第四話 二つの顔を持つ恋 ③
翌週の水曜日、午後二時。 東都ビバレッジ本社の特別応接室には、先週と同じ顔ぶれが揃っていた。
テーブルの向かい側では、グローバルマートのチーフバイヤー・南條裕二が、今日も派手な柄のネクタイを締め、長い足を組んでソファにふんぞり返っている。 しかし、その表情には先週のような余裕はなく、どこか苛立ったように右手の小指の爪で前歯の隙間をカリ、カリ、とせわしなくいじっていた。
東都ビバレッジ側からは、未来と星野美咲、相沢沙耶、そして部屋の奥のソファにはアドバイザーとして堂島剛がどっしりと腰を下ろしている。
「――さて、黒崎室長。約束の水曜日だけど、もちろん俺の出した条件――卸値の二十パーセント引き下げと、俺の指定するコンサル会社への三千万円の拠出、全部飲む方向で稟議を通してくれたんだろうね?」
南條が威圧するように身を乗り出した。 美咲が緊張で息を呑み、沙耶が細いフレームの眼鏡の奥で鋭く南條を見つめる。
だが、正面に座る黒崎未来は、一度も瞬きをすることなく、氷のように静かな瞳で南條を見つめ返した。
「結論から申し上げます、南條様。御社からのご要望は、すべてお断りいたします。来期の契約は、従来の卸値のまま据え置き、さらに当社の新商品ラインナップのために現在の1.5倍の特設棚を確保していただきます」
未来の言葉に、応接室の空気がピシリと張り詰めた。 美咲が「えっ……!?」と目を丸くして未来の横顔を見る。
「……はあ? お前、頭おかしくなったのか?」
南條が小指の爪を口元から離し、呆れ果てたように鼻で笑った。
「先週言ったよな? 俺の条件を飲まないなら、明日の朝にはライバル社の『サクラ飲料』の商品を全三百店舗の棚に並べるって。いいんだな? 東都ビバレッジの売上の二割が、今日この瞬間に吹き飛ぶんだぞ!」
「どうぞ、サクラ飲料様に発注を切り替えていただいて構いませんよ」
未来は声のトーンを1ミリも変えずに答えた。
「ただし、来月のキャンペーン期間中、サクラ飲料様が御社の全国三百店舗へ商品を配送することは物理的に不可能です」
「……なに?」
「昨日のうちに、サクラ飲料様が緊急増産分を保管する予定だった首都圏および関西圏の大型冷蔵倉庫の空き枠、ならびに提携運送会社のチャーター便のトラック枠を、今後三ヶ月分、すべて当社が買い占めました」
未来がテーブルの上に、倉庫会社と運送会社との契約完了通知書のコピーをスッと滑らせた。
「なっ……!? ば、バカな……! 俺が今日、サクラ飲料の担当から『急にトラックが手配できなくなった』って連絡を受けたのは、お前らの仕業だったのか!?」
南條の顔色が変わった。 先ほど入室した時から彼が苛立っていた理由は、まさにそれだったのだ。堂島の教え通り、未来は交渉のテーブルに着く前に、南條が頼りにしている最大の退路を完全に焼き払っていた。
「もし今から当社との契約を打ち切れば、来月のグローバルマート様の飲料コーナーは全国の店舗で欠品だらけになり、棚が空っぽになります。その責任を、チーフバイヤーである南條様はどう取られるおつもりですか?」
「ぐっ……! ふ、ふざけるなよ若造が……! サクラがダメなら、他のメーカーに声をかけるまでだ! 多少の欠品が出ようが、お前らの会社を切る理由なんていくらでも作れるんだぞ!」
南條が顔を真っ赤にして立ち上がり、テーブルをバンと叩いた。
追い詰められた蛇が、最後の毒を吐こうと牙を剥く。
未来は静かに立ち上がると、手元の黒いクリアファイルから数枚の写真と印字されたデータを取り出し、南條の目の前にだけ見える角度で広げた。 美咲や沙耶の席からは、その中身までは見えないように計算されている。
「……では、こちらも合わせてご検討いただけますか」
ファイルの中身に目を落とした瞬間、南條の呼吸が、ヒュッ、と止まった。
そこには、先週の金曜日の深夜、都内のシティホテルの地下駐車場で密会していた南條と、グローバルマート広報部の佐伯課長の鮮明なツーショット写真。 さらに、南條が海外の違法オンラインカジノで作った三千万円近い借金の履歴と、債権回収業者から彼の元へ届いている最終督促状のコピーが並んでいた。
「あ……あ、あ……っ!?」
南條の顔から、文字通りすべての血の気が引いていった。
長身の身体がカタカタと小刻みに震え、額から脂汗が噴き出してくる。
「な、なんで……なんでお前が、これを持って……!?」
「社内の既婚者同士によるW不倫、および違法賭博による巨額の借金。そして、その借金の返済期限が今週末に迫っており、穴埋めのために取引先である当社へ三千万円の架空コンサル料を要求したという一連の経緯――」
未来は南條の耳元へわずかに顔を近づけ、美咲たちには聞こえないほど低く、それでいて氷の刃のように冷たい声で囁いた。
「これらの資料が、今日の夕方、御社のコンプライアンス室と人事部長、そして……あなたのご自宅の奥様の元へ同時に届いたら、どうなるでしょうか?」
