Episode 027 — 勇者は、もう死んでいる
七十四日目の朝。
会議場には、俺の席があった。
昨日までと同じだった。
中央より少し連合側。
背もたれが高い。
机の前には、勇者ユリウス・レグナートの名札。
右にイレーネ。
少し離れてオスカー。
向かい側にはセレクたち旧魔王軍側の代表団。
D地区席にはベアトリスがいる。
リーゼは中央の進行卓だった。
全部、知っている配置だった。
違うのは、今日で終わらせると俺だけが決めていることだった。
いや。
オスカーとイレーネも知っている。
それでも、会議場は普通に始まった。
係員が封印を確認する。
各席へ最終文面が配られる。
署名用の筆記具が並ぶ。
窓の外では《灰橋》の塔が見える。
橋そのものは建物に隠れていた。
進行卓の脇には小さな運用板がある。
**本日・会議中運用――通常。**
その下。
**批准成立後・拡大準備――待機。**
昨日までは、あの下に予定時刻まで書かれていた。
今日はまだ札だけだった。
会議が終われば、数字が入る。
たぶん。
俺が何もしなければ。
「では、最終文面の確認を開始します」
リーゼが言った。
声はいつもと変わらない。
俺は背筋を伸ばした。
いつもの姿勢だった。
やめるつもりなのに、始まると勝手に戻る。
七十三日もやれば、そうなるらしい。
少し嫌だった。
少し便利でもあった。
* * *
最初の三項目は、そのまま通った。
停戦線。
捕虜・抑留者の扱い。
主要区画の第二段階後退。
読み上げ。
確認。
異議。
修正なし。
次へ。
途中で一度、D地区の留保文言についてベアトリスが確認した。
リーゼが該当頁を戻す。
オスカーが既存回答を示す。
それだけで終わった。
誰も俺を見ない時間も長かった。
かなり助かる。
勇者の役は、見られる仕事だと思っていた。
見られないまま座っている時間の方が長い日もある。
それも今日で終わる。
文面が進む。
帰還。
灰橋。
第一保護期間。
係員が次の頁を開いた。
俺は紙を見た。
知っている行だった。
**第一保護期間中、勇者ユリウス・レグナートは公的活動を継続し、指定された二回の保護確認に出席する。**
前より少し文が変わっている。
でも、意味は同じだった。
第九十六日まで。
俺が昨日、断った未来だ。
係員が読み上げる。
「第一保護期間中――」
声が進む。
「勇者ユリウス・レグナートは――」
俺の名前ではない名前が会議場に響く。
「公的活動を継続し――」
そのまま最後まで読まれた。
リーゼがこちらを見る。
「勇者側、確認を」
ここで俺が頷けば。
次に旧魔王軍側。
その次に連合側。
最後に押印。
まだ、誰も受けていない。
俺は息を吸った。
ユリウスの時の吸い方だった。
胸を大きく開く。
声を低くする。
いつもの準備。
そこまでやってから、やめた。
肩を落とす。
顎も少し下げる。
たぶん、俺の普通の姿勢だった。
自分の姿勢を確認する仕事なんて、今までなかった。
「待ってください」
声も戻した。
会議場の何人かが顔を上げる。
リーゼが手を止めた。
「確認に異議がありますか」
「あります」
俺は名札を見る。
勇者ユリウス・レグナート。
「その前に、言わないといけないことがあります」
オスカーは動かなかった。
イレーネも。
セレクは紙を見たままだった。
ベアトリスだけが、最初からこちらを見ている。
「俺は、ユリウス・レグナートじゃありません」
一度、誰かが椅子を鳴らした。
「ノア・フェルンです」
名前を言う。
自分の名前なのに、会議場で言うのは初めてだった。
「ユリウスは、七十四日前に死にました」
今度は椅子が一つではなかった。
「この仕事が始まった日です。今ここにいる勇者として、俺が表に出る前に」
声を張る必要はなかった。
会議場はもう聞いている。
「俺は戦争中から、勇者の影武者をしていました。囮や、遠くから姿だけ見せる仕事です」
誰かが「何を」と言った。
別の席から「止めろ」と聞こえる。
俺は一度だけリーゼを見る。
彼女はまだ止めなかった。
だから続けた。
「ユリウスが死んだあと、停戦を壊さないために、俺がそのまま勇者として出ることになりました」
「誰の命令だ!」
今度ははっきり聞こえた。
連合側の後ろの席だった。
俺はそちらを見ない。
「国から頼まれました。オスカーさんたちからも」
