Episode 003 — 敵だけが知っている勇者
相手が俺を知らないなら、勇者を演じるのは難しくない。
相手が勇者を知っているなら、話は別だ。
セレク・アーデンは、後者だった。
それも、つい先日まで敵だった側の人間として。
「顔を見た瞬間に分かるような癖ってあります?」
王宮裏の出発集積場へ向かう途中、俺はイレーネに聞いた。
「ない」
返事が早い。
「本当に?」
「少なくとも、今から一つ覚えて安心できるようなものはない」
「それは残念です」
「覚えないほうがいい」
イレーネは歩調を変えなかった。
「中途半端に私的な情報を仕込むと、そこだけ演じる。知っている人間には、そのほうが不自然よ」
痛いところだった。
役者は材料を渡されると使いたくなる。
使わない勇気は、だいたい本番のあとで身につく。
「じゃあ、何も知らないまま行きます」
「それが事実でしょう」
「……そうですね」
集積場の門が開く。
そこで、会話を続ける余裕はなくなった。
荷馬車。
担架。
箱。
人。
人。
また人。
王宮の裏側というのは、表よりずっと忙しいらしい。
戦勝を祝う広場では旗が揺れていたが、こちらで揺れているのは行き先札と包帯だった。
明朝にはハルフェンへ向けて、最初の交換移送が出る。
その準備だと聞いている。
柵の内側に、旧魔王軍側の負傷者が並んでいた。
歩ける者は長椅子に。
歩けない者は担架に。
連合兵が周囲を固めている。
俺が入ってきても、歓声は上がらなかった。
当然だ。
昨日の広場とは客が違う。
むしろ、何人かは露骨に顔を背けた。
それも分かりやすくて助かる。
「勇者殿」
低い声がした。
セレク・アーデンは、俺が想像していたより普通の男だった。
四十を少し越えたくらい。
濃い色の外套。
飾りの少ない服。
護衛は二人だけ。
もっとこう、敵側の上級使節らしい分かりやすい威圧感があるものだと思っていた。
実際には、目だけが忙しかった。
俺の顔を見る。
一度。
それだけ。
次に見たのは、担架の足元だった。
その次は、負傷者の手首。
その次は、連合兵が水桶をどこへ置いたか。
俺の顔を見に来た人間の視線ではない。
「セレク・アーデン殿」
俺はユリウスの立ち方で止まった。
「早い到着だったな」
「確認したいものがありましたので」
「俺を?」
セレクの視線が、また担架へ戻った。
「それも含めて」
含める程度らしい。
少しだけ、肩の力が抜けた。
たぶん抜いてはいけない場面だった。
* * *
問題は、机の上ではなく荷馬車の前で起きた。
「この順番では出せません」
医官が言った。
移送担当の兵が眉を寄せる。
「昨日の確認では通った」
「昨日より熱が上がっています」
医官が担架の一つを指した。
寝かされている男は目を閉じていた。
呼吸が浅い。
顔色の悪さは、化粧では作れない種類だった。
「昼まで待たせるのは?」
「勧めません」
「だが先発の護送枠は一つだ。寝台組を先に回せば、歩行組の出発が半日ずれる」
「そうなります」
移送担当の兵が俺を見た。
見ないでほしかった。
俺は昨日まで役者で、今日も中身はだいたい役者だ。
輸送計画に関して突然詳しくなった覚えはない。
だが、勇者の顔をしていると、困った人はよくこちらを見る。
「元の予定は?」
俺が聞く。
「歩行可能者を先発。人数を動かして交換準備を前へ進めます。寝台組は午後、第二の医療班が戻ってから」
「午後の医療班は確実に戻る?」
「予定では」
予定。
昨日から、その言葉には少し警戒するようになった。
「遅れる可能性は?」
兵が答える前に、イレーネが言った。
「ある。外門の受け入れ次第」
短い。
助かる。
俺は医官を見る。
「寝台の全員が、先に出たほうがいい?」
「いいえ」
医官は少し考えてから、四つの担架を順に示した。
「この人は待てます。この人も。こちらはできれば午前中。最後の一人は、今出せるなら今です」
四人まとめて“重傷者”と書けば一行で済む。
実際に寝ているのは、別々の四人だった。
「なら、その二人を先発に入れる」
俺は言った。
「残りの席は歩ける人で埋める。あとの二人は午後」
移送担当の兵が少し渋い顔をした。
「担架を積めば、先発人数は減ります。護衛配置も一度やり直しです」
「今日中には?」
「出せます」
「なら、それで」
言ったあとで、横から視線を感じた。
セレクだった。
ようやく、俺をちゃんと見ている。
遅い。
できれば最後まで荷馬車だけ見ていてほしかった。
「勇者殿」
「何だ」
「私は、どちらの組を先にするのかと聞くつもりでした」
「俺も、最初は二択だと思ってました」
「組ではなく、人を分けた」
「医官が分けました」
