Episode 001 — 今日から、お前が勇者だ
拍手は、俺の芝居が上手かったときより、俺が勇者に見えたときのほうが大きい。
これは役者として、なかなか傷つく事実だった。
「――魔王軍の門は破った! あとは俺たちが、生きて帰る番だ!」
木剣を振り抜く。
舞台袖で鳴らされた鉄板が、派手な破砕音を立てた。背景の城門は薄い板に黒い布を貼っただけだし、俺が今斬った魔王軍兵士は、昨日まで酒場で皿を洗っていた男だ。
それでも客席は沸いた。
百人少々。負傷兵、兵士の家族、暇を持て余した役人。戦争中に何度も上演された宣伝劇の、戦勝後の再演だ。
俺は剣を下ろし、すぐには笑わない。
一拍。
客の目が顔へ集まるのを待ってから、口元だけで笑う。
歓声が一段、大きくなった。
そこだ。
台詞じゃない。
俺の顔だ。
「やっぱり似てるなあ!」
最前列から、遠慮のない声が飛んだ。
知っている。
鏡は毎朝見る。
俺、ノア・フェルンは、勇者ユリウス・レグナートによく似ている。
よく似ている、という便利な言葉で片づけるには、少し似すぎていた。
戦争が長引くにつれ、その顔は役者としての俺より役に立つようになった。遠くからしか見えない行軍の先頭、囮の馬車、危険な場所での目撃情報作り。連合に正式に雇われ、勇者の替え玉をやったことも一度や二度ではない。
だから俺は、ユリウスの歩幅を知っている。
人前で顎を引く角度も。
歓声が上がったとき、右ではなく左から客席を見る癖も。
もちろん、本人の頭の中までは知らない。
役者が覚えられるのは、外から見えるものだけだ。
幕が下りる。
途端に拍手が、薄い布一枚向こうへ遠ざかった。
「ノア、今日よかったぞ。特に最後」
共演者が背中を叩いてくる。
「最後って、台詞?」
「顔」
「知ってた」
衣装の留め具を外しかけたところで、楽屋口が開いた。
知らない男が二人立っていた。
二人とも剣を下げている。劇場警備の兵ではない。靴がきれいすぎる。
客ではないことだけは、よく分かった。
「ノア・フェルンか」
「今はまだ」
「オスカー・ヴァレン調整官がお呼びだ」
俺は留め具から手を離した。
「何の仕事です?」
男は答えなかった。
こういうとき、答えない人間はだいたい、こちらが断れると思っていない。
* * *
連れて行かれた先が宮殿なら、まだ理解できた。
軍病院だったので、少し嫌な感じがした。
さらに通常の病棟を通り過ぎ、警備が一人、二人、三人と増えていったところで、その感じはかなり具体的になった。
最後の扉の前には女が立っていた。
二十八くらい。軍装。剣。姿勢がまっすぐすぎて、廊下のほうが傾いて見える。
俺を見る。
顔。
肩。
足元。
もう一度、顔。
客の視線ではなかった。
「ノア・フェルン」
「そうです」
「イレーネ・クロイツ」
名乗り方にも無駄がない。
聞いたことはあった。
勇者ユリウスの副官。
なら、俺が誰に似ているかを、たぶんこの国で一番笑えない立場の人だ。
彼女は扉を開けた。
「入って」
部屋は寒かった。
最初に目についたのは、白い布だった。
次に、人の手。
布から出た指先は動いていない。
舞台で死体を演じる役者は、客から見えないところで呼吸する。
本物はしない。
顔を見た。
何度も鏡越しに作ってきた顔が、そこにあった。
俺より少し年上で。
俺より傷が多くて。
俺が何百回真似しても、俺のものにはならなかった顔。
ユリウス・レグナートは死んでいた。
「今朝だ」
背後から男の声がした。
振り向く。
灰色の上着を着た、四十代後半くらいの男だった。疲れているのに、声だけは妙に整っている。
「最終戦の傷が悪化した。治療は尽くした。死亡確認も済んでいる」
「オスカー・ヴァレン調整官?」
「そうだ」
俺はもう一度、死体を見る。
似ていた。
腹が立つくらいに。
「それで」
喉が少し乾いていた。
「俺を呼んだ理由も、だいたい分かりました」
オスカーは否定しなかった。
「話が早くて助かる」
「役者なので。次の台詞くらいは読みます」
イレーネの眉がわずかに動いた。
受けたのか、外したのかは分からない。
「ユリウスの死亡は、まだ公表できない」
オスカーが言った。
「大規模戦闘は終わった。だが和平は終わっていない。武装解除も、捕虜の交換も、帰還も途中だ。今、彼が死んだと知れれば、降伏側は、勝者側の報復を止めていた保証が消えたと考える」
「それで向こうが武装を解かなくなる」
「こちらは、それを再武装と読む」
そこまでなら、俺にも分かった。
政治の話というより、舞台袖で互いに相手の出方を待っている役者の話に近い。
先に動いたほうを、裏切りだと思う。
「だから、生きていてほしい」
オスカーは、死体ではなく俺を見た。
「和平会議まで」
「いつです」
イレーネが俺を見た。
たぶん普通は、まず『何をさせる気だ』と聞くところなのだろう。
だが俺には、先に聞く理由があった。
「予定では七十四日後に最終会議。合意できれば、その二日から四日後に“最終戦の傷が悪化し、勇者ユリウスは死亡した”と発表する」
「俺は?」
