Episode 017 — その名前で、勝手に正しくなるな
言い争いは、歩きながらするには向いていない。
息が切れるからではない。
イレーネが仕事を止めないからだ。
翌朝、ドラン東門の外には荷車が六台並んでいた。
昨日、旧所属名簿の欠落だけを理由に留置されていた人たちのうち、帰還手続きが終わった者を次の中継所まで送る便だった。
本当なら、もっと早く出ていたらしい。
昨日の再照合で遅れた。
護衛も組み直した。
一つ前の便へ回るはずだった家族が残り、逆に今日の便から次へ回された家族もいる。
人を縄の外へ出したら、それで昨日の話が終わるわけではなかった。
「三号車、荷物一つ多い」
イレーネが台帳を見ながら言う。
係員が荷台を数え直す。
「寝具です」
「誰の」
「第五家族」
「第五家族は二号車」
「あ」
寝具が下ろされる。
別の荷車へ積まれる。
その横で、昨日赤い紙を外された五十代の男が子供の外套を結び直していた。
父親なのか祖父なのかは、まだ分からない。
聞く必要もない気がした。
「勇者殿は第四車の後ろ」
イレーネが俺へ言う。
「はい」
「前へ出ない。列が止まっても、私が呼ぶまでその位置」
「分かりました」
昨日と同じくらい具体的だった。
ただ、声が少し仕事だけだった。
たぶん気のせいではない。
「昨日の質問なんですけど」
俺が言う。
イレーネは台帳から顔を上げない。
「私が聞いたの」
「そうでした」
一台目の馬が動く。
話を始めるには、ちょうど悪いタイミングだった。
そのまま列も動き始めた。
* * *
東門を出てしばらくは、道が広かった。
荷車が二台並べるくらいある。
実際には並べない。
前後を護衛が挟み、旧補助部隊側から戻る家族と荷物が真ん中を進む。
昨日まで同じ登録所にいた人間でも、赤い紙が外れた者と残った者がいる。
その違いは、いま荷車の数になっていた。
俺は第四車の後ろを歩く。
イレーネは少し前。
時々止まる。
人数を確認する。
斥候から道の報告を受ける。
また歩く。
「誰も、です」
俺は前の背中へ言った。
イレーネが振り返る。
「何が」
「昨日の答え。俺に権利を渡した人」
少しだけ間があった。
「そうでしょうね」
それで終わりそうになる。
俺は続けた。
「でも、あの文を読むかどうかは、俺が決めるしかなかった」
「そこは分かってる」
「じゃあ――」
「結果の話はしてない」
短かった。
前の荷車が石を踏む。
木箱が鳴る。
イレーネは歩く速度を変えない。
「昨日の結果が悪かったとは言ってない」
「はい」
「ベアトリスが分け直したことも、私は反対してない」
「はい」
「でも、あなたはユリウスの名前で、新しい線を一つ残した」
俺は少し黙った。
「俺が決めたのは、あの文を読まないことでした」
「そう」
イレーネがこちらを見る。
「それを、広場で勇者がやった」
返す言葉が止まった。
読まなかったのは一枚の紙だった。
でも、広場にいた全員が見ていた。
勇者が文を下ろすところを。
今日以降、そのことを覚えている人もいる。
「サイルでは」
俺は言った。
「ユリウスも、まとめて拘束するのを止めたんですよね」
「止めた」
「なら、本物でも昨日のやり方には――」
「分からない」
今度は、はっきり遮られた。
イレーネが足を止める。
列は進んでいるので、俺も止まりきれず一歩近づいた。
「サイルのユリウスなら、昨日も同じことをしたかもしれない。逆かもしれない。私は知らない」
「でも」
「そこじゃない」
声は大きくない。
ただ、逃げる場所がなかった。
「本物なら同じことをしたかもしれない。だから、あなたがその名前でやっていい、にはならない」
イレーネはまた歩き出した。
俺も追う。
「私は前に、それでユリウスと喧嘩した」
不意に出た名前に、返事が遅れた。
「何で?」
「約束しすぎるから」
* * *
道が細くなった。
畑の間を抜ける区間で、荷車は一列になる。
イレーネが先頭へ行き、向こうから来た空荷の馬車を脇へ寄せる。
二台目。
三台目。
全部通してから、俺のところへ戻ってきた。
話は終わっていなかったらしい。
「一週間で三つ」
イレーネが言う。
「追加で?」
「追加で」
指を三本立てる。
「北の負傷者を迎えに行く。東街道の避難民に護衛をつける。投降した人たちの引き渡しに自分が立つ」
どれも、それだけなら悪い約束には聞こえない。
「全部、必要だった?」
「必要だった」
即答だった。
「だから腹が立った」
「必要なのに?」
「一人では全部できないから」
それも分かりやすかった。
「距離が違う。時間も重なってた。ユリウス本人が立つ前提のものまであった」
イレーネは前を見る。
「私は、一つ切れって言った」
「ユリウスは?」
「切らなかった」
「理由は」
「待てない人がいる、って」
俺は何も言わなかった。
いかにも勇者らしい答えだった。
たぶん、そう思った顔をした。
イレーネがこちらを見る。
「それを良い話にしないで」
「してません」
少し早く答えすぎた。
「しそうな顔だった」
「顔は難しいですね」
「今はそこじゃない」
そうだった。
前の荷車が速度を落とす。
道路脇で一人、靴紐を結び直している。
列が完全に止まる前に、後ろの護衛が間隔を取った。
