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勇者が死んだので、俺が“勇者だったこと”にされた  作者: 綴木 灯
第三章「勇者からずれていく」

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Episode 023 — 知っている相手にも、まだ足りない真実がある

帰る日より先に、毛布の枚数が決まる。


毛布。


乾パン。


水桶。


荷車の番号。


同行人数。


持病。


家畜。


戻る家が残っているかどうか。


ハルフェン東側の帰還準備区画では、人がまだ動くと決めていないうちから、その人が動いた場合の荷物が並べられていた。


「三人家族、荷車一台は出ません」


係員が言う。


「共同積載なら二箱までです」


「鶏は?」


「籠なら一つ」


「山羊は?」


「別便です」


家族の父親が困った顔をする。


山羊のほうは、少し離れた柵の中で草を食べていた。


本人より落ち着いている。


俺は口を挟まない。


山羊の輸送について勇者の意見を求められても、たぶん困る。


隣ではセレクが、帰還登録の説明票を一枚ずつ見ていた。


今日の彼は、帰る人間を直接決めるわけではない。


旧魔王軍側の集落や家族へ、戦後の拡大帰還に参加することを勧められる条件かどうかを確認している。


勧める、と言っても簡単ではない。


家を出たままの人間に、今度は戻れと言う仕事だ。


「この欄は何です」


セレクが聞いた。


係員が覗き込む。


説明票の下から二段目。


**第一保護期間中の主要移動・確認には、勇者立会いを予定。**


「帰還開始後の保護説明です」


「確定ですか」


「調整中です」


「確定していないものを説明票に?」


係員が少し困る。


「正式配布前の作業稿です。今日は代表者確認用で」


「なるほど」


セレクは怒らなかった。


赤い鉛筆で、欄の横に線を引く。


「では、ここは未確定と分かるようにしてください」


「はい」


その時、向かいの机にいた女がこちらを見た。


六十くらい。


登録札を二枚持っている。


一枚は本人。


もう一枚は、八十三歳の母親のものだった。


「すみません」


係員がそちらへ向く。


「勇者様は、最初の間は向こうにも来てくださるんですか」


係員ではなく、俺を見る。


勇者が目の前にいるので、仕方がない。


「まだ決まっていない予定があります」


俺は答えた。


「今ここで、いるとは約束できません」


女は少し残念そうな顔をした。


「母が怖がっていて」


登録札を見る。


「前に戻ろうとした時、道が閉まったんです。勇者様が最初の間いるなら、今度は先に母を出そうかって」


俺は返事を止めた。


隣で、セレクも女を見ている。


女は急かさなかった。


ただ、答えを待っていた。


一人を動かすかどうかの答えだった。


「その条件で決めるなら」


セレクが先に言った。


「今日はまだ登録を確定しないでください」


女がセレクを見る。


「勇者様が来ないんですか」


「確認できていません」


「でも、紙には」


「だから確認します」


セレクは説明票を伏せた。


女は少し迷ったあと、二枚の札を持ったまま待機側の椅子へ戻った。


俺はその背中を見る。


母親を先に出すか。


一緒に残るか。


紙の一行で変わるらしい。


そして、その一行について、セレクはまだ知らないことがある。


俺は知っていた。


知っていて、横に立っていた。


「セレクさん」


「何です」


「この欄を使って帰還を勧めるなら、先に話があります」


セレクの目が俺へ向いた。


前に本当の名前を話した時と同じ目だった。


答えを急がない代わりに、知らないまま印は押さない人の目。


「どの話です」


「俺がいつまでいるかです」


少しだけ間があった。


「聞きます」


* * *


俺たちは区画を出なかった。


人の少ない裏道へ回る。


寝具を積む倉庫と、空の荷車を並べる柵の間。


職員が時々通るが、近づけば見える。


イレーネが少し後ろを歩いている。


何も言わない。


俺がセレクを呼んだ時も、止めなかった。


荷車の車輪を一つ、作業員が持ち上げている。


木槌の音がする。


「前に話した時」


俺は言った。


「ユリウスが死んだことと、俺が替え玉だというところまで話しました」


「覚えています」


「その時、いつ終わる予定かは話してません」


「ええ」


「最初は、七十四日目の会議まででした」


セレクが歩く速さを少し落とす。


俺も合わせる。


「会議がまとまれば、七十六日から七十八日くらいで、ユリウスは傷が悪化して死んだことにする。そこで俺の契約も終わる予定でした」


セレクはすぐには何も言わなかった。


木槌が二回鳴る。


「死んだ人間を」


やがて言う。


「もう一度、死んだことにする予定だった」


「はい」


「それが、今は違う」


「少し延ばしました」


「どこまで」


「俺が受けたのは八十一日までです」


セレクが止まった。


今度は俺も止まる。


「受けた、ということは」


「八十日か八十一日までなら続けると、俺が言いました」


「その先は?」


「必要なら、また話すことになってました」


「話した?」


「まだです」


セレクの顔から、何かが一つ消えた。


驚きではない。


たぶん、今まで置いていた前提だった。


「では、さっきの紙は」


「八十一日より先も、俺がいる前提で作り始めています」


「何日まで」


「今見えているのは九十六日です」


今度は、かなり長く黙った。


空の荷車が一台、俺たちの横を通る。


作業員が会釈する。


俺も返す。


セレクは何も見ていないような顔で、その荷車を見送った。


「あなたは九十六日まで続けると約束していない」


「してません」


「ですが、帰還側には勇者がいる前提の説明を出し始めている」