「あなたが聞いた」
そこは否定できない。
俺は黙った。
セレクは少しだけ目を細める。
試験官が答案を見る顔ではなかった。
もっと面倒なものを見つけた顔だった。
「前より、答えが細かくなった」
心臓が一つ、余計に鳴った。
顔には出さない。
出してはいけないと考えると出るので、別のことを考える。
担架の男の呼吸。
馬車の車輪。
右側の兵が左手で槍を持っている。
「大きな傷を負ったので」
俺は言った。
「考える時間が増えた」
嘘ではない。
俺が負った傷ではない、という点を除けば。
セレクは数秒、何も言わなかった。
「そうですか」
信じた声ではない。
疑った声でもない。
一番困るやつだった。
* * *
移送順の書き直しが始まった。
俺は邪魔にならない位置へ下がる。
セレクもついてきた。
敵だった側の上級使節と、死んだ勇者の替え玉が、荷箱の横で並んで立つ。
事情を知らない人間が見れば、和平らしい絵に見えるかもしれない。
事情を知っている俺からすると、かなり変な絵だった。
「昨日、広場で見ました」
セレクが言った。
「何を?」
「あなたを」
昨日のバルコニーのことらしい。
「遠くからですが」
「なら、よく見えなかったでしょう」
「顔は」
またそこだ。
俺は横を見る。
セレクはこっちを見ていなかった。
「顔は、どうでもいい」
「勇者に会いに来た人の台詞としては珍しいですね」
「私は勇者という言葉を信用していません」
声に嫌悪はなかった。
ただ、使わない道具の名前を言うみたいだった。
「では、何を信用してる」
「払ったものです」
短い答えだった。
俺には意味が分からない。
それを顔に出さないくらいはできる。
セレクは続けた。
「セイル渡河地を覚えていますか」
来た。
ついに昔の話だ。
俺の中には何もない。
台本にもない。
昨日の記録室にも、そんな名前は出てこなかった。
一瞬だけ、イレーネを見る。
彼女は助け舟を出さなかった。
正しい。
ここで横から答えが出たら、それこそおかしい。
「覚えている」
言うしかない。
セレクの表情は変わらなかった。
「私は、あそこであなたが何を名乗っていたかには興味がなかった」
荷馬車の縄を締める音がする。
「あなたが、自分の側にとって安くないことをした。それだけです」
それ以上は言わない。
何をしたのか。
誰のためだったのか。
何を失ったのか。
全部、空白のまま残った。
「だから、私はあなたの評判ではなく、あの一度を信用してここへ来た」
重い言葉だった。
重いのに、俺はその中身を知らない。
昨日の十一人と同じだ。
ユリウスという人間は、死んだあとも俺の知らない場所で約束や判断を残している。
ただ、昨日と違うことが一つあった。
セレクは、同じ答えを返せとは言わなかった。
今の俺を見ている。
そのほうが、ずっと怖い。
「今日の判断は?」
俺は聞いた。
セレクが初めて少しだけ口元を動かした。
笑ったわけではない。
「まだ一つです」
「厳しいですね」
「人を帰す仕事なので」
それで会話は終わった。
俺も、それ以上は言わなかった。
今の返事に気の利いたものを足す必要はなかった。
* * *
昼を過ぎるころ、書き直された移送表に封が押された。
先発は明朝。
ハルフェンまで四日ほど。
俺たちも明朝の送行後、その列に加わる。
紙の上にしかなかった和平が、荷馬車の車輪に変わり始めている。
昨日より、少しだけ実感があった。
「セレクは帰った?」
俺が聞くと、イレーネは頷いた。
「宿舎へ。明朝また来る」
「俺、怪しまれました?」
イレーネはすぐには答えなかった。
その間が嫌だった。
「違いには気づいた」
「やっぱり」
「でも、違う理由までは決めていない」
「傷のせいだと思ってくれると助かります」
「思わせるために、急に昔のユリウスを演じ始めないで」
「分かってます」
「本当に?」
「たぶん」
イレーネが小さく息を吐いた。
笑いではない。
でも、昨日よりは少しだけ人間らしい反応だった。
「次の予定」
一枚の紙を渡される。
また予定だ。
俺は受け取った。
明朝、王都南門。
ハルフェン交換団の戦勝送行。
勇者ユリウス、短時間出席。
そこまではいい。
その下に、余興の出演者一覧があった。
見覚えのある演目名。
見覚えのある一座。
そして、舞台進行責任者の欄。
**マルク・エッダ。**
指が止まった。
「知っている人?」
イレーネが聞いた。
俺は紙から目を上げる。
今日会ったのは、ユリウス・レグナートを知っている男だった。
明日会うのは、ノア・フェルンを知っている男だ。
「ええ」
今度は、隠しても仕方がない。
「俺を知ってる人です」




