Episode 016 — 本物なら、きっと賛成したと言われても
人を止める印は、赤だった。
ドランの旧補助部隊登録所には、朝から赤い紙片が並んでいた。
胸に一枚。
荷物に一枚。
受付票にも一枚。
赤がついた人間は、登録を終えても門の外へ出ない。
広場の東側に張られた縄の内側へ回される。
そこには、もう三十人近くいた。
男が多い。
女もいる。
年齢はばらばらだった。
縄の外には家族が立っている。
子供が一人、父親らしい男へ水筒を渡そうとして兵に止められた。
兵は怒鳴らなかった。
自分で受け取って、縄の内側へ渡した。
そのくらいの扱いではあるらしい。
「全員、拘束ですか」
俺が聞く。
隣のベアトリスが首を横に振った。
「暫定保安上の留置です」
「もらった紙には、留置とは書いてなかったですよね」
ベアトリスが俺を見る。
先に渡された案にあったのは、夜間移動の制限。
区域外へ出る時の許可証。
指定家屋への立入り。
宿泊者と来訪者の届出。
登録所から出さない、という一行はなかった。
「区域外移動許可と身元の再確認が終わるまで、指定場所で待機させる」
ベアトリスは広場を示した。
「D地区では、そう運用しています」
「違いは」
「期間と目的です」
答えが速い。
「刑罰ではない。身元と旧所属、武器接触記録の再確認が終わるまで移動を止めます」
「どのくらい」
「原則二日。照合が終わればその時点で解除」
二日。
縄の中にいる人間には、十分長そうだった。
「理由は事前資料の通りです」
ベアトリスが歩き出す。
俺もついていく。
散発的な武装者情報。
未回収の武器。
旧補助部隊の名簿不備。
どれも、無いことにはできない。
山道で見つかった足跡も、結局誰のものか分かっていない。
サイル周辺でも、正規部隊ではない武装者の痕跡が出ていた。
「こちらです」
ベアトリスが一つ目の受付台で止まる。
赤い紙片の右上に、小さく数字が書いてあった。
**三。**
「この者は、旧補助第二中隊。先週見つかった武器保管所の帳簿に姓と所属が一致する記載があります」
受付官が言う。
「本人は関与を否定。筆跡確認待ちです」
男は何も言わない。
腕を組んで、机の端を見ていた。
次の受付台。
同じ赤。
今度は右上に数字がない。
「この人は?」
「旧補助第六中隊」
別の受付官が答える。
「中隊名簿が一部欠落しています」
「本人の名前が、何かに出ている?」
「いいえ」
「武器は」
「申告分は提出済みです」
「他に」
受付官が少し困った顔をした。
「現時点ではありません」
俺は男を見る。
五十代くらい。
縄の外に、さっきの子供がいた。
父親ではなく祖父かもしれない。
分からない。
「でも止める」
俺が言う。
答えたのはベアトリスだった。
「第六中隊は名簿が足りない。誰が途中で抜けたか、誰が今どこにいるか確認できていません」
「だから、中隊にいた人は全員?」
「成人の旧所属者は全員、再照合が終わるまで」
迷いはなかった。
俺は広場を見る。
赤い紙には数字があるものと、ないものが混じっている。
縄は一つだった。
* * *
「見つけてからでは遅いんです」
ベアトリスは広場の端で言った。
声は低かった。
周りには俺とイレーネ、警備責任者だけがいる。
「武器を持った人間が一人、名簿の穴から抜ける。翌日には山へ入る。そこから誰かが死んだあとで、個別の証拠が無かったと言われても戻りません」
「はい」
そこは否定できない。
「二日です。全員を牢へ入れるわけでもない。食事も出す。家族との面会も登録後は認める」
「それでも拘束は拘束でしょう」
「そうです」
すぐ認めた。
少し意外だった。
「だから私の命令でやっています」
ベアトリスは広場を見る。
「責任も私にある」
