Episode 004 — 俺を知っている人
昨日会ったセレク・アーデンは、ユリウスを知っていた。
今日会うマルク・エッダは、俺を知っている。
どちらが危険かと聞かれれば、今のところ後者だった。
「南門までの動線、変える?」
朝の王宮裏で、イレーネが聞いた。
「変えられるんですか」
「舞台の北側を通れば、一座の人間とは距離を取れる」
俺は少し考えた。
昨日渡された送行予定には、出演者も警備も移送隊も、もう全部位置が書かれていた。
ここで勇者の通り道だけ急に変えれば、その理由を探す人間が出る。
何より、一座は今日の仕事をしに来ている。
俺一人の都合で、朝から舞台裏を組み直させるのは嫌だった。
「予定どおりで」
「マルク・エッダと話さないで」
「はい」
「向こうから来ても」
「はい」
「返事が素直ね」
「今日は、そのほうがいいです」
イレーネはそれ以上言わなかった。
たぶん、それでいい。
昨日までなら、知っている人に会う前には何か一つくらい準備したくなった。
今日は準備するほど危ない。
俺のことを知っている人間に対して、俺らしくない俺を用意しても仕方がない。
* * *
王都南門の前には、仮設の舞台が組まれていた。
見覚えのある板だった。
端の欠け方まで知っている。
戦争中、俺たちの一座は同じ舞台板を何度も使った。町が変わるたびに色だけ塗り直して、城門にも砦にも王宮にもした。
今日は花布が巻かれている。
戦勝送行用らしい。
舞台袖では、もっと見覚えのある人間たちが走っていた。
縄を締める男。
衣装箱を抱える女。
朝から何か食べながら台詞を確認している若手。
俺が抜けても、全員ちゃんと忙しそうだった。
少し安心した。
少しだけ腹も立った。
人間の感情は、だいたい同じ方向を向いてくれない。
「そこ、板を一枚下げろ! 勇者様の進路に出すな!」
声が飛ぶ。
マルクだった。
三十二歳。
一座の役者で、演出をして、金の計算をして、役者が逃げたときは自分で穴を埋める。
つまり、劇団が潰れないために必要なことをだいたいやる人だ。
今日も片手に進行板、もう片方に紐の束を持っていた。
俺は舞台脇の警備幕の向こうから、その姿を見る。
四日前と変わらない。
四日前。
俺にとっては、ユリウスが死ぬ前の話だ。
マルクにとっては、たぶん仕事が一つ終わったくらいの時間だろう。
「ノア」
小声でイレーネが呼んだ。
見すぎていたらしい。
「分かってます」
俺は視線を戻した。
舞台では、戦勝劇の短縮版が始まっていた。
知っている台詞が二つ続いて。
三つ目が来なかった。
代わりに、兵士役たちが帰還旗を掲げる場面へ移る。
俺が勇者役で立っていた場面が、丸ごと消えていた。
なるほど。
本物の勇者がすぐ横にいる日に、似た顔の役者を立たせる必要はない。
それに俺はいない。
なら、切る。
マルクらしい。
舞台は、いない役者を待ってはくれない。
客席から拍手が起きた。
悪くない。
むしろ前より流れがいい気がした。
そこは、もう少し困ってくれてもよかった。
「出る」
イレーネが言った。
警備幕が上がる。
俺はユリウスの歩幅で外へ出た。
拍手が歓声に変わった。
一座へ向いていた顔が、一斉にこちらへ向く。
旗が上がる。
誰かが勇者の名を叫ぶ。
昨日までなら、その音をどう受けるか考える余裕があった。
今日は、舞台袖に知っている顔が多すぎた。
それでも身体は動く。
顎を引く。
右肩をわずかに遅らせる。
急いで手を上げない。
歓声の波が揃ってから応える。
いつもの仕事だ。
上手くいった。
上手くいってしまった。
舞台袖の仲間たちまで、勇者を見ていた。
誰も俺を見ていない。
当然なのに、少し変な感じがした。
俺は今まで、知らない大勢にユリウスを見せるためにこの顔を使ってきた。
今日は、俺を知っている人間の前で、俺が一番見えなくなっている。
歓声は大きかった。
役者としては、かなり成功している。
役者としてだけなら。
* * *
送行の挨拶は短かった。
俺は用意された言葉を三つだけ言った。
帰還する者を迎えること。
傷ついた者を先に運ぶこと。
今日の移送を止めないこと。
それ以上は言わない。
言い終わると、南門脇の仮設通路へ下がった。
そこから移送隊の先頭へ合流する予定だった。
問題は、その通路が舞台裏と半分つながっていたことだ。
「箱、先に通せ!」
「馬を止めるな、布が絡む!」
「次の幕はもう要らない、畳め!」
声が飛ぶ。
懐かしい。
懐かしいが、今は全部、近づいてほしくない音だった。
