Episode 002 — 勇者の約束を、俺は知らない
十一人を覚えているか、と聞かれて。
俺が覚えていたのは、その十一人が俺の台本に一度も出てこなかったことだけだった。
昨日、宮殿の階段脇で名簿を掲げた女は、警備に連れていかれる直前まで俺を見ていた。
答えを待つ顔だった。
観客が次の台詞を待っている顔なら、何度も見たことがある。
問題は、今回は台詞を知らないことだった。
* * *
翌朝。
軍病院の小さな面会室で、俺は十一人分の名前と向き合っていた。
紙は昨日のものと同じだった。
何度も折られ、開かれ、端が柔らかくなっている。
その横に置かれた公文書は、ずいぶん薄い。
「これだけですか?」
俺が聞くと、机の向こうの職員が困った顔をした。
困った顔というのは便利だ。
答えがないときでも、何か事情があるように見える。
「現時点で、こちらにまとめられているものは」
「つまり、これだけ」
「……はい」
紙をめくる。
十一人は、ドラン方面の街道に置かれていた救護所の衛生兵と担架兵だった。
戦闘末期、救護所が潰れたあと消息が切れている。
死亡確認なし。
帰還確認なし。
捕虜名簿にも、こちらに届いている範囲では該当なし。
その先がない。
「捜索は?」
「勇者様から指示が出ていた、と」
「結果は?」
職員は薄い束を見た。
俺も見た。
紙は見つめても増えない。
「完了報告はありません」
「継続中という記録は?」
「それも、今ここには」
なるほど。
十一人がどこにいるか分からない。
誰が最後まで捜していたのかも分からない。
捜索が今も続いているのかさえ分からない。
なのに、これから俺は、その十一人を待っている人と会うらしい。
「昨日の方は?」
「ドラン街道沿いの町から来ています。戦勝後、勇者様がセレスタへ戻られたと聞いて」
職員が言いかけたところで、扉の脇に立つイレーネが口を挟んだ。
「それ以上は、本人から聞けばいい」
「はい」
職員が黙る。
助かった。
背景説明を先に全部聞くと、相手の顔を見る前に答えを作ってしまう。
役者としては、それはあまり良くない。
「で」
俺は書類を閉じた。
「俺は何と答えることになってます?」
職員の目が一瞬だけイレーネへ行った。
俺ではなく。
そこも答えだった。
「勇者様は以前、ご家族へ……十一人を必ず捜し出し、連れ帰る、とお話しになったそうです」
「そうですか」
「ですので、今回もご負傷で細部の記憶が曖昧という形で、約束自体は変わっていないとお伝えいただくのが……」
語尾が消える。
俺はその続きを頭の中で補った。
一番簡単な台詞だった。
心配するな。
必ず連れ帰る。
勇者がそう言えば、少なくとも今日この部屋では話が丸く収まる。
何より俺は、その手の台詞を言うのが上手い。
胸を張りすぎず。
相手の目を見て。
最後だけ少し声を低くする。
たぶん泣かせることもできる。
「分かりました」
俺は言った。
イレーネがこちらを見る。
「何が?」
「相手が欲しい台詞が」
「そう」
褒められなかった。
* * *
女は、昨日より近くで見るとずっと疲れていた。
旅装の裾は洗っても落ちなかった泥で白っぽくなっていて、腰の革紐には何度も検札されたドラン方面の通行札が下がっている。
首都の人間ではないことを説明される必要はなかった。
女は椅子に座らなかった。
俺も座ったままではいられなくなった。
「昨日は、大声を出して申し訳ありませんでした」
「いえ」
「でも、ああでもしないと会わせてもらえなかったので」
謝罪はしたが、反省はしていないらしい。
そのくらいのほうが話しやすかった。
「紙を見せてもらえますか」
女は少し驚いてから、抱えていた名簿を机へ置いた。
昨日は遠くて見えなかった文字が、一つずつ読める。
十一人。
年齢も所属も書かれていない。
名前だけだ。
何度も指でなぞった跡があった。
「勇者様」
女が言った。
「本当に、覚えていらっしゃいますよね?」
ここで「ああ」と言えばいい。
一音だ。
昨日、何万人を黙らせた台詞よりずっと短い。
「傷のせいで、記憶がところどころ曖昧になっている」
まず、用意されていた逃げ道を使った。
女の顔から血の気が少し引いた。
「じゃあ……約束も?」
「あなたから聞きたい」
「何をですか」
「俺が、何を約束したのか」
女はしばらく黙った。
俺の言い方のどこかに嘘を探しているようだった。
やがて名簿へ目を落とす。
「この十一人は、ドラン街道の救護所にいた人たちです」
指が、一番上の名前に触れる。
「兵士だけじゃありません。負傷者を運んでいた人も、薬を配っていた人もいました。救護所が潰れたあと、誰も戻ってこなかった」
俺は黙って聞く。
「でも、死んだという知らせもなかった。捕虜になったという知らせも。だから私たちは、ずっと役所を回って」
そこで一度、息を止めた。
「勇者様が会ってくださったんです」
女の目が上がる。
「十一人とも捜す。必ず連れて帰るって」
来た。
俺が言うべき台詞が、本人の口から出てきた。
あとは返せばいい。
同じ形で。
約束は変わらない。
必ず連れて帰る。
それだけで、この人は少なくとも今日、少し楽な顔で帰れる。
そして俺も、勇者として正しく見える。
「だから」
女は名簿を両手で押さえた。
「約束は、まだ生きていますよね?」
俺は十一人の名前を見る。
次に、女を見る。