その言い方は嫌いではなかった。
少なくとも、勇者に全部押しつけるつもりではないらしい。
「では、俺は何を」
「支持していただきたい」
やっぱりあった。
警備責任者が折った紙を差し出す。
先にオスカーから見せられた文と、ほとんど同じだった。
**勇者ユリウス・レグナートは、停戦の安定と住民保護のため、本暫定措置を支持する。**
その下に、今日の実施場所と期間が増えている。
「昼に読み上げます」
ベアトリスが言った。
「こちらの兵にも、地元にも、旧補助部隊側にも聞こえる形で」
「これがないと、留置できない?」
「できます」
「なら、何のために」
「続けるためです」
短かった。
「二日で終わらない地区も出ます。照合員も足りない。評議会では過剰だと言う声もある。地元には逆に甘いと言う者もいる」
ベアトリスが俺を見る。
「勇者が支持している。今はそれだけで、余計な争いを一つ減らせる」
灰橋でリーゼが言った言葉を思い出した。
手順の外。
見物人。
報道。
政治家。
勇者は、そこにいる。
便利な場所だった。
* * *
昼前、広場の人数はさらに増えた。
赤い紙が四十枚を超える。
縄も一本増えた。
登録を終えた家族が、外側で待っている。
警備兵も増えた。
大きな混乱はない。
だから余計に、これが正式なやり方に見える。
広場の北側に、小さな台が置かれた。
演説台というほど立派ではない。
机を二つ重ねて板を置いただけだ。
俺とベアトリスがそこへ上がる。
イレーネは下にいる。
警備責任者が先に説明した。
暫定措置。
最長二日を基本とする再照合。
食事。
面会。
異議申立ての窓口。
聞いている人間の顔は硬い。
縄の外にいる連合側の住民も何人か集まっていた。
その中に、黒い喪章をつけた男がいる。
誰を失ったのかは知らない。
警備責任者が最後に言った。
「続いて、勇者ユリウス・レグナート様より――」
紙が渡される。
俺は受け取った。
文字は、先に見たものと同じだった。
読める。
声も作れる。
一分もかからない。
俺は紙を下ろした。
「この文は読みません」
広場の音が消えた。
完全ではない。
どこかで子供が泣いている。
馬が鼻を鳴らした。
ベアトリスが俺を見る。
「理由を伺っても?」
声は変わっていない。
怒っているかは分からない。
「赤い印が二種類ありました」
俺は言った。
「個別に名前や記録が出ている人と、名簿が足りない部隊にいた人」
「はい」
「同じ縄の中にいます」
「今は」
「名前が出ている人を止める判断には、俺は口を出しません」
ベアトリスの目が少し動く。
「司令官の判断です」
俺は紙を見る。
「でも、名簿が足りないというだけの人まで、この留置に勇者が賛成したことにする文は読みません」
広場の後ろから声が飛んだ。
「危険じゃないって分かるのか!」
黒い喪章の男だった。
俺はそちらを見る。
返事をする前に、ベアトリスが言った。
「静粛に」
男は黙らない。
「また敵を先に守るのか!」
何人かが頷く。
縄の内側では、誰も声を上げなかった。
俺は紙を持ったまま立っていた。
危険ではない、と言えるわけではない。
全員安全だとも。
それを言う話ではない。
「代わりの案は?」
ベアトリスが聞いた。
「ありません」
今度は彼女の眉が動いた。
「ない?」
「誰をどう管理するかは、俺が決める仕事じゃない」
俺は紙を返した。
「この文を読むかは、俺が決めます」
しばらく、ベアトリスは紙を受け取らなかった。
広場の外からまた声が上がる。
「責任取れるのか!」
今度は別の男だった。
取れない。
誰かが抜けて、本当に襲撃へ加わったら。
俺には止められない。
でも、その答えまで演説する気はなかった。
ベアトリスが紙を受け取った。
「支持がなくても、命令は続けられます」
