収会社みたいなところから督促のハガキが会社に届いてたのを、総務の子が見ちゃったらしいんです! しかも……相談相手なら、一人だけ心当たりがあります」
「どなたかしら?」
「同じフロアの、広報部の佐伯課長です。南條チーフ、既婚者のくせに、同じく既婚者の佐伯課長とずっとW不倫してるんですよ。先週も給湯室の奥で、『今月中に三千万円用意しないと、俺だけじゃなくお前との関係も全部バラされるぞ』って佐伯課長に泣きついてるの、私、聞いちゃったんです!」
――ギャンブルによる巨額の借金と、社内でのW不倫。 しかも、その借金のカタに不倫関係そのものを闇金まがいの業者に握られ、その穴埋めのために東都ビバレッジから三千万円を恐喝しようとしていた。
ミクの唇の端に、冷たくて妖艶な笑みが浮かんだ。
「素敵なお話をありがとう。……ちなみに、南條チーフと佐伯課長が、金曜日の夜にどこで密会しているか、ご存知かしら?」
女性社員たちの口から出た都内のシティホテルの名前を記憶に刻み込むと、ミクは優雅に立ち上がった。
*
その夜、午後十一時。
ミクは教えてもらったシティホテルの地下駐車場の出口付近で、車の中から静かにカメラを構えていた。
やがて、エレベーターホールから周囲を警戒しながら現れた南條裕二と、その腕に寄り添う広報部の佐伯課長の姿がファインダーに収まる。 二人が車に乗り込むまでの決定的なツーショットを何枚も連続で撮影し、さらにミクは、昨日のうちに自分の身体に染み付いていたあの「ハッキングの知識」を使って、南條が利用している違法オンラインカジノのアカウント履歴と、債権回収業者からの督促メールのデータを、彼のスマートフォンのクラウドバックアップからやすやすと抜き取っていた。
二年前に田中課長のパソコンを調べた時よりも、自分の指先はさらに迷いなく、冷徹に犯罪すれすれの情報収集をこなしていた。 それどころか、人の秘密を暴き、相手の人生の生殺与奪の権を自分の手の中に収めていくこの感覚が、たまらなく心地よかった。
マンションへ戻り、男の姿へと戻る。 洗面所の鏡に映る黒崎未来の顔は、不気味なほど穏やかで、そして冷たかった。
だが、リビングへ戻ってスマートフォンをテーブルに置いた時、画面に表示されていた『お母さん』という不在着信の履歴が目に入った。 地方の実家にいる母親から、数日前にかかってきていた着信だ。
未来はその画面を見つめた。 数年間帰省しておらず、疎遠になっている両親。 ふと、自分の実家がどんな家の形をしていたか、母親がどんな声で自分の名前を呼んでいたかを思い出そうとした。
(……あれ?)
浮かんでこない。 実家の住所はデータとして頭にある。だが、幼い頃に家族で食卓を囲んだ記憶も、母親の笑顔も、まるで古い写真のインクが太陽光で白く飛んでしまったかのように、何の実感も伴わない空白へと変わっていたのだ。
「……まあ、いいか。今は仕事が忙しいしな」
未来は不在着信の通知をスワイプして消し去り、冷蔵庫からブラックコーヒーを取り出した。 自分の心から、また一つ大切な「人間の温もり」が削り取られたことに気づきもせず、未来は来週の交渉で南條をどう料理するかだけを考えていた。




