第四話 二つの顔を持つ恋 ⑤
パタン、と分厚い布張りのアルバムが閉じられる音が、静まり返ったリビングに小さく響いた。
白石凛はアルバムを胸に抱きしめるようにして持ち、そのまま本棚の奥へと押し込んだ。 彼女の華奢な背中は、小刻みに震えているように見えた。
「……凛。答えてくれ」
未来は一歩前に出て、凛の肩に手を伸ばしかけた。
だが、その手は空中で止まった。
「今の写真……九年前の大学のキャンパスで、君の隣に写っていたあの黒髪の女性は、一体誰なんだ? どうして、俺が変身している『ミク』とまったく同じ顔をしているんだ?」
自分の声なのに、どこか遠い場所から響いてくるような感覚があった。 心臓は早鐘を打っているはずなのに、頭の中だけは氷のように冷たく、目の前の状況を一つの「不可解な事象」として分析しようとしている。
もし、あの写真の女性が学生時代の自分――つまり、九年前からすでに自分がミクに変身する力を持っていたのだとすれば、『ミクになった回数を数えろ』というあのメモの辻褄は合う。自分は二年前よりもずっと前から何度も変身を繰り返し、そのたびに記憶を失っていたということになるからだ。
しかし、もしそうでないとしたら? もし、学生時代に『ミク』という名の実在する女性が別に存在していて、自分の異能が、何らかの理由で「かつて実在した彼女の姿」を模倣しているだけだとしたら?
(……ミクは、本当に俺なのか?)
これまで一度も疑ったことのなかった前提が、足元からガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。 ミクになるとき、自分の好みではないはずの甘いカクテルを自然と求めていたこと。 最初から手慣れていた、女性の仕草や人心の掌握術。 そして、自分の車やクローゼットの奥に残されていた、あのワインレッドのリップと衣服。
あれらはすべて、過去の自分が用意したものではなく――写真に写っていた『あの女性』のものだったのではないか?
「……ごめんなさい」
本棚の前に立ったまま、凛が消え入りそうな声で呟いた。 ゆっくりと振り返った彼女の顔には、無理に作った穏やかな微笑みが浮かんでいたが、その澄んだ瞳の奥は今にも決壊しそうなほどの深い悲しみで揺れていた。
「お茶、冷めちゃうわね。座って、未来くん」
凛は未来の質問には一切答えず、テーブルの上のティーポットから、白いカップへとカモミールティーを注いだ。 湯気とともに立ち上る、甘く優しいハーブの香り。
凛は向かいの椅子に腰を下ろすと、未来の目を真っ直ぐに見ようとはせず、自分の手元にあるマグカップの縁を細い指先で静かになぞり始めた。 彼女が切ない嘘をつく時や、どうしても言えない秘密を飲み込む時に見せる、悲しい癖だった。
「ねえ、未来くん。……あなたは、どう思う?」
カップの縁をなぞる指先を見つめたまま、凛が静かに問いかける。
「もし、知ってしまったらもう二度と元には戻れないような過去があるとしたら……。それでも、無理やり思い出した方がいいと思う? それとも、今のまま前だけを見て生きていく方がいいと思う?」
「それは……どういう意味だ? 君は、俺の過去を知っているのか? 俺が忘れてしまった学生時代に、一体何があったんだ?」
未来が身を乗り出して問い詰めると、凛は左手の親指の爪を右手の指でカリカリと軽くこすり、困ったように、けれどひどく愛おしそうに微笑んだ。
「さあ、どうかしらね。ただの古い友人の写真かもしれないし、あなたの見間違いかもしれないわ」
「見間違いのはずがないだろう! あれは間違いなくミクの顔だった!」
「……ミク、さん」
凛は、その名前を口にした瞬間、ほんのわずかだけ眉をひそめ、胸の奥の痛みに耐えるように目を閉じた。
「あなた、その名前を呼ぶ時だけ、少しだけ目が冷たくなるのね」
「え……?」
「ううん、なんでもないの。ごめんなさい、未来くん。私、今日は少し頭が痛くて……デザインの締め切りも残ってるから、また今度でもいいかしら?」
完全な拒絶ではなかったが、これ以上は何を聞いても決して口を割らないという、彼女の強い意志がそこにはあった。 足元では、猫が不思議そうに二人を見上げ、小さくミャアと鳴いている。