イレーネはそれを確認してから続ける。
「私は怒鳴った。無理だって。あなたが一人で三か所に行けないなら、約束するなって」
「それで?」
「翌朝から、その三つを成立させるために人を動かした」
予想していなかった。
「イレーネが?」
「私が」
短い。
「護衛を分けた。馬を借りた。本人が行けない場所には代理を立てた。順番も変えた」
「全部できたんですか」
「全部、同じ形ではできなかった」
一度だけ首を振る。
「遅れたものもある。本人が立つと言ったのに、私が代わりに行った場所もある」
「でも、やった」
「やった」
イレーネの声が少し硬くなる。
「もう公に言ったあとだったから」
列がまた動く。
靴紐を直していた男が荷車へ戻る。
「人は、勇者が言ったら動く」
イレーネが言う。
「待つ。荷物をまとめる。道へ出る。別の予定を捨てる」
俺は昨日の広場を思い出す。
紙を下ろした俺。
赤い紙を外された人たち。
午後へ回った帰還便。
西門から抜かれた兵。
「私は、あの約束をするなって言った」
イレーネが続ける。
「そのあと、自分で約束の中に入った」
「後悔してる?」
「してる」
今度も即答だった。
「やらなければよかったとも思う?」
少し間があった。
「それは、同じじゃない」
たぶん、そこが一番面倒なところだった。
助かった人はいる。
約束を成立させるために、別の人間が無理をした。
両方残る。
「だから」
イレーネが俺を見る。
「昨日、あなたが正しかったかどうかだけで終わらせたくない」
俺はしばらく返せなかった。
* * *
昼前、最初の中継所へ着いた。
引き渡しは予定より遅れた。
昨日から遅れているので、今日だけのせいではない。
それでも、受け取る側の係員は台帳を見て眉を寄せた。
「六便と七便の順番が逆です」
「登録所で再照合が入った」
イレーネが答える。
「第六便の一部を七便へ。七便の歩行可能者をこちらへ回した」
「護衛番号は」
「ここ」
紙を指す。
「西門班から二名追加。次の区間で返す」
「返せます?」
「次の受け入れが予定どおりなら」
「予定どおりじゃなかったら」
「その時また組む」
係員が嫌そうな顔をした。
でも、判を押した。
一台ずつ荷車が中へ入る。
昨日赤い紙を外された人たちも、ここではただの帰還者として数えられた。
人数。
荷物。
行き先。
全部確認される。
俺は少し離れて見ていた。
仕事はなかった。
イレーネにはある。
それでいいはずだった。
でも、さっきまでより、その言葉は簡単ではなかった。
「イレーネ」
引き渡しが終わったあとで呼ぶ。
彼女は台帳を閉じた。
「何」
「昨日のこと、取り消したほうがいいと思う?」
イレーネはすぐには答えなかった。
「それを私に決めさせるの?」
「……違います」
たしかに違った。
「俺は、あの文を読みたくなかった」
言い直す。
「今でも」
「うん」
「でも、ユリウスの名前でやった」
「そう」
「そこは、同じ話じゃない」
「そう」
同意されたのに、楽にはならなかった。
俺は少し考える。
「じゃあ、次も同じことが来たら」
「その時、自分で決めて」
イレーネは言った。
「私に許可を取りに来ないで」
声は冷たくなかった。
それが余計に遠かった。
「護衛はする。必要な道も組む。危なければ止める」
台帳を脇へ挟む。
「それは私の仕事だから」
俺は聞く。
「でも、あなたがユリウスの名前で決めたことを、私が正しいことにする役はしない」
少し間を置く。
「正しいと思ったからって、ユリウスの名前まで自分のものになったと思わないで」
「思ってません」
今度はゆっくり答えた。
本当にそうかは、少し分からなかった。
拍手をもらった時。
人が帰れた時。
昨日、紙を下ろした時。
どこまでが仕事で、どこからが俺の判断になったのか。
その判断が評価された時、誰の名前へ積まれているのか。
「次、出るよ」
イレーネが言った。
話は終わったらしい。
少なくとも、今は。
* * *
午後の便は、予定より一刻遅れて次の街道へ出た。
それでも出た。
人数は揃っている。
護衛もいる。
途中で誰かが消えることもなかった。
俺とイレーネは必要なことだけ話した。
止まる。
進む。
水を取る。
前へ行かない。
それで十分、仕事はできた。
夕方、次の宿営地で伝令が追いついた。
ドランからの速報紙を何枚か持っている。
兵が一枚を掲示板へ貼った。
大きな見出しがある。
**《勇者、旧補助兵の一律留置を支持せず》**
俺は一度、読み直した。
一律留置そのものを全部止めろとは言っていない。
個別の記録が出ていた人は、今も残っている。
でも見出しでは、もうそこまで短くなっていた。
少し下。
**《重傷から戻った英雄、以前より慎重な判断か》**
さらに小さく、遺族側からの反発と、保安委員会が措置を継続していることも書かれている。
全部が褒めているわけではない。
でも、掲示板の前にいた兵の一人が言った。
「勇者様、変わったって話になってますね」
俺は紙を見る。
太い文字がもう一つあった。
**《変わった勇者》**
昨日まで、俺はユリウスの名前で新しい線を引いたと言われていた。
今日は、その名前のほうが勝手に変わり始めていた。




