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勇者が死んだので、俺が“勇者だったこと”にされた  作者: 綴木 灯
第四章「名前を返す」

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Episode 026 — 嘘を続ける方が、安全だ

七十三日目の夜。


オスカーの部屋には、二日前に会議場にあった比較板が運び込まれていた。


左。


**現行案。**


右。


**勇者継続保証なし。**


布は外されている。


札も、そのままだった。


第二便――保留。


第三便――保留。


南支線――再調整。


主要区画第二段階後退――維持見込み。


二日前に見た文字なのに、夜の部屋にあると少し違って見える。


会議場では案だった。


ここでは、選ぶものに見えた。


オスカーが扉を閉める。


鍵は掛けなかった。


外に護衛がいるからだと思う。


イレーネは窓際に立った。


椅子は三つある。


座ったのは俺とオスカーだけだった。


「約束通り、最後に一度だけ話す」


オスカーが言った。


「はい」


「先に言っておく。右の案は成立する」


俺は比較板を見る。


「二日前も聞きました」


「だから今日は、成立しないと言って止める話はしない」


少し意外だった。


オスカーは右側の札を一枚ずつ指した。


「灰橋の現行時間は残る。第一便も条件が揃えば出せる。主要区画の後退も、再確認は必要だが、おそらく残る」


「はい」


「第二便と第三便は待つ。南支線は止まる。拡大時間は出し直し。D地区の第三警戒隊も残る」


「はい」


「会議文面も開き直す。明日の署名は、ずれる可能性が高い」


そこまで全部、見た。


オスカーが左側を見る。


「こっちは?」


「今の広い方」


「そうだ」


左には札が多い。


帰る人も多い。


下がる兵も多い。


橋を使う時間も長い。


「君が第九十六日まで立つなら、現時点ではこっちの方が通しやすい」


「現時点では」


「現時点では」


オスカーは言い直さなかった。


たぶん、そこが大事なのだと思う。


未来全部の話ではない。


明日からしばらくの話だ。


机の端に、木札が三枚置かれていた。


前に見たものだと思った。


第一便。


第二便。


第三便。


今日は三枚とも白い。


「これは?」


「現行案で行く場合の予定札だ」


「まだ本番じゃないですよね」


「まだだ」


オスカーが二枚目を持つ。


「だが、明日まとまれば、これを戻せる」


三枚目も。


「これも」


右側なら灰色だった札だ。


白いだけで、ずいぶん軽く見えた。


「家族は?」


「第二便と第三便の登録者には、今夜も待機を続けてもらっている」


「もう荷物をまとめてる?」


「まとめている」


窓の外に、会議地区の外灯が並んでいる。


その向こうまでは見えない。


帰還準備区画も、灰橋も。


でも、見えなくても人がいることは知っている。


前に、自分で見た。


「右にすると、その人たちは待つ」


「待つ」


「左なら?」


「全員が必ず予定通りとは言わない。だが、今の条件なら進められる可能性が高い」


オスカーは三枚の白札を机へ戻した。


「これは脅しじゃない」


「分かってます」


「君が残らないと、この三便が全部死ぬ、とも言わない」


「はい」


「二日前、そうじゃないと確認した」


そこまで言われると、少し困る。


相手が間違ってくれた方が、断るのは簡単だ。


オスカーは間違ったことを言わなかった。


* * *


机の下から、別の筒を出した。


中には地図が入っている。


D地区。


南支線。


第二段階後退線。


赤い印は、前に見たものと同じだった。


「次」


オスカーが言う。


「君が明日、全部話した場合」


イレーネが窓から離れた。


初めて、こちらを見る。


「条項を外すだけの話とは違う」


オスカーが地図を広げた。


「二日前の右案は、事前に条件を変えて、各側へもう一度出す案だ」


「はい」


「勇者保証を置かない。帰還規模を縮める。南支線は待つ。そういう条件を、理由を全部明かさないままでも再提示はできる」


「できます」


「明日、正体まで公にすれば」


指が地図のD地区で止まる。


「条件変更だけでは済まない」


俺は黙った。


「ベアトリスは、今の和平手続きそのものに疑義を出せる」


「出すでしょうね」


「出す可能性が高い」


訂正された。


その方が正しい。


まだ起きていない。


オスカーは赤い線の端を押さえる。


「第三警戒隊だけじゃない。次の後退を止める理由にできる」


「主力側は、勇者だけで決めたものじゃない」


「その通りだ」


俺は少し顔を上げた。


「だから全部戻るとは言っていない」


先に言われた。


「でも、止まる区画は出るかもしれない」


「出る」


「向こうも警戒を戻す」


「こちらが止まれば、相手がその理由を信じるまで時間がいる」


地図の反対側にも、指が動く。


「局地的な停止を、全面再開の準備だと読む者はいる」


「戦争になる?」


「そうならないように今までやってきた」


答えになっていた。


ならないとは言わない。


なるとも言わない。


ただ、近づく。