「はい」
「分かりました」
それだけ言った。
* * *
広場は、すぐには動かなかった。
俺が文を読まなかったからといって、縄が勝手にほどけるわけではない。
ベアトリスが台を下りる。
警備責任者と受付主任を呼ぶ。
三人で短く話す。
俺には聞こえない。
イレーネも入らない。
少しして、別の係が西門から走ってきた。
紙束を一つ渡す。
受付主任が首を振る。
ベアトリスがもう一度、縄の中の人数を見る。
数分後、受付台の前へ立った。
「区分を分け直します」
職員が一斉に顔を上げる。
「個別照合事由ありは現行留置を継続。旧所属名簿の欠落だけを理由にしている者は、留置を解除」
広場がざわつく。
「解除後も夜間移動制限、区域外移動許可、来訪者届出は暫定措置どおり。再照合の呼出しには応じてもらう」
受付主任が聞く。
「本日分、全件やり直しますか」
「やる」
「護送が遅れます」
「分かってる」
「人員が足りません」
「西門から二人回す」
「西門が薄くなります」
「予備を一人入れる」
「評議会への説明は」
「私が出す」
話が速い。
俺の出る場所はなかった。
それでいい。
職員が赤い紙を一枚ずつ確認し始める。
数字がある。
証言番号がある。
武器記録がある。
何もなく、所属欄だけがある。
最後のものは、赤い紙を外される。
最初の一人は、さっき水筒を受け取っていた男だった。
受付官が胸の紙を外す。
「第六中隊。個別事由なし。留置解除。再照合通知あり」
縄が持ち上がる。
男が外へ出る。
子供が走った。
今度は兵も止めなかった。
抱きつく。
誰かが拍手しかけた。
一、二回で止まった。
広場の反対側から怒鳴り声が飛んだからだ。
「何かあったら誰が責任取る!」
黒い喪章の男だった。
ベアトリスがそちらを見る。
「私です」
声は大きくなかった。
でも届いた。
男は何か言い返そうとして、やめた。
俺ではなかった。
そこは少し安心した。
解除された人間が増える。
十人。
十五人。
そのたびに書類が増える。
帰還便の一つは午後へ回された。
登録待ちの列も伸びた。
縄の中には、まだ人が残っている。
数字のついた赤い紙を胸につけたまま。
全員が帰れたわけではない。
全員を帰す話でもなかった。
* * *
夕方、広場を出る時にベアトリスが呼び止めた。
「勇者殿」
「はい」
彼女は昼に使わなかった声明文を持っていた。
「勘違いしないでください。あなたが留置を解除したわけではありません」
「はい」
「支持なしでこの人数を抱えるなら、西門と巡回からさらに人を抜く必要があった。今の根拠でそこまでやる価値があるかを、私が決め直しました」
「分かりました」
ベアトリスは紙を一度見た。
「それと」
俺を見る。
「最近のあなたは、自分の名前が何に使われるかを、ずいぶん細かく分けますね」
背中が少し固くなる。
「そうですか」
「少なくとも、私の記憶では」
そこまでだった。
傷。
記憶。
人は変わる。
説明はいくらでもある。
彼女も今は、それ以上言わなかった。
「今日は、これで」
「はい」
声明文を折る。
捨てはしなかった。
* * *
門を出て、護送馬車へ向かう。
イレーネはしばらく何も言わなかった。
俺も聞かなかった。
褒められる気はしていなかった。
でも、怒られるとも少し違う気がした。
馬車の前まで来たところで、イレーネが止まる。
「結果だけなら」
俺を見る。
「悪くないと思う」
「はい」
「でも、一つ聞く」
「何ですか」
イレーネは広場のほうを見た。
赤い紙を外された人たちが、まだ登録所の前に残っている。
帰る便が遅れたからだ。
「誰があなたに、ユリウスの名前で新しい線を引く権利を渡したの」
返事は、すぐには出なかった。
昼より難しい質問だった。




