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第四話 二つの顔を持つ恋 ④

グローバルマートとの大型契約更新を無傷で、しかも東都ビバレッジ側に圧倒的に有利な条件でまとめ上げたというニュースは、たちまち社内を駆け巡った。


誰もがあの狡猾なバイヤー・南條裕二の要求に屈するしかないと思っていた中での大逆転劇である。営業本部内での黒崎未来の発言力は絶対的なものとなり、役員たちからも「次期営業本部長の最有力候補」として熱い視線が注がれるようになっていた。


しかし、全員が未来の手腕を手放しで称賛していたわけではない。


「――黒崎室長。グローバルマートとの新規契約書、法務部の方で確認させていただきました」


木曜日の午後。戦略推進室の個室を訪れた法務部コンプライアンス担当課長の榊原誠は、チャコールグレーのオーダースーツのボタンを留めたまま、銀縁眼鏡の奥の冷徹な瞳で未来を見つめた。


「ありがとうございます、榊原課長。法的な不備はなかったかと存じますが」


「ええ。契約書そのものは、驚くほど完璧です。先方が一方的に我が社へ譲歩している点を除けば、ね」


榊原は手元のカフスボタンの位置を指先で神経質に直しながら、一歩デスクへと近づいた。


「昨日の午前中まで、南條氏は二十パーセントの引き下げと三千万円の協力金を強硬に要求していた。それがわずか三十分の面談で、すべてを撤回して1.5倍の棚を差し出す契約書にサインした。……一体、あの応接室で何を突きつけたのですか、黒崎くん」


「先方が頼りにしていた競合他社の物流枠を事前に押さえ、交渉の優位性を示しただけです。ビジネスにおける正当な駆け引きですよ」


未来は一度も瞬きをすることなく、静かな声で答えた。 だが、榊原はその説明を信じようとはせず、数秒間だけ深く目を閉じた。


「……物流枠の買い占めは、堂島氏の差し金でしょう。あの方のやり方はよく知っています。しかし、それだけであの南條氏が、まるで命乞いをするかのように震えながら帰っていくはずがない」


榊原がゆっくりと目を開ける。


「正しいことをするのと、正しいやり方をするのは別です、黒崎くん。二年前にも申し上げましたが、正しさを疑わなくなった時が一番危ない。今のあなたは、会社のためという大義名分のもとで、越えてはならない境界線をすでに踏み越えているのではありませんか?」


「ご忠告は感謝します、榊原課長。ですが、結果として会社の売上と社員の雇用は守られました。勝った者が正義だ――少なくとも今のビジネスの現場では、それが現実ではないでしょうか」


堂島から受け取った言葉を、未来はまるで自分自身の信念であるかのように淡々と口にした。 榊原は何も言わず、ただひどく痛ましいものを見るような目で未来を一瞥すると、無言で個室を出て行った。


入れ替わるようにして資料を持ってきた相沢沙耶が、ドアの前で榊原とすれ違い、細いフレームの眼鏡のブリッジを中指で押し上げながら入ってきた。


「……今のあなたの言葉、本気で言ってるの?」


沙耶はデスクの上に書類を置くと、ペン先でバインダーを軽く叩きながら未来を見下ろした。


「『勝った者が正義だ』なんて……昔の黒崎くんは、そんなこと言わなかったわ。どんなに苦しくても、誰かの弱みにつけ込んで脅すような真似だけは絶対にしない人だったはずよ」


「脅してなんかいないさ、沙耶。俺はただ、室長としての責任を果たしただけだ」


未来が手元のブラックコーヒーに口をつけると、沙耶はそれ以上何も言わず、深いため息をついて部屋を出て行った。


一人になった個室で、未来は窓の外を見つめた。 榊原や沙耶の言葉が、まったく耳に届かないわけではない。だが、不思議と胸は痛まなかった。 二年ぶりに『ミク』になり、地方の母親の笑顔の記憶と引き換えに手に入れたこの圧倒的な勝利の味は、周囲からのどんな苦言よりも甘く、確実な手応えとして未来を満たしていたのだ。


*


その週末の土曜日。

未来は都内の閑静な住宅街にある低層マンションを訪れていた。


白石凛の部屋だった。 インターホンを鳴らすと、アイボリーの柔らかなニットにリネン素材のロングスカートを着た凛が、陽だまりのような微笑みを浮かべてドアを開けてくれた。


