Episode 015 — 成功したから、終われなくなる
拍手が起きる前に、男が泣いた。
《灰橋》を西へ渡ってきた男だった。
痩せていた。
髪も短く刈られている。
元捕虜の帰還者だと、名簿には書いてあった。
橋のこちら側で待っていた女が、その男の名前を呼んだ。
男は一度止まった。
それから走ろうとして、係員に止められた。
「確認が先です!」
かなり正しい。
かなり邪魔でもある。
男は笑いながら泣いた。
女も泣いた。
係員だけが困った顔で書類を見ていた。
本人確認。
帰還番号。
引渡先。
全部終わるまで、二人は柵を挟んで手だけ握っていた。
今日の《灰橋》は、前回より長く開いている。
第一段階の後退確認が終わったあと、通行時間と枠が増えた。
戻る兵。
旧魔王軍側へ帰る人間。
家財を積んだ荷車。
役所の箱。
薬。
鍋。
人が橋を渡るたびに、係員が一つずつ数える。
リーゼは門の脇で、その数字を見ていた。
俺は少し高い見張り台の上にいた。
今日も、だいたいそこにいる仕事だった。
男の確認が終わる。
柵が開く。
女が男へ抱きついた。
今度は誰も止めなかった。
その時、最初の拍手が起きた。
二人のための拍手だったと思う。
たぶん。
でも男が顔を上げて、俺を見た。
「勇者様!」
まずい。
向きが変わった。
「ありがとうございます!」
女もこちらを見る。
周りも見る。
拍手が、見張り台へ上がってくる。
俺は手を上げた。
前回より少し慣れていた。
笑う。
頭を下げる。
歓声が大きくなる。
橋を開けたのはリーゼだ。
兵を動かしたのは両側の指揮官だ。
確認したのは監察員で、名簿を照合したのは役人だった。
それでも、帰れた男は俺に礼を言った。
嬉しくないわけがなかった。
むしろ。
かなり嬉しかった。
誰かが本当に家へ帰れた日に、その人から感謝される。
役名が間違っていることを除けば、かなり良い仕事だった。
* * *
昼を過ぎても、門は開いていた。
大きな問題は起きなかった。
一度だけ荷車の車輪が検査線に引っかかり、十分止まった。
一度だけ名簿の綴りが違って、本人確認に二十分かかった。
その程度だった。
その程度で済むように、たぶん大勢が働いている。
俺のところには、三度ほど握手を求める人が来た。
二度、子どもを抱いてほしいと言われた。
一度、赤ん坊に泣かれた。
勇者でも赤ん坊には効かないらしい。
少し安心した。
閉門時刻が来る。
リーゼが時計を見る。
列は予定した枠まで捌けていた。
「閉めます」
前回と同じ声だった。
閂が入る。
今日は「あと一組だけ」と叫ぶ声もなかった。
西側の掲示板へ数字が書き足される。
通過人数。
帰還者。
移送者。
事故なし。
規定違反なし。
その一番下に、次回予定の欄があった。
前より少し大きな数字が入っている。
「増えるんですね」
俺が言うと、リーゼが紙から目を上げた。
「今日の実績なら」
「勇者がいなくても?」
「手順は動きます」
即答だった。
少し気持ちが良かった。
別の意味で。
「ただ」
リーゼが続ける。
「あなたがいる日のほうが、外側は静かです」
「外側」
「橋の外。見物人、報道、政治家」
なるほど。
手順の中にはいない。
手順の外にはいるらしい。
それくらいなら、悪くない役だった。
* * *
帰りの馬車は、すぐには出なかった。
橋西側の乗換場で、護衛の交代を待つ。
屋根だけの長い待合所に、長椅子が並んでいる。
俺は一番端に座った。
上着の内側には、青い印の封筒が入っている。
今日は一度も取り出していない。
取り出す理由がなかった。
「満足そうだな」
オスカーが来た。
前回に続いて、いつの間にかいる。
「顔に出てます?」
「少し」