「契約終了。記録と報酬はこちらで処理する。あとは好きな場所へ行けばいい」
七十八日目。
そこから商都ミレアまで、身軽なら四日。
八十二日目。
《青灯座》の秋季オーディションは、九十日目あたりから数日間。
間に合う。
十分に。
俺は上着の内側に入れている、何度も折り直した募集要項を思い出した。
勇者の顔ではなく。
ノア・フェルンの名前で受ける舞台。
「報酬は?」
オスカーが金額を言った。
今度は、俺の眉が動いた。
イレーネは動かなかった。
「危険手当込みだ」
「危険の説明がまだですが」
「正体が露見すれば政治問題になる」
「それは分かります」
「当面、ユリウスを私的に知る者との接触は絞る。軍事判断や外交判断は担当者が支える。君に求めるのは、まず“勇者が生きている”と世界に信じさせることだ」
勇者は、神に選ばれた何かではない。
戦争の途中で連合が作った、公的な役割であり称号だ。魂を照らして本人かどうか確かめる、そんな便利な仕組みもない。
だから、こんな馬鹿な仕事が成立する。
そして俺は、その馬鹿な仕事の経験者だった。
「七十八日より後には延びませんか」
オスカーはすぐ答えた。
「会議が成立すれば、延ばす理由はない」
“成立すれば”。
役人の言葉としては、かなりきれいだった。
俺は死んだ勇者を見る。
それから、自分の手を見る。
舞台のあとで落としきれなかった化粧が、爪の脇に少し残っていた。
「分かりました」
イレーネが初めて、はっきり俺を見た。
「受けるの?」
「期限が守られるなら」
「死んでいる人間になる仕事よ」
「生きてる人間の役より、勝手に台詞を変えられないぶん楽かもしれません」
今度は完全に外したらしい。
イレーネは笑わなかった。
まあ、当然だ。
* * *
準備は驚くほど短かった。
長くやれば、本物に近づけるわけではない。
知らないことは、百回練習しても知らない。
俺が確認したのは三つだけだった。
公の場では傷が深いことになっている。
不用意に長く話さない。
予定外の質問には、その場で答えない。
あとは服と包帯と、立ち方。
翌朝。
宮殿の内側からバルコニーへ続く扉の前で、俺は歓声を聞いていた。
昨日の劇場とは、音の種類が違った。
壁が震える。
床から来る。
何万人いるのかは知らない。
数えている余裕もない。
「無理に喋らなくていい」
横に立つイレーネが言った。
「生存確認が第一。顔を見せて、手を上げる。それだけでいい」
「客席の一番後ろまで、顔は見えませんよ」
「客席?」
「癖です」
扉が開いた。
光が入る。
最初の一歩で、歓声が割れた。
近い場所から先に。
広場の奥へ、波みたいに伝わっていく。
俺はすぐには手を上げなかった。
人は、見たいものが出てきた瞬間には、まだ隣の人間を見ている。
本当にそこにいると確信した瞬間に、視線が揃う。
だから待つ。
一拍。
二拍。
昨日の百人と同じだ。
人数が違っても、客は客だ。
中央。
左。
右。
兵士の列。
窓。
屋根。
こっちを見ている。
俺はユリウスがそうしていたように、顎を少し引いた。
包帯のある側をかばうように立つ。
そして手を上げた。
音が爆発した。
「勇者!」
「ユリウス!」
「勇者様!」
名前が降ってくる。
俺のものではない名前が。
昨日までなら、それで少し冷めた。
また顔か、と。
でも今は違った。
この数万人の視線が、ばらばらに俺へ刺さっている。
俺は息を吸った。
大声を出す必要はない。
最初の一音を低く置けば、近くが黙る。
近くが黙れば、その外側も何かを聞こうとする。
舞台で何度もやった。
「――心配をかけた」
広場の前方が静かになる。
「俺は、ここにいる」
それだけだった。
約束はしない。
戦争の話もしない。
和平の話もしない。
ただ、生きている勇者を見せる。
数秒の沈黙。
それから、昨日とは比べものにならない歓声が返ってきた。
胸の奥が、勝手に熱くなった。
まずいな、と思った。
怖いからではない。
嬉しかったからだ。
顔は借り物だ。
名前も借り物だ。
台詞だって、ほとんど何も言っていない。
それでも。
待つ間を決めたのは俺だった。
どこを見るか決めたのも俺だ。
何万人の呼吸を一度止めて、もう一度歓声に変えたのは――俺の仕事だった。
役者として、それを嬉しいと思わないのは無理だった。
俺はもう一度、手を上げた。
今度は、歓声が来る瞬間を知っていた。
* * *
退出経路は決められていた。
長居はしない。
質問は受けない。
廊下へ戻れば終わり。
初日は成功。
そういう段取りだった。
だから、階段脇の柵から一人が身を乗り出したときも、最初は警備が処理すると思った。
紙を持った人だった。
折り目だらけの、大きな紙。
兵が止める。
その人は押し返されながら、紙を高く掲げた。
名前が並んでいた。
遠くて読めない。
「勇者様!」
声だけは届いた。
歓声とは違う。
返事を知っている人間へ向ける声だった。
俺は足を止めてしまった。
その人が、紙を握ったまま叫ぶ。
「十一人のこと、覚えていますよね?」
俺の台本には、その十一人は一度も出てこなかった。