オスカーの名前を出したところで、ざわめきが大きくなる。
「でも、全部を命令されたわけじゃありません」
そこだけ先に言った。
「この七十四日で、俺が自分で決めたこともあります」
イレーネの方は見なかった。
「この仕事が始まる前にユリウスがしたことは、ユリウスがしたことです」
「そのあと、俺が勇者の名前で決めたことは、俺が決めたことです」
長くなってきた。
止める。
最後に、目の前の頁を指した。
「だから、これをユリウスがこれから約束することにはできません」
そこまでだった。
謝る言葉はいくつも考えた。
どれを置いても、今は違う気がした。
許してもらうために言っているわけではない。
「この項目の確認を止めてください」
俺はリーゼに言った。
* * *
「会議を停止します」
リーゼの声が通った。
ざわめきより大きくはない。
でも、進行卓の鐘を一度鳴らすと、係員が動いた。
読み上げ用の紙が伏せられる。
押印箱の蓋が閉じる。
運用板の下段に、灰色の札が入る。
**批准成立後・拡大準備――保留。**
「発言は順に」
リーゼが言う。
当然、順にはならなかった。
「詐欺だぞ!」
「ユリウスが死んだ証拠は!」
「本人が錯乱している可能性は?」
「セレスタは何をしていた!」
「停戦自体はどうなる!」
一つずつなら答えられそうだった。
同時だと無理だった。
少し安心した。
俺が全部答える場ではないらしい。
オスカーが立つ。
「停戦命令は現時点で失効していない」
最初にそこを言った。
「各代表は、この会議場の発言だけを理由に部隊配置を変更しないでほしい。正式照会を出す」
「あなたは知っていたのか!」
今度はオスカーへ飛ぶ。
オスカーは答えなかった。
イレーネが立った。
昨日の夜には持っていなかった革鞄を、今日は足元に置いていた。
そこから細い封筒を出す。
封は二重だった。
俺も初めて見る。
「ノアが今言った中心部分について、私から証言します」
声は仕事の時と同じだった。
「ユリウス・レグナートが死んだ時、私はその場にいました」
俺は手を机の下で握った。
新しい話ではない。
でも、人前で聞くのは初めてだった。
「死亡確認のあと、遺体の保全移送に立ち会いました。その後、ノア・フェルンを勇者として運用することにも関与しました」
「あなたも知っていたのか」
誰かが言った。
「知っていました」
イレーネは答えた。
「私も、この偽装を続けた側です」
それだけだった。
俺を守る言葉はなかった。
必要なかった。
イレーネは進行卓へ封筒を差し出す。
「第一日の死亡確認と移送に関する、私の証言記録と引継ぎ記録です。外側の封印番号で照会できます」
リーゼが直接は受け取らず、記録係へ合図する。
記録係が外側だけを確認した。
「封印番号あり。セレスタ軍務・医務共同印」
「開封しないでください」
リーゼが言う。
「この場で内容を独自に開くと、照会経路が混ざります」
封筒は透明な保管箱へ入れられた。
俺の言葉より、扱いが丁寧だった。
少し変な気分だった。
リーゼが係員へ新しい紙を出す。
「セレスタ中央連絡所へ優先照会」
オスカーが何か言う前に続けた。
「照会名義はハルフェン会議進行局。今提出された封印番号と一致する第一日付の記録について、存在確認を求めます」
記録係が封筒の外側を読む。
リーゼが書き足す。
「対象名、ユリウス・レグナート。記録区分、死亡確認および遺体保全・移送。内容開示は求めません。索引と封印番号の一致のみを優先」
死亡確認。
その言葉が出ると、またざわめきが増えた。
係員が照会紙を受け取る。
会議場の横室に《伝文晶》がある。
扉が開く。
青白い光が一瞬見えた。
閉じる。
* * *
旧魔王軍側の席で、誰かがセレクに詰め寄っていた。
声は聞こえない。
セレクは一度だけ短く答える。
それから席を立った。
リーゼが目を向ける。
「アーデン代表」
「未来の勇者保証について、こちらの確認を止めます」
最初に言ったのはそれだった。
「この本人確認が終わるまで、私の側から当該項目への同意は出しません」
「今の発言を信じるのか」
連合側から声が飛ぶ。
セレクはそちらを見る。
「信じるかどうかだけで、帰る人間の安全条件は決めません」
いつもの答えだった。
「存在しない可能性が出た保証を、そのままあるものとして推薦しない。それだけです」
驚いている顔ではなかった。
