Episode 024 — みんな、勇者が明日もいるつもりで準備している
勇者が明日もいると、橋の幅まで変わるらしい。
六十六日目。
《灰橋》の東詰めでは、朝から白い線を引き直していた。
一本。
二本。
三本。
前に来た時より、通す列が一つ増えている。
「そこ、あと半歩西」
リーゼが言う。
職員が縄を張り直す。
「荷車列と徒歩列の間を空けて。医療移送が入った時に潰れます」
「はい」
別の職員が板を運んでくる。
**第一保護期間・拡大運用案。**
下に時間が並んでいる。
朝。
昼。
夕方。
今より二刻長い。
「もう広げるんですか」
俺が聞く。
「まだです」
リーゼは即答した。
「準備だけ」
「最近、その言葉をよく聞きます」
「準備は、決まってから始めると遅いので」
正しい。
困るくらい正しい。
橋の外側では、見物人用の柵も動かしている。
前より後ろへ。
「そこも?」
「初期運用日に勇者立会い予定が入っているので」
リーゼが紙を見る。
「人が増える前提で外を広く取ります」
「立会い、確定してました?」
「私は最終確定を受けていません」
「ですよね」
「ですが警備側から仮予定が来ています」
白い線がまた一本伸びる。
俺が来るかどうかは決まっていない。
俺が来た時の柵は、もう動いている。
橋の端には別の大きな板があった。
部隊移動表。
第二段階後退。
北側二隊――梱包開始。
中央――引継ぎ時刻確定待ち。
南側――車両割当済み。
D地区。
そこだけ赤い札が二枚残っている。
**第三警戒隊・現位置維持。**
**南支線・安全条件再確認。**
「そこはまだ?」
俺が聞く。
答えたのはイレーネだった。
「ハルツ司令官側が、二点を未了にしてる」
「撤収拒否?」
「全部ではない」
イレーネは板を見る。
「主力の荷造りは始まってる。第三警戒隊と南支線だけ残す案」
「理由は」
「未回収武器の照会と、南側集落からの警備要請」
前に聞いた話の続きだった。
消えてはいない。
橋のこちらで線が増えても、向こうではまだ兵が一つ残る。
「勇者殿」
職員に呼ばれる。
「試験運用日の立ち位置だけ確認を」
足元に、小さな丸が白墨で描いてあった。
俺用らしい。
「ここ?」
「はい。通行列から三歩、見物柵から六歩です」
かなり具体的だった。
本人の予定より。
* * *
六十七日目。
帰還準備区画では、箱に番号がつき始めていた。
三十一。
三十二。
三十三。
家族番号と出発候補枠。
箱の横には色札。
青は徒歩。
黄色は荷車。
白は医療確認あり。
家畜は別だった。
山羊は今日も別扱いだった。
制度として一貫している。
「第四便希望で?」
係員が家族に聞く。
若い夫婦と、十歳くらいの男の子。
夫が紙を見る。
「第三便でもいいです。勇者様が最初の保護期間はいるんですよね」
係員の口が止まった。
前なら、そのまま頷いたかもしれない。
今日はセレクが隣にいた。
「その条件は確定していません」
夫が振り向く。
「でも、説明には」
「案に入っています」
セレクが言う。
「帰還側として、そこはまだ確認していません」
「じゃあ、何が決まってるんです」
係員が別紙を出した。
「第三便なら、西側中継所までの護衛。ハルフェン通行許可。到着後二泊分の宿。医療所の受付枠。ここまでは仮確定です」
「勇者様は?」
また俺を見る。
「先の予定は決まっていません」
昨日までと同じ答えだった。
夫婦は小声で話す。
子供は番号札を指で曲げている。
「じゃあ、第四便のままにします」
夫が言った。
「母親があとから来るので。最初が落ち着いてからにします」
係員が三十三の札を外す。
第四便の欄へ移す。
小さな変更だった。
箱は動かない。
番号だけが一つ動く。
でも、その家族が道へ出る日が変わった。
少し離れた椅子には、前に母親の登録札を二枚持っていた女もいた。
今日は一枚だけ係員へ出している。
自分の分だった。
母親の札は膝の上に残っている。
「お母様は?」
係員が聞く。
「もう少し条件が決まってからにします」
そう答えた。
俺とは目が合わなかった。
それでよかった。
その隣では、別の家族が箱へ蓋をしている。
紐を掛ける。
名前を書く。
出発候補日を書く。
まだ全部、候補だった。
候補なのに、荷物はもう箱の中にある。
「セレクさん」
俺は聞いた。
「このまま条文が残ったら?」
「私の意見は変わりません」
「帰還を勧めない」
「その保証を条件にするなら」
セレクは番号札の列を見る。
「私の側が勇者の継続を前提に動くよう勧めることはしません」
「条文が署名されたら?」