「いらっしゃい、未来くん。今週は大きな商談があったって聞いてたけど、お疲れ様」


「ああ、おかげさまで無事に終わったよ」


部屋に入ると、甘いカモミールティーの香りとともに、足元に一匹の猫がすり寄ってきた。 凛が飼っているオスのベンガル猫だ。豹柄の美しい毛並みを持つその猫は、未来の足元に頭を擦り付け、ゴロゴロと喉を鳴らしている。


未来はしゃがみ込んで猫の頭を撫でた。 この二年間、月に数回こうして凛の部屋を訪れ、彼女が淹れてくれるハーブティーを飲みながら過ごす時間は、未来にとって唯一、会社の数字や権力争いを忘れられる穏やかなひとときだった。


……はずだった。 けれど今日、猫の温かく柔らかな毛並みに触れていても、未来の指先はまるで高級な毛織物のサンプルを触っているかのように冷たく、心の奥が微塵も温まらないことに気づいていた。


凛の顔を見てもそうだ。 三十一歳になり、落ち着いた大人の美しさを増した栗色のボブカットの彼女を見つめても、「綺麗だ」という客観的な認識はあるのに、胸が高鳴るような愛情や愛おしさが、以前よりもずっと薄くなっている。


「ちょっと待っててね、今お茶を淹れるから。あ、先週言ってたパッケージデザインの参考資料、本棚の二段目にあるから見ててくれる?」


「ああ、分かった」


凛がキッチンへと向かうのを見送り、未来はリビングの奥にある木製の本棚へと歩み寄った。

デザイン関係の専門書や画集が並ぶ二段目から、東都ビバレッジ関連のファイルを引き抜く。


その時だった。

ファイルのすぐ隣に差し込まれていた、分厚い布張りの古いアルバムが、バランスを崩して床へと滑り落ちた。


バサッ、と音を立ててアルバムのページが開き、間に挟まっていた一枚の写真がフローリングの上に飛び出した。


「あ、すまない、アルバムを落としちゃって――」


謝りながらしゃがみ込み、その写真を拾い上げた未来の言葉が、喉の奥でピタリと凍りついた。


未来の目が、大きく見開かれる。


手の中の写真は、少し色褪せたL判のプリント写真だった。 背景に写っているのは、どこかの大学のキャンパスの時計台と、色づいたイチョウ並木。写真の隅には、今から九年前――未来たちが大学三年生だった頃の日付がオレンジ色のデジタル数字で印字されている。


そこに写っていたのは、二人組の若い女性だった。 一人は、今よりも少し幼さの残る、栗色の髪の白石凛。 そして、その凛の隣に立ち、親しげに肩を並べてカメラに向かって涼しげな微笑みを浮かべている、もう一人の女性――。


艶のある長い黒髪。 整った知的な目元と、わずかに小首を傾げた上品な立ち姿。


それは、紛れもなく『ミク』だった。 未来が会社のピンチを乗り切るために変身しているはずの、あの『ミク』と寸分違わぬ姿をした女性が、九年前の大学のキャンパスで、凛の隣に立って写っていたのだ。


(……な、んだこれ……!?)


未来の呼吸が止まり、全身から血の気が引いていく。 手の中の写真を、穴が空くほど凝視する。


合成写真などではない。光の当たり方も、落ちている影も、古い印画紙の質感も、すべてが本物の九年前の写真であることを示していた。


キッチンから、ティーポットを手にした凛が戻ってきた。


「どうしたの、未来くん? なにか落とし――」


凛の足が、リビングの入り口で止まった。 未来の手に握られた一枚の写真を見た瞬間、凛の顔からサッと笑顔が消え、その澄んだ瞳が大きく揺れた。


未来はゆっくりと振り返り、一度も瞬きをしないまま、震える声で凛に問いかけた。


「……凛。この写真に写ってる黒髪の女性は、誰だ?」


凛の左手の親指の爪を、右手の指先が強くこすり始める。


「……そして、もう一つ聞く。……これ、俺なのか?」


静まり返った部屋の中で、未来の問いかけだけが重く響いた。 しかし、凛は何も答えなかった。 ただ、今にも泣き出してしまいそうなほど深い悲しみを湛えた瞳で未来を見つめると、震える手を伸ばして未来の手からそっと写真を取り上げ、アルバムの中へと伏せるようにして閉じたのだった。

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