舞台の背景板を載せた小さな荷車が、通路の途中で止まった。
車輪が敷石の隙間にはまっている。
護衛の列も止まる。
「少し待って」
イレーネが前を見る。
「一分もかからない」
一分。
舞台では長い。
何もせず立っていると、もっと長い。
俺は息を吐いた。
四つ数える。
親指で、薬指の節を二度押す。
一つ吸う。
やってから気づいた。
昔からの癖だった。
本番直前、出番が押したときだけ出る。
マルクには何度も直せと言われた。
『客には見えなくても、俺には見える』と。
顔を上げる。
見えていた。
マルクが、こっちを見ていた。
正確には、俺の顔ではない。
手を見ていた。
持っていた進行板が、ほんの少し下がる。
一拍。
二拍。
「マルク!」
誰かが呼んだ。
彼は返事をしなかった。
俺も動かなかった。
呼べる名前を、今はどちらも呼べない。
先にマルクが視線を切った。
「車輪を上げろ。二人でいい!」
声はいつもどおりだった。
荷車が持ち上がる。
通路が空く。
それだけだった。
何も起きていない。
少なくとも、周りから見れば。
俺は歩き出す。
すれ違う直前、マルクが一歩だけ通路脇へ下がった。
「勇者様、足元を」
仕事の声だった。
俺に向けて、敬語だった。
「……ああ」
ユリウスの声で答えた。
それ以上は言わない。
マルクも言わなかった。
数歩進んでから、背中に視線を感じた。
振り返らなかった。
役者なら、人の顔を読めると思いたくなる。
でも、マルク相手にその自信を持つのは危なかった。
疑ったのか。
似た癖を見ただけなのか。
それとも、俺が消えたことを思い出しただけなのか。
分からない。
今は、それでよかった。
* * *
南門の外で、移送隊は最後の隊列確認に入っていた。
荷馬車が並ぶ。
昨日順番を変えた担架も載っている。
セレクは先頭寄りの馬車の横で、連合側の担当者と何か確認していた。
俺を見ると、一度だけ頷いた。
昨日より楽な相手に見えた。
たぶん比較対象が悪い。
出発までは、まだ少し時間があった。
俺は護衛位置の確認という名目で、南門脇をゆっくり歩いた。
一座の荷車が見える。
近づく必要はない。
話す必要もない。
傷の具合を理由にすれば、出発を三分遅らせるくらいはできる。
三分。
それだけあれば、マルクに聞けることはたくさんあった。
一座はどうしている。
俺が急に消えて、困ったか。
次の仕事はあるか。
それから。
俺の場所は、まだあるか。
最後の一つだけは、聞かないほうがいい質問だった。
答えが欲しすぎる。
だから俺は、荷車へ行かなかった。
代わりに、開いた側板に留められた紙を見る。
役者は遠くの文字を読むのが得意だ。
台本を忘れた仲間の口元を見るよりは健全な技術だった。
一番大きい紙には、巡業予定が書かれていた。
**戦勝後・慰問/復員巡回公演。**
セレスタ南門。
北部駐屯地。
街道沿いの営地を二つ。
そして。
**ドラン前線区――二十二日頃。**
俺の指が、今度は動かなかった。
一座は今日だけ呼ばれたわけではない。
戦争が終わり始めたぶん、兵を帰す場所へ仕事ができたらしい。
マルクは昔から、夢の話をする前に今月の家賃を計算する人だった。
だから一座は、俺がいなくても次の町へ行く。
隣の紙に、青い印が見えた。
知っている印だった。
商都ミレア。
《青灯座》。
秋季入団選考。
九十日目から数日間。
募集要項そのものは、俺の上着の内側にも入っている。
何度も折って、角が白くなった紙だ。
なのに、一座の荷車に同じ印があるだけで、急に別のものに見えた。
俺が戻る予定の世界は、頭の中にだけある未来ではない。
紙が配られて。
誰かが読んで。
次の仕事を決めて。
俺がいなくても進んでいる。
「出るわよ」
イレーネの声がした。
「はい」
今度はすぐ返した。
荷車の向こうで、マルクが別の役者に何か指示している。
こちらは見なかった。
見ないようにしているのかどうかも、俺には分からない。
移送隊の先頭で号令がかかる。
車輪が動いた。
南門が少しずつ後ろへ下がっていく。
俺は振り返らなかった。
振り返らなくても、予定表の文字は覚えている。
ドラン前線区、二十二日頃。
俺たちの行程にも、その地名は入っている。
今日をやり過ごせば終わり、ではなかったらしい。
その前に、まずハルフェンだ。
次に待つのは、《灰橋》での最初の交換だ。
ついこの前まで敵だった人間を、本当に向こう側へ渡す。
舞台なら、渡ったところで幕が下りる。
たぶん今度は、下りない。