「灰橋は?」


俺が聞く。


「リーゼなら一度止める可能性がある」


「理由は?」


「自分の中立手続きが、誰に何を知らせた上で使われていたのか確認するためだ」


それも、たぶんそうする。


リーゼは勇者を信じて橋を開ける人ではない。


だからこそ、手続きに嘘が入っていたと知れば、確認する。


「セレクは知ってます」


「知っている」


「驚かない」


「彼はな」


オスカーは地図を巻かなかった。


「彼が元側全部を止められるわけじゃない」


「はい」


「君も見ただろう。彼が代表できる範囲と、できない範囲がある」


南支線の赤い印。


D地区の赤い印。


どちらも、一人の名前では消えなかった。


「つまり」


俺は言う。


「二日前の右より、悪くなるかもしれない」


「なる可能性がある」


「俺が言ったせいで」


オスカーは少し黙った。


「そうなる可能性がある」


そこは、薄めなかった。


イレーネが腕を組む。


「公表した直後、護衛線がどう動くかは読めない」


イレーネが言った。


「勇者名義の命令だけで動いている部隊じゃない。でも、勇者がいる前提で警戒を下げた人間はいる」


「はい」


「混乱の間に、何も起きないとは言えない」


「はい」


「私は、そこを軽く見る気はない」


俺に向けた言葉だった。


責めているわけでも、許しているわけでもない。


仕事の話だった。


その距離が、少し助かった。


* * *


オスカーが地図を巻いた。


「ここまでが、周りの話だ」


「まだあるんですか」


「君の話がある」


少し嫌な予感がした。


机の引き出しから、今度は薄い封筒が出る。


「延長分を、今度こそ別契約にする」


俺は封筒を見た。


「今度こそ」


「本来、そうするべきだった」


オスカーが言った。


そこは否定しなかった。


「第八十二日から、第九十六日まで。報酬は別。警護と身分保護も継続。終了後の移動もこちらで持つ」


「ミレアまで?」


「希望する場所まで」


「青灯座は」


オスカーが止まった。


俺も、聞かなければよかったと思った。


「間に合わない」


「ですよね」


「そこは、私には直せない」


封筒の角が少し曲がっている。


たぶん、何度か持ち直したのだと思う。


「延長で失う分は、補償対象にはする」


「舞台の代わりにはならない」


「ならない」


また正しい。


困る。


「でも、君が第九十六日まで残るなら、その間の扱いを曖昧な善意にはしない」


「終わったら?」


「終わらせる」


「本当に?」


俺が聞くと、オスカーはすぐ答えなかった。


部屋が静かになる。


外の廊下で、靴音が一度通った。


「第九十六日の時点で、今より代替保証を増やす」


オスカーが言う。


「それで君を外す」


「予定」


「予定だ」


そこも誤魔化さない。


俺は封筒を見た。


第八十二日から第九十六日まで。


数字にすると短い。


ここまで七十三日やった。


第九十六日までは、あと二十三日。


あと二十三日くらいなら、と一瞬思う。


青灯座の秋の枠はなくなる。


でも、舞台はまたあるかもしれない。


金は入る。


移動も守られる。


今の部屋もある。


外へ出れば、俺を見て安心する人もいる。


手紙も来る。


礼も言われる。


偽物なのに、俺が決めたことで助かったと言う人もいた。


それを全部、嫌だったことにする必要はない。


たぶん、かなり好きだった。


「残る方が楽ですね」


気づいたら言っていた。


オスカーは何も言わない。


「俺も」


続ける。


「周りも」


「短期的には、その可能性が高い」


「また現時点では?」


「そうだ」


笑うところではなかったけど、少しだけ息が抜けた。


全部を保証する人はいない。


オスカーもできない。


でも、明日からの危険だけなら。


残る方が、たぶん少ない。


オスカーが封筒を俺の前へ置く。


「今夜中に返事が欲しい」


「はい」


俺は封筒を開けないまま聞いた。


「もし残ったら」


「うん」


「第二便も第三便も、明日から動かせる可能性が高い」


「そうだ」


「D地区も、少なくとも正体の話で追加の理由は増えない」


「そうだ」


「灰橋も止まりにくい」


「そうだ」


「俺も守られる」


「そうだ」


全部、残る方に札が乗っていく。


かなり重かった。


* * *


しばらく誰も話さなかった。


比較板の左と右。


白い札と灰色の札。


封筒。


全部、見れば分かる。


俺が欲しかったのは、もっと分かりにくい答えだったのかもしれない。


「一つだけ聞いていいですか」


俺が言う。


オスカーが頷く。


「明日、このまま左で署名したら」


第九十六日と書かれた説明紙を取る。


「この人たちには、いつ言うんですか」


「何を」


「俺が、そこまでやるって決めてなかったこと」


オスカーは紙を見る。


「今、君が受けるなら、言う必要はない」


答えは早かった。


「明日から、本当に第九十六日までやる契約に変える」


「はい」


「なら、未来の在席予定は本当になる」


「はい」


「君が受ければ」


「はい」


その通りだった。


ここまでの問題は、かなり消える。


俺が受ければ。


俺が第九十六日まで勇者として立つと決めれば。