「勇者としては失敗ですね」
「今日は成功したんだから、いいだろう」
隣へ座る。
イレーネは少し離れた場所で護衛の引継ぎを確認している。
オスカーが紙を一枚出した。
「予定の話をしたい」
嫌な言葉だった。
俺は紙を見る。
今後の主要日程。
交換枠拡大。
第二段階後退協議。
共同確認。
戦勝後会議。
最後の行には、俺がよく知っている数字がある。
七十四日前後。
「会議は変わらない?」
「今のところは」
「じゃあ何が」
オスカーは紙の下を指で叩いた。
「その後だ」
勇者ユリウスの負傷悪化。
公的活動停止。
死亡発表。
早ければ七十六日、遅くても七十八日というのが元の想定だった。
「その遅い方を、八十日か八十一日まで動かせる余地がほしい」
俺はオスカーを見る。
「延長?」
「使うと決めたわけじゃない」
声は普通だった。
「今日みたいな日が続くなら、会議が終わった直後に勇者を死なせるより、移行を少し支えたほうが揉めない可能性がある。それだけだ」
「遅い方から、二日か三日」
「今の話なら」
追加の紙が出る。
契約補足。
延長日数分の報酬。
活動内容は従来範囲内。
八十一日を超える場合は再協議。
かなり普通の契約だった。
普通すぎて困る。
俺は上着の内側に指を入れた。
封筒は出さない。
紙の角だけ触る。
九十二日。
青灯座。
ミレアまで、身軽なら四日。
八十一日に終わる。
四日で八十五。
指定は九十二日。
まだ七日ある。
もちろん、行ったところで受かるとは限らない。
でも、受けることはできる。
「八十一日まで?」
俺が確認する。
「今ここで欲しいのは、その余地までだ」
「八十二以降は」
「必要なら、また話す」
紙に書かれているのは、そこまでだった。
断ろうと思えば断れる。
最初の契約は七十六から七十八日だった。
そこを守れと言う理由はある。
でも。
朝、橋の向こうから帰ってきた男がいた。
俺に礼を言った。
今日の開放が少し続けば、同じ人が増える。
それに。
拍手は気分が良かった。
追加の報酬も出る。
青灯座にも、まだ間に合う。
断る理由を探すほうが難しかった。
「分かりました」
言ってから、紙を受け取る。
「八十一日までなら」
オスカーが頷いた。
「助かる」
それだけだった。
契約補足の紙は、思っていたより薄かった。
* * *
「もう一つ」
オスカーが言った。
まだあったらしい。
今度の紙は契約ではなかった。
表題が長い。
**D地区旧補助部隊関係区域における暫定保安措置案。**
最初の項目。
対象区域住民の夜間移動制限。
二つ目。
旧補助部隊所属者の区域外移動には許可証を要する。
三つ目。
武器・軍需品捜索のため、指定家屋への臨時立入を認める。
四つ目。
宿泊者・来訪者の届出義務。
俺は途中で紙から顔を上げた。
「これ、何ですか」
「連合側の保安委員会案」
「理由は」
「散発的な武装者情報。武器の未回収。旧補助部隊の名簿不備」
全部、聞いたことのある問題だった。
山道の足跡も思い出す。
まったく根拠がない話ではない。
オスカーが最後の頁をめくる。
短い文章がついていた。
**勇者ユリウス・レグナートは、停戦の安定と住民保護のため、本暫定措置を支持する。**
俺の名前ではない名前が、また一つ使われる。
「俺が賛成したことにするんですか」
「まだ、そうしていない」
オスカーは紙を俺へ渡した。
「読んでから返事をくれ」
「いつまで?」
「明日の昼」
今日より短かった。
俺は二枚の紙を重ねる。
上には、八十一日までの契約補足。
下には、勇者の支持声明案。
勇者でいる日を少し増やすことには、もう頷いた。
勇者の名前で何に頷くかは、明日の昼までに決めなければならなかった。