欲しい答えは分かっている。
分かりすぎるくらいに。
「その約束を」
一度、言葉を切った。
女の目が動かない。
「今ここで、同じ言葉では約束できません」
部屋が静かになった。
廊下の向こうで紙を運ぶ音まで聞こえた。
女は、意味が分からないという顔をした。
そのあとで、分かった顔になった。
後者のほうがきつかった。
「……どうしてですか」
「十一人が今どこにいるのか、俺は答えられない」
「それは、捜している途中だからでしょう?」
「それも確認できていない」
女の指に力が入った。
名簿の端が曲がる。
横で職員が息を吸った。
たぶん止めたいのだろう。
でも俺は続けた。
「死亡確認はない。帰還確認もない。こちらにある捕虜名簿にも、今のところ名前はない。ただ、捜索がどこまで進んで、今も誰が追っているのか、その記録が揃っていない」
「だったら、なおさら捜してください」
「捜すために、まずそこを確認する」
「違う」
初めて、女の声が強くなった。
「私が聞いているのは、そんなことじゃありません」
分かっていた。
書類が欲しくて、何日もかけて首都まで来たわけではない。
この人が欲しいのは、十一人が帰ってくる未来だ。
俺が得意なのは、相手が欲しいものを見つけることだった。
だからこそ、ここでは厄介だった。
「前は言ってくれたんです」
女が言う。
「絶対に見つけるって。だから、みんな待ってるんです。家もそのままにしてる人がいる。遺品を片づけていいのか分からない人もいる。それでも、勇者様が連れて帰ると言ったから」
胸の奥が少し重くなる。
俺が一言言えば、この人たちはまた待てる。
それは、たぶん救いになる。
同時に。
俺には、その一言の中身が何も見えない。
十一人が生きているかも。
帰れる場所にいるかも。
捜す手段が残っているかも。
何一つ。
「すみません」
女の顔が固くなる。
俺は謝るためにここへ来たわけではない。
それでも、先に出た。
「『必ず十一人を連れて帰る』とは、今は言えません」
「じゃあ、あの約束は無かったことにするんですか」
「しません」
自分でも驚くくらい、そこだけはすぐ答えられた。
女が顔を上げる。
「無かったことにしないから、分からないまま同じ言葉を重ねたくない」
俺は名簿を指した。
「この十一人について、残っている記録を集めます。どこまで分かっていて、どこから分からないのかを確認する。確認できたことは、あなたたちに返す」
「それだけ?」
その言葉は、かなり痛かった。
「今、俺が確実に約束できるのは、そこまでです」
女は俺を見ていた。
失望した観客の顔も、役者なら知っている。
台詞を噛んだとき。
期待した場面が来なかったとき。
金を払った価値がなかったと判断されたとき。
今日のこれは、そのどれとも少し違った。
俺が言えたのに、言わなかった台詞への失望だった。
「……分かりました」
全然、分かった声ではなかった。
女は名簿を畳む。
「記録が分かったら、知らせてください」
「必ず」
今度は言えた。
何を約束しているのか、自分で分かったからだ。
女は一礼した。
昨日より小さな背中で、部屋を出ていった。
拍手はなかった。
当然だ。
* * *
「ずいぶん、期待を外したわね」
扉が閉まってから、イレーネが言った。
責めているのか、ただ事実を言っているのか分からない声だった。
「そういう顔でした?」
「見れば分かるでしょう」
「見たうえで聞いてるんです」
イレーネは俺を見た。
昨日より少し長く。
「言おうと思えば、言えた」
「ええ」
「たぶん、信じさせられた」
「それは得意です」
「なのに言わなかった」
俺は机の上の薄い公文書を見る。
「中身が無かったので」
イレーネは何も言わなかった。
一瞬だけ、名簿が消えた扉のほうを見る。
それから職員へ向き直った。
「記録室を開けて。ドラン方面の救護所、移送記録、捕虜照合、死亡確認。残っているものだけでいい。無いものを作らないで」
「はい」
短い命令だった。
その中に、俺への評価が入っているのかは分からなかった。
分からないものは、分からないままでいい。
少なくとも今日は。
* * *
記録室の前の廊下は、舞台裏より忙しかった。
職員が帳簿を抱えて出入りし、床に箱が積まれていく。
十一人の捜索結果は、まだ出てこない。
代わりに「該当なし」「確認不能」「別記録参照」という、あまり人を安心させない言葉ばかり増えていった。
俺は壁にもたれて待ちながら、それを見ていた。
勇者という役は、昨日までは簡単だった。
見せるべき顔がある。
言うべき台詞がある。
客が欲しいものを間違えなければいい。
今日初めて、欲しいものが分かっているのに渡せない場面が来た。
あまり好きな種類の舞台ではない。
「ノア」
イレーネが呼んだ。
紙を一枚持っている。
「次の予定が入った」
「記録、見つかりました?」
「そっちじゃない」
差し出された紙には、短い文しかなかった。
停戦評議府の上級使節。
セレク・アーデン。
ハルフェンで予定されている最初の交換協議に先立ち、勇者ユリウスとの早期面会を要請。
俺は最後の一行を二度読んだ。
「この人、ユリウスを知ってるんですか」
「直接ね」
昨日は、何万人もの知らない人間を騙した。
明日は、一人の知っている人間に会うらしい。
人数だけ見れば、ずいぶん楽になった。
たぶん、そういう問題ではない。