「ひっ……!!」
南條は喉の奥を引きつらせ、崩れ落ちるようにソファへと尻餅をついた。 会社での地位も、家庭も、社会的信用も、すべてが一瞬で吹き飛ぶ決定的な『急所』。
「た、頼む……! それだけは、それだけは勘弁してくれ……っ! 会社にバレたら懲戒解雇だ、嫁の実家からも訴えられて、俺の人生が終わる……!」
さっきまで「若きエリートさん」と未来を見下して笑っていた男が、今は涙目で未来のオーダースーツの袖にすがりつかんばかりに震えている。
「僕も、南條様の人生を終わらせたいわけではありません。会社のため、お互いにとって最善の取引をしたいだけです」
未来はファイルの中身をスッと回収すると、南條の前に『新規契約更新書』と一本の万年筆を置いた。
「従来の卸値の維持と、新商品の特設棚の1.5倍拡大。この場でサインしていただければ、今お見せしたデータはすべて私の手元で厳重に封印いたします。……さらに、来期のキャンペーンが成功した暁には、正規の販売奨励金として、御社の食品統括部の予算へ十分な還元を行わせていただきます。それであなたの社内での顔も立つはずです」
「う、うう……っ、わ、分かった……! サインする、今すぐサインするから……!」
南條は震える右手で万年筆を握りしめ、契約書の内容を確認することすらなく、署名欄に自分の名前を書き殴り、持参していた決済印を押し付けた。
そして、逃げるようにして鞄を抱え、一度も未来と目を合わせることなく応接室から飛び出していったのだった。
*
扉が閉まると、応接室には呆然とした沈黙が残された。
「……す、すごすぎます、黒崎室長……!」
最初に声を上げたのは美咲だった。 ファイルの中身までは見えなかった美咲は、未来が事前の物流網の買い占めと、何らかの「不正の証拠」を突きつけて、あの悪辣なバイヤーを無血開城させたのだと信じ込み、感激で頬を紅潮させていた。
「あんなに威張り散らしていた南條さんが、一言も言い返せずに契約書にハンコを押していくなんて……! 会社の売上も守られて、新商品の棚まで増えるなんて、完璧な大逆転じゃないですか!」
無邪気に喜ぶ美咲の隣で、沙耶だけは複雑な表情で中指を眼鏡のブリッジに当てていた。 南條が見せたあの異常なまでの怯え方。あれは単なる取引上の不正を指摘された人間の反応ではなく、個人の人生そのものを人質に取られた人間の顔だったと、沙耶の鋭い観察眼は感じ取っていたのだ。
「美咲ちゃん、沙耶。この契約書をすぐに法務と経理へ回して、来月の配送手配を進めてくれ」
「はいっ! すぐに行ってきます!」
美咲と沙耶が応接室を出ていくと、室内には未来と堂島剛の二人だけが残された。
未来は手の中に残った、南條のサイン入りの契約書を見つめた。 田中、高瀬、大崎。これまで倒してきた相手は、少なくとも社内の横領や取引先への背任など、公の場で告発して排除するための「正義の大義名分」があった。
しかし今回、未来がやったことは違う。 相手のプライベートな弱み――借金と不倫の証拠を『ミク』として非合法に盗み出し、それを公表すると脅迫して、自分の望む契約書に無理やりサインさせたのだ。
完全に一線を越えていた。 それなのに。
「……こんなに簡単なのか」
未来の口から、ぽつりとそんな呟きが漏れた。 罪悪感など、微塵も湧いてこなかった。 むしろ、自分の指先ひとつで強大な相手が恐怖に顔を歪め、思い通りに屈服していくその全能感が、これまでのどの勝利よりも甘美で、胸の奥がゾクゾクするほど気持ちよくなっていることに、未来自身が一番驚いていた。
「ハッハッハ! 見事だったよ、黒崎くん!」
ソファから立ち上がった堂島が、満足げに顎を撫でながら歩み寄り、未来の肩を強く叩いた。
「その顔だ。今の君のその目こそが、上に立つ人間の目だよ」
「堂島先生……。僕は、少しやりすぎたのでしょうか」
未来が一度も瞬きをせずに尋ねると、堂島は心底愉快そうに喉を鳴らして笑った。
「やりすぎ? 何を言っているんだね。もし君が綺麗事にこだわって負けていたら、東都ビバレッジは売上の二割を失い、現場の社員たちのボーナスは削られ、何人もの人間が路頭に迷っていたんだぞ。君は会社を救ったんだ」
堂島はポケットチーフを指先で整え、重く響く声で言った。
「いいか、黒崎くん。ビジネスの世界ではな、手段の善悪など敗者の言い訳にすぎない。――勝った者が正義だ」
『勝った者が正義だ』
その言葉は、まるで最初から未来の頭の中に用意されていた 빈枠にピタリと嵌まるパズルのピースのように、深く、そして決定的に未来の思考の核へと沈み込んでいった。
そうだ。勝てばいいのだ。 どんな手段を使おうと、自分が勝ち続け、もっと高い場所へ登り詰めれば、それがすべて『会社のため』であり『正義』になる。
未来の口元に、堂島とよく似た、冷たくて静かな笑みが浮かんでいた。