「署名されたから、存在しない同意が生まれるわけではない」
俺を見る。
「あなたが受けたなら別です」
「受けてません」
「なら、今は同じです」
短かった。
味方の言葉ではない。
確認の言葉だった。
それで十分だった。
区画の奥で、三十六番の箱が荷車へ積まれる。
試験積載らしい。
人はまだ乗らない。
でも、どの箱をどの順番で積むかは決まり始めている。
* * *
六十八日目。
会議場には、まだ誰も座っていなかった。
椅子だけが並んでいる。
長机。
連合側。
旧魔王軍側。
ハルフェン。
中立記録席。
壁際には封蝋箱が三つ。
机の中央には、条文の束。
一部ずつ紐で結ばれている。
署名欄だけ空白だった。
床には警備導線の矢印まで描かれている。
「ここまでやるんですね」
俺が言う。
イレーネが入口の幅を確認しながら答える。
「当日に机の位置から決めたくないから」
「最近、その理由ばかり聞いてる気がします」
「正しいから使われる」
仕事の声だった。
机の端に、最終協議用の保護保証条項案が置いてある。
例の一行も残っていた。
**勇者ユリウス・レグナートは、第一保護期間の移行確認まで、公的保護保証の立会主体として継続する。**
**予定確認日・第九十六日。**
その横に、小さな注記が増えている。
**帰還側代表――留保。**
消えてはいない。
決まってもいない。
でも印刷はされている。
「見た?」
後ろからオスカーの声がした。
「はい」
「セレク側の留保も?」
「はい」
オスカーは俺の横へ来る。
紙を一枚めくる。
「他はかなり詰まった」
「どこが?」
「橋の拡大。主力後退。帰還者の所在確認。医療移送。ハルフェンの通行権限」
一つずつ指す。
「D地区の二点は残っているが、全体停止ではない」
「勇者のところも残ってます」
「そうだ」
否定しない。
「君が九十六日まで受けるなら、一つ減る」
かなり簡単に言った。
「受けてません」
「分かっている」
即答だった。
「だから、まだ留保だ」
オスカーは条文から視線を上げる。
「ただ、今見てきただろう」
橋。
箱。
兵の板。
言われなくても浮かんだ。
「勇者がいることで、動きやすくなる人間はいる」
「はい」
「第九十六日まで必要だと決まったわけじゃない。だが第一保護期間の最初を越えるまで、同じ顔が立っている方が説明は少ない」
「俺の顔が」
「勇者の顔が」
オスカーは言い直さなかった。
俺も直さなかった。
「外すなら?」
「外せないとは言わない」
少し間がある。
「ただし、いくつかは確認し直す。帰還側が何を代わりの保証として受けるか。橋側が外側警備をどう置くか。D地区がそれを弱体化と取らないか」
「時間がかかる」
「かかる」
「会議までに?」
「今の形よりは難しくなる」
全部、本当なのだと思う。
だから困った。
オスカーは続ける。
「君が同意していない日程を、出席確定として扱うつもりはない」
「はい」
「だが、同意を頼むつもりはある」
「はい」
「それで助かる人間がいるからだ」
「分かってます」
そこも本当に分かっていた。
条文の束の隣に、配布予定表があった。
署名後。
各帰還区画へ確定条件配布。
各部隊へ第二段階後退通知。
《灰橋》拡大時間掲示。
家族出発枠確定。
全部、署名のあとに一斉に動く。
今はまだ箱の番号を変えられる。
母親の札を膝に残せる。
兵も、荷造りしたまま待てる。
橋の白線も、使わずに済む。
署名されたら。
係員は「案です」と言わなくなる。
帰る人は、それを条件として選ぶ。
兵は、その条件として場所を空ける。
俺があとから「やっぱりいません」と言うなら。
その時には、もう選んだあとだ。
「オスカー」
「何だ」
「会議の前に、一度だけ話したいです」
「今も話している」
「俺がいない形で、どこまで成立させられるか」
オスカーは黙った。
「八十一日で終わる前提で?」
「はい」
「外した場合に失うものも見る?」
「見ます」
「それでも無理なら」
そこで少し止まった。
まだ、人のいない会議場だった。
空の署名欄が並んでいる。
今なら、まだ誰もそこへ名前を書いていない。
「その時は、別の話をします」
オスカーが俺を見る。
何の話かは聞かなかった。
「明日の朝」
それだけ言った。
「分かりました」
俺は条文を閉じる。
自分が帰る日を取り戻すだけでは、もう足りなかった。
俺がいない未来を、いることにしたまま選ばせない。
その方が先だった。
公にする前に、あと一度だけ。
俺が九十六日までいることを、条件から外す方法を全部見る。
その先は、それを見てから決める。




