Episode 022 — 「あと少し」が、終わらない
予定は、本人に聞く前でも書けるらしい。
四日前に頼んだミレア行きの確認は、通行証ではなく赤い紙になって戻ってきた。
**要調整。**
それだけ書いてある。
「悪い意味ですか」
俺が聞く。
「普通の意味」
イレーネが答えた。
「普通の人なら?」
「窓口で終わる」
少し悪い意味だった。
ハルフェンの勇者宿舎から、警備棟の廊下を二つ抜ける。
途中に扉が四つあった。
護衛交代。
公務移動。
緊急路。
個人移動。
俺が入りたかったのは最後だった。
案内されたのは、その隣の公務移動室だった。
「勇者殿はこちらです」
係員が言う。
「個人移動では?」
「現在の勇者殿の行程が、一括警護になっておりますので」
四日前なら、たぶんその言葉を聞き流した。
今日は、それを確認しに来た。
* * *
部屋の壁には、大きな予定板が掛かっていた。
人の名前ではなく、役職ごとに列が分かれている。
調整官。
判事。
護衛班。
勇者。
俺の列だけ、紙が長かった。
係員が八十日目の欄を指す。
**ハルフェン東帰還登録所・拡大登録開始立会い。**
知っている。
俺が行くと言った。
八十日なら、と。
その下。
八十四日目。
**D地区第二段階後退・共同確認。仮。**
八十八日目。
**《灰橋》保護回廊拡大・警護確認。仮。**
九十二日目。
**拡大帰還準備・保護計画共同確認。合意成立時・仮。**
九十六日目。
**第一保護期間・移行確認。合意成立時・仮。**
後ろの予定ほど、条件が増えている。
そのわりに、護衛班の列には番号が入っていた。
八十四日。
八十八日。
九十二日。
九十六日。
馬車の欄にも印がある。
宿泊先の欄にも。
「八十四日から先、聞いてません」
俺が言う。
係員は頷いた。
「出席確定ではありません」
「じゃあ、この護衛は?」
「必要になった場合に備えた先行確保です」
係員が別の帳面を出す。
「D地区は護衛編成に時間がかかります。《灰橋》側も同じです。確定してからでは間に合わない可能性があるので」
それ自体は、分からなくもなかった。
芝居でも、役者が決まる前に劇場だけ押さえることはある。
普通は、役者本人の帰り道まで消えない。
「ミレアへの通行証は?」
「この行程と警護の終了点が決まらないと切れません」
「終了点」
「勇者殿の公務警護から個人移動へ引き継ぐ地点です」
係員が予定板を見る。
「現行表には、その引継ぎがありません」
そこが一番短い答えだった。
「八十一日で終わる予定でした」
俺が言う。
係員の手が止まる。
「その契約上の話は、こちらでは確認できません」
当然だった。
この人に秘密の契約を説明するわけにもいかない。
「調整官を呼びますか」
「お願いします」
係員が出ていく。
扉は閉まった。
残ったのは俺とイレーネと、九十六日まで続く紙だった。
* * *
「護衛を外せば、個人で出られます?」
俺が聞く。
イレーネは予定板を見たまま答えた。
「私の判断だけでは外せない」
「危ないから?」
「それもある」
「他には」
「今の警護命令に、終了の引継ぎがない」
同じ言葉だった。
「あなたを次の担当へ渡すか、警護終了の指示を受けるまで、私の仕事は続く」
「俺が要らないと言っても?」
イレーネが俺を見る。
「今のあなたが勇者として四日公道を移動するなら、私一人の判断で無警護にはしない」
「そうですよね」
そこは責める話ではなかった。
俺でも、今の顔のまま一人で宿場を歩くのは嫌だ。
偽物だと疑っている司令官までいる。
別の意味でも目立つ。
イレーネの視線が、予定板の右端で止まった。
小さな欄がある。
**最終要警護。**
その横に、九十六日。
「……この書き方」
イレーネが言った。
声が少し低くなった。
「何ですか」
返事の代わりに、彼女は壁際の椅子へ置いていた革の書類鞄を開けた。
中から薄い綴りを一冊出す。
表紙には、**勇者警護・引継ぎ参考**。
「今の護衛を組む時、セレスタから持ってきた旧行程の控え」
中から、端の擦れた紙が三枚出てきた。
今の予定表より古い。
折り目も多い。
一枚目。
勇者行程。
名前はユリウス・レグナート。
細かい行き先は、今の俺には意味が分からない略号ばかりだった。
でも右端は読めた。
**最終要出席。**
日付が一本、線で消されている。
その下に別の日付。
それも消されている。
さらに下に、もう一つ。
二枚目も似ていた。
三枚目も。
最後のはずの欄だけが、何度も下へ伸びている。
「これ、全部ユリウスの?」
「そう」
「毎回、予定が変わった?」
「追加が決まるたびに」
イレーネは紙を一枚取る。
「ここを直して、護衛を組み直した。馬を変えて、宿を変えて、引継ぎ先を変えた」
「イレーネが?」
「私も」
一度だけ紙を見る。
「オスカーが話を持ってきて、ユリウスが受けた。そのあと私たちが行程を作り直した」
俺は、消された日付をもう一度見る。
約束の数ではなく、最後の場所そのものが後ろへ動いている。
「その時は、どこが最後だと思ってたんです」
イレーネは少し黙った。
「紙に書いた日は」
指で、消された日付を押さえる。