「はい」


「連合側も?」


「警護や宿は、その前提で仮に押さえています」


セレクが俺を見る。


「いつ終わるんです」


「今、それを決め直そうとしています」


「決まっていない?」


「はい」


短く答える。


それ以上、よく見せる言い方はなかった。


* * *


セレクは歩き出した。


俺も隣へ戻る。


少し先で、毛布の束が荷車へ積まれている。


八枚。


十枚。


十二枚。


必要な数だけ増える。


「ノア・フェルン」


久しぶりに、その人から名前で呼ばれた。


「はい」


「最初にあなたが話した時、私は三便を出すかどうか決めていました」


「はい」


「だから、誰が今の判断をしているかが必要だった」


「はい」


「今は違う」


セレクが、登録区画のほうを見る。


待機椅子に、さっきの女がまだいる。


「これから動く人に、何を頼りにしていいかを説明する側です」


声は静かだった。


「あなたがノアだと知っているだけでは足りなかった」


「はい」


「最初から、そこまで分かっていた?」


「いいえ」


本当だった。


あの時は、終わる日が動くこと自体を、今ほど問題だと思っていなかった。


「三日前に、自分の帰る道を確認して分かりました」


「何を」


「待っていても、終わる日は勝手には来ないことです」


セレクは俺を見た。


笑わなかった。


俺も笑うところではないと思った。


「それで今日話した?」


「はい」


「私があの人に帰れと言う前に」


「はい」


セレクはそこで、初めて少し息を吐いた。


「遅い」


「はい」


「ですが、今日より後ではもっと遅い」


「そう思います」


そこまでだった。


許したとは言われなかった。


俺も、許してほしいとは言わなかった。


* * *


登録区画へ戻ると、さっきの女が立ち上がった。


セレクが先に彼女のところへ行く。


「確認しました」


「勇者様は?」


「最初の保護期間を通して立ち会うことは、確定していません」


女の眉が寄る。


「じゃあ、どうすれば」


「勇者がいることを条件に、お母様を先便へ乗せる判断はしないでください」


セレクは説明票を指した。


「道の護衛、宿、医療、次の引継ぎ担当。確定している条件だけで考えてください」


「勇者様はいなくなるんですか」


俺を見る。


答えられる範囲は狭かった。


「先の予定は、まだ決まっていません」


それだけ言った。


女は納得した顔ではなかった。


でも、二枚の登録札をすぐ係員へ渡すこともしなかった。


椅子へ戻り、母親用の紙をもう一度読み始める。


選ぶのを止めたのではない。


条件を一つ減らして、選び直している。


俺が嘘を一つ減らした結果としては、かなり地味だった。


たぶん、それでよかった。


* * *


昼過ぎ、セレクは自分の確認票を机へ置いた。


帰還側代表者意見。


項目は四つ。


道。


宿。


護衛。


初期保護。


最初の三つには印がある。


最後だけ空白だった。


「押さないんですか」


俺が聞く。


「今の文面には」


「理由は」


「未来の勇者を条件に含めているからです」


係員が困った顔をする。


「勇者立会いは補助条件です。帰還そのものの法的条件では――」


「なら、外してください」


セレクが言った。


声は強くない。


「外して成立するなら、それで構いません」


「こちらだけでは文面を変えられません」


「分かっています」


セレクは空欄のまま紙を返す。


「評議府へ、帰還側はこの保証を未確認としていると送ってください」


「理由も?」


少しだけ間があった。


「継続主体と期間が確定していないため、と」


俺を見ることはなかった。


秘密を紙へ書く必要はない。


でも、知らないふりをして印を押すこともしなかった。


「今、公に言わないんですね」


人が離れてから、俺は聞いた。


セレクがこちらを見る。


「前にも言いました」


「はい」


「今壊す方が、こちらに高くつく間は、私はその計算をします」


「はい」


「ですが」


空欄の確認票を指す。


「知らない人間に、これからの行動を選ばせるための嘘まで推薦するつもりはありません」


短かった。


俺は頷く。


「私の側が帰るなら」


セレクは続けた。


「誰が守るのか。いつまでなのか。途中で変わるなら何に変わるのか。その条件で決めさせます」


「勇者が必要だと言われたら?」


「本当に必要なら、必要だと書けばいい」


「でも俺が受けていない」


「なら、受けているとは扱わない」


それだけだった。


俺より簡単に聞こえた。


簡単だからできる話ではないことは、もう分かっていた。


* * *


夕方、評議府から新しい紙が届いた。


封はまだ仮文書の灰色だった。


ただ、表には前より大きく書いてある。


**最終協議用・保護保証条項案。**


係員がセレクへ渡す。


「午前の照会を受けて、現行案を共有するようにとのことです」


セレクが開く。


俺は隣から見る。


最初の項目。


連合側警備隊の配置。


次。


ハルフェンの通行許可。


医療移送。


帰還者所在確認。


その下。


一行だけ、よく知っている名前があった。


**勇者ユリウス・レグナートは、第一保護期間の移行確認まで、公的保護保証の立会主体として継続する。**


括弧。


**予定確認日・第九十六日。**


セレクの指が、その行で止まる。


「これです」


俺が言った。


「ええ」


セレクは紙を閉じなかった。


「この文面では、私は帰還を勧めません」


怒鳴らなかった。


紙を破りもしなかった。


ただ、印を押す場所が一つ減った。


帰る人の荷物は、もう向こうで積まれ始めている。


その横で、未来の勇者だけが、まだ本人より先に九十六日目へ行っていた。

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