これから署名する人にとって、少なくとも目の前の勇者が途中で消える予定ではなくなる。


「でも」


俺は紙を見る。


「これを読む人は、俺が二十三日残ると思うわけじゃないですよね」


オスカーは黙った。


「ユリウスが残ると思う」


「そうだ」


否定しなかった。


「それは、この七十三日ずっと同じだった」


「はい」


その通りでもあった。


今さら初めて嘘になるわけではない。


だから、余計に迷う。


オスカーが続ける。


「君が今受ければ、少なくとも未来の不在まで最初から仕込むことはなくなる」


「はい」


「それでも、今までの嘘と明日からの嘘を分けるのか」


俺はすぐ答えられなかった。


比較板を見る。


二日前、俺がいない未来でも和平が残るかを調べた。


残った。


小さくなった。


待つ人が増えた。


それでも残った。


前に、イレーネに言われたことを思い出す。


俺の判断を、ユリウスの判断にするな。


その時は、正しい結果を出せば少しはましだと思っていた。


今も、その気持ちはなくなっていない。


でも、明日署名される第九十六日は、もう起きたことの後始末ではない。


これから増やす予定だった。


「分けます」


俺は言った。


「ここまでは、もうやった」


それだけで喉が少し乾く。


「でも、明日から先のユリウスの約束まで、俺が増やすのはやめます」


オスカーはしばらく俺を見る。


「その違いで、人を待たせる?」


「待たせることになると思います」


「危険も増える」


「はい」


「君自身も損をする」


「はい」


答えるたびに、左側の札が重くなる。


それでも、なくならなかった。


* * *


「なら、右へ戻せばいい」


オスカーが言った。


その言葉は、責める声ではなかった。


「正体まで言わずに、勇者保証だけ外す。二日前に確認した通りだ」


「できます」


「その方が、公表より壊れるものは少ない」


「たぶん」


「だったら、なぜ全部言う」


今度は、俺が黙る番だった。


右側の板を見る。


勇者継続保証なし。


その一行だけなら、まだ出せる。


理由を言わずに。


信用を少し削って。


和平を小さくして。


それは、本当に残っている道だった。


「明日、右に戻すとして」


俺は言う。


「誰かが聞きますよね。なんで勇者は第九十六日まで保証しないのか」


「聞くだろうな」


「理由を言わないこともできる」


「できる」


「傷のせいにすることも」


「私は勧めない」


「はい」


また嘘になる。


それだけではない。


俺が会議場で勇者のまま、


**第九十六日までは約束しない**


と言えば。


それも、ユリウスが断ったことになる。


残ると決めても。


断ると決めても。


俺が勇者の名前で話す限り、明日から増える選択までユリウスのものになる。


「理由を言わずに、オスカーさんたちだけで条項を外すこともできますよね」


「できる」


「その方がたぶん安全です」


「そう思う」


「分かってます」


そこで一度、息を吐いた。


「でも、俺はそれを選びません」


イレーネの顔は見なかった。


「今までのことまで、全部正しかったと言う気はないです」


オスカーも何も言わない。


「ただ、明日から先の俺の判断まで、ユリウスが決めたことにして増やすのは、ここでやめます」


「そのために、公表する?」


「はい」


「右へ戻すだけより、悪くなるかもしれない」


「はい」


イレーネが腕を組んだまま言う。


「私は、明日の公表には反対してる」


「はい」


「混乱の間に何も起きないとは言えない。そこはさっき言った通り」


「はい」


「でも、第九十六日までやれとも言わない」


「はい」


「私が正しい方を決めてあげる話でもない」


「分かってます」


許された感じはしなかった。


たぶん、それでよかった。


オスカーが俺を見る。


「それでも?」


左には札が多い。


右には少ない。


明日、もっと減るかもしれない。


「それでも」


短くしか言えなかった。


長く言うと、自分でも正しく聞こえすぎる気がした。


実際、正しいかは分からない。


明日、門が閉じるかもしれない。


待つ家族が増えるかもしれない。


兵が戻るかもしれない。


それは全部、分かったままだった。


俺は第九十六日の紙を机へ戻す。


「明日、それをユリウスがいる未来として読ませるのは、やめます」


オスカーはすぐには何も言わなかった。


「右へ戻すだけじゃなく?」


「はい」


「何を言うつもりだ」


俺は比較板を見る。


それを見たまま答える。


「俺がノア・フェルンだって言います」


部屋は静かだった。


オスカーが目を閉じる。


短く。


それから開く。


「そうか」


反対も、説得も、もう一度はしなかった。


たぶん、さっきまでで全部だった。


俺は封筒をオスカーの方へ戻す。


受け取られなかったので、机の真ん中に残った。


嘘を続ける方が、安全だった。


少なくとも、明日だけを見るなら。


それでも明日、俺はその安全を壊す。


勇者の未来を約束する前に。


勇者が、もういないことを言う。

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