「そこ」
答えは短かった。
三枚とも、最後が違った。
* * *
オスカーが来たのは、その紙を机へ並べたあとだった。
「移動申請で問題が出たと聞いた」
部屋へ入って、最初に今の予定板を見る。
次に、机の古い紙を見る。
「ああ」
驚かなかった。
「昔の行程表か」
「今のと似てました」
俺が言う。
オスカーは椅子を引いた。
「似ているだろうな。同じ種類の仕事だから」
「俺が受けたのは、八十一日までです」
先にそこを言った。
「分かっている」
オスカーはすぐ答えた。
少しだけ肩の力が抜ける。
「八十四日から先は?」
「君の出席は未承認だ」
「九十六日も?」
「当然だ」
そこまで認めるなら、話は簡単なはずだった。
予定板を見る。
簡単には見えなかった。
「じゃあ、どうしてここまで」
「必要になる可能性があるから、先に警護と場所を押さえている」
オスカーが八十四日の欄を指す。
「D地区の後退確認。今の状況で、現地側が予定どおり兵を下げるかはまだ不安定だ」
次。
「《灰橋》の拡大。通行量を増やすなら、最初の数日は外側の警備も増える」
九十二日。
「拡大帰還が合意まで進めば、最初に動く家族が出る。勇者がいることを安全材料にする人間もいる」
九十六日。
「第一保護期間の引継ぎ。誰が次の保証を持つか、まだ固まっていない」
全部、用事だった。
記念式典は一つもない。
「全部、俺がいないとできません?」
「できないとは言わない」
オスカーは答えた。
「八十日の登録も同じだ。君がいなくても手順は動く。ただ、いることで動く人がいる」
前にも聞いた言葉だった。
だから余計に困る。
「君に九十六日までやると承諾させたつもりはない」
オスカーが続ける。
「だが必要になってから護衛を探すのでは遅い。道路も宿も、他の部隊と重なる。仮枠は先に取る」
「分かります」
俺は言った。
本当に分かる部分だった。
「でも、仮の予定に俺の帰り道がありません」
オスカーはすぐには答えなかった。
机の古い行程表へ視線が落ちる。
「個人移動を今確定できないのは事実だ」
「いつならできます?」
また間があった。
「今は答えられない」
やっと、予定板より短い答えが返ってきた。
* * *
俺は上着の内側へ手を入れた。
青い印の封筒。
人前では出せない。
今は、部屋にいる三人とも俺の名前を知っている。
机へ置く。
表には、**ノア・フェルン殿**。
オスカーが見る。
イレーネも見る。
中の紙を出す。
「九十二日午後です」
オスカーが一度、文字を読む。
「青灯座か」
「はい」
九十日から九十四日。
指定は九十二日の午後。
空きがあれば期間内の振替。
九十四日を過ぎれば無効。
「八十一日に終われば、四日でミレアへ行けます」
それは前に計算した。
「九十二日にここへいる予定なら、指定には行けない」
予定板を見る。
「九十六日までなら、振替も終わってます」
オスカーは紙を机へ戻した。
「この予定は初めて見た」
「はい」
「だからといって、今ここで九十六日までの仮枠を全部消すとは言えない」
「分かってます」
必要な用事なのは、もう分かっていた。
比べたいわけではなかった。
「俺が聞きたいのは」
紙を戻す。
「どこで終わるかです」
オスカーは何も言わない。
俺は机に並んだ古い行程表を見る。
「これも、最初は仮だったんですか」
「最初は」
オスカーが答えた。
「その都度、ユリウスと話した。彼は受けた」
「全部?」
「私が勝手に出席させたものはない」
そこは今と違った。
「必要だった?」
「必要だったと思っている」
迷いはなかった。
「少なくとも、どれか一つを今になって無駄だったとは言わない」
イレーネは反論しなかった。
古い紙を一枚ずつ重ねる。
「そのたびに、また最後を決めた」
俺が言う。
答えたのはイレーネだった。
「予定表では」
最後の紙を揃える。
「そう」
オスカーが今の予定板を見る。
「今も、理由は同じだ。誰かが待っている。そこに勇者がいることで、危険が少し下がる可能性がある」
「はい」
否定できなかった。
だから、八十一日の次が八十四日になっている。
八十四日の次が八十八日。
その次が九十二日。
九十六日。
どれも、一つずつなら大きく見えない。
* * *
「八十一日以降の出席は、俺が受けたことにしないでください」
俺が言う。
「していない」
オスカーが答える。
「それと、終わる日を決める話を先にしたいです」
「必要な資料を揃える」
「いつ」
「今日ここで日付は出せない」
正直だった。
嬉しくはなかった。
「分かりました」
俺は青い封筒を上着へ戻す。
古い行程表はイレーネが綴りへ戻した。
今の予定板だけが壁に残る。
九十六日。
その行の備考には、小さく書いてあった。
**拡大帰還保護条件・調整中。**
まだ合意していない人たちの予定まで、そこにつながり始めている。
八十一日までなら、と俺は言った。
そのつもりだった。
待っていれば、七十四日、七十八日、八十一日と数字が来て、その先で終わると思っていた。
古い紙を見る限り、最後という数字は、自分では止まらない。
なら、終わる方の予定だけは、自分で作らないといけない。