それを見た人が、今度は別の意味でざわつく。
「お前は知っていたのか?」
聞かれた。
セレクは少し間を置く。
「私が何をいつ知ったかは、必要なら別に証言します」
「今は、帰還側として署名を止めます」
答えなかった。
でも、驚いていないことも隠さなかった。
味方になったわけではない。
俺の方を一度も見なかった。
それでよかった。
* * *
D地区席では、ベアトリスが紙を三枚並べていた。
俺の方ではなく、イレーネの保管箱と進行卓を見ている。
「ハルツ司令」
リーゼが呼ぶ。
「今は発言を求めていません」
「そうですか」
リーゼはそのまま照会記録へ戻る。
ベアトリスは何も言わなかった。
机の上に置いた紙の一番上は、前に見せられた軍の記録紙と似た形式だった。
遠くて、何が書いてあるかまでは分からない。
俺は進行卓へ視線を戻した。
「回答まで?」
誰かが聞く。
「優先照会です。セレスタ側が封印索引へ接続できれば、存在確認だけなら早い」
リーゼが答えた。
「それまでは批准手続きを停止します」
「灰橋は!」
「現在運用は直ちに変更しません」
リーゼは運用板を見る。
「ただし、批准成立を前提とした拡大枠、第二・第三帰還便、第一保護期間の新規実施指示は保留します」
昨日まで白かった札が、また灰色に戻っていく。
オスカーが小声で係員を呼ぶ。
「各前線連絡へ、現停戦命令継続。新規配置変更は各正規指揮系統の確認待ち、と送れ」
「ハルフェン経由で?」
「各政府の既存回線だ。会議の正式結論としては送るな」
そこは分けるらしい。
オスカーは俺を見なかった。
俺も見なかった。
昨日までなら、こういう時は何を言うか聞かれたかもしれない。
今日は誰も聞かなかった。
当然だった。
俺はもう、一番信用できない説明材料だった。
* * *
待っている間に、会議場は三つくらいに割れた。
席を立って話す人。
座ったまま紙を読み直す人。
外へ伝令を出そうとして、リーゼの係員と揉める人。
完全に止められてはいない。
止める権限も、たぶんない。
ただ、ハルフェンから出す正式連絡だけは一本にまとめるらしい。
俺は席にいた。
名札もまだある。
勇者ユリウス・レグナート。
外していいのか分からなかった。
自分で外すと、少し芝居っぽい気もする。
だから触らなかった。
誰かが俺へ近づこうとした。
イレーネが保管箱の横から戻り、俺の席と相手の間に入った。
護衛として。
相手は止まった。
イレーネは俺を庇う言葉を言わない。
でも、殴らせるわけでもないらしい。
仕事だった。
「本当にノア・フェルンなのか」
離れた席から聞かれた。
「はい」
「証明できるのか」
「俺一人では」
それだけ答えた。
「なら黙っていろ!」
別の声が飛ぶ。
黙った。
かなり正しい。
今日は、俺が喋れば喋るほど証明になる日ではない。
* * *
横室の扉が開いた。
会議場の声が少し落ちる。
係員が紙を持って出てくる。
走らなかった。
その方が余計に目立った。
リーゼが受け取る。
紙の上を読む。
一度、イレーネの保管箱を見る。
封印番号を記録係が読み上げる。
リーゼが紙と照合する。
「セレスタ中央連絡所から、第一回答」
誰も完全には黙っていない。
それでも、声は聞こえた。
「照会した封印番号と一致する索引記録の存在を確認」
紙を一枚めくる。
「第一日付」
「対象名――ユリウス・レグナート」
俺の前の名札と同じ名前だった。
「記録区分――死亡確認、遺体保全移送」
今度は、誰もすぐには叫ばなかった。
リーゼは続ける。
「内容の開示、および現物照合には追加承認が必要。確認手続きへ移行する、とのことです」
ベアトリスが初めて椅子から立った。
旧魔王軍側でも何人かが立つ。
オスカーはもう別の紙を書いている。
イレーネは俺の席の横に戻っていた。
セレクは席へ戻っていない。
リーゼが鐘を二度鳴らす。
「本日の批准手続きは停止します」
今度は、誰も聞き返さなかった。
進行卓の運用板から、最後の白い札が外される。
**批准成立後・拡大準備。**
その場所が空く。
俺の名札だけが、まだ机の前に残っていた。
勇者ユリウス・レグナート。
さっきまでなら、俺が違うと言っているだけだった。
今は違った。
死亡確認の記録がある。
俺の声ではないところから、その事実が返ってきた。
勇者は、もう死んでいる。