普段のビジネス交渉の場であれば、今の未来なら相手の逃げ道を塞ぎ、言葉巧みに誘導して無理やりにでも真実を吐かせていたはずだ。 だが、目の前で傷ついたように微笑む凛を前にすると、なぜだかそれ以上冷酷な言葉をぶつけることができず、未来は無言で唇を噛み締めるしかなかった。
*
凛のマンションを出た時には、外の空はすっかり夜の闇に包まれていた。
冷たい夜風の中を、未来は自分の車を停めてあるコインパーキングへと向かって歩いていた。 頭の中では、さっき見たあの九年前の写真の残像が、何度もフラッシュバックしている。
凛の隣で笑っていた、ミクと同じ顔をした女性。 なぜ凛は、あの写真について説明しようとしなかったのか。 そして、自分が「ミク」という名前を口にした時、なぜあんなにも悲しそうな顔をしたのか。
パーキングの精算機の前に立ち、ポケットから財布を取り出そうとした、その時だった。
背後の暗い路地の奥から、ジャリ、と砂利を踏む硬い靴音が聞こえた。
未来が振り返ると、駐車場のフェンスの向こう側、街灯の光がぎりぎり届かない暗い影の中に、一人の男が立っていた。
身長百八十センチ近い、筋肉質でがっしりとした体躯。 黒っぽいミリタリー調のコートを羽織り、ポケットに両手を突っ込んで、こちらをじっと見据えている。
二年前の夜、自宅のベランダから見下ろしたあの黒いコートの男なのか。 それとも、あの紅茶専門店の前で凛と一緒にいた青年――結城創なのか。 逆光と深い影に阻まれて、その顔立ちまでははっきりと判別できない。
「……誰だ。結城なのか?」
未来は足を止め、瞬き一つしない冷たい目でフェンスの向こうの男に声をかけた。
男は答えなかった。 ただ、暗がりの中で「チッ」と短く舌打ちをするような音が聞こえ、男が乱暴に前髪をかき上げるシルエットが揺れた気がした。
「俺に用があるなら、そこに出てきてはっきり言ったらどうだ。二年前の夜、俺の部屋に『その力を、何のために使う?』なんて紙を置いたのも、あんたなんだろう?」
未来が一歩フェンスへと近づいた瞬間、男は背を向け、無言のまま路地の奥へと歩き出した。
「待て!」
未来が駐車場から飛び出して路地へと回り込んだ時には、すでに男の姿は夜の雑踏の向こうへと消え去り、どこにも見当たらなかった。
ただ、男が立っていたフェンスの足元に、吸い殻一つ落ちていない冷たいアスファルトが広がっているだけだった。
*
車に乗り込み、運転席のドアを閉める。 エンジンをかける気にもなれず、未来はハンドルに両手を乗せたまま、フロントガラスの向こうの暗闇を見つめた。
ふと、ルームミラーに視線を上げる。 狭い車内の薄闇の中で、ミラーに映る自分の目が、獲物を探す肉食獣のように冷たく光っていた。
九年前の『ミク』の写真。 何も語らない凛。 そして、影のように自分の周囲をうろつき続ける謎の男。
以前なら、自分の正体や過去の記憶に対する不気味さに、足がすくむような恐怖を感じていたはずだ。 しかし、グローバルマートの南條を完膚なきまでに叩き潰し、自分の指先ひとつで他人の人生を支配する快感を知ってしまった今の未来の心には、恐怖とは別の感情が渦巻いていた。
『勝った者が正義だ』
堂島剛の低く響く声が、再び脳裏に蘇る。
そうだ。過去に何があったかなど、今の自分には関係ない。 『ミク』が自分自身の異能だろうと、過去に実在した誰かの亡霊だろうと、この力が自分に絶対的な勝利をもたらしてくれる最強の武器であることに変わりはないのだ。
来月には、東都ビバレッジの営業本部長の椅子が視野に入ってくる。 自分の出世を阻む者、自分の前に立ちはだかる者は、社内の人間だろうと取引先だろうと、この二つの顔を使ってすべて排除すればいい。
「……俺の人生は、俺自身が決める。誰にも邪魔はさせない」
未来はエンジンをかけ、アクセルを強く踏み込んだ。 夜の国道へと滑り出していく車のバックミラーの中で、街灯の光が幾重にも割れ、まるで二つの影が重なり合って闇の中へと溶けていくように見えた。
(第四話 完)




