Episode 014 — 勇者が何もしなくても、兵は下がれる
兵が下がるところを、初めて見た。
俺が何も言っていないのに。
《灰橋》の西側には、朝から荷車が十二台並んでいた。
食料。
矢束。
予備の槍。
天幕。
壊れた車輪まで載っている。
戦うための荷物というより、戦い続けるための荷物だった。
それが前線から後ろへ動く。
今日やるのは、そういう話らしい。
「全部ではありません」
リーゼが言った。
橋の脇の机には、大きな地図が一枚広げられていた。
「西側は前進補給列を第三標まで下げる。橋前の予備兵は半数を後方待機へ移す。東側も、事前に合意した補給列と予備隊を指定線まで下げる」
指が地図の左右を順番に示す。
「西側の履行確認後に東側が動く。両方の確認が取れたら、《灰橋》を今日は二刻開けます」
二刻。
前より長い。
そのぶん、渡れる人も増える。
ただし、そのために先に兵と荷物を動かす。
昨日までなら、橋のほうが先だった気がする。
今日は違うらしい。
連合側の隊長は、すでに命令書を持っていた。
決めるために来たのではない。
実行するために来ている。
それでも、出発前にこちらを見た。
「勇者殿からも、一言いただければ」
突然、仕事が来た。
俺はリーゼを見る。
リーゼは地図を見ている。
助ける気はなさそうだった。
「もう命令は出てるんですよね」
「出ています」
隊長が答える。
「なら」
俺は西側の荷車を見る。
馬が二頭、暇そうに草を噛んでいた。
「俺は見てます」
隊長の顔に、少しだけ困ったものが浮かんだ。
たぶん、もっと勇者らしいことを期待していたのだと思う。
リーゼは何も言わなかった。
* * *
最初の荷車が動いたのは、太陽が橋の欄干より高くなってからだった。
御者が手綱を引く。
車輪が一度、石に引っかかる。
それから、ゆっくり西へ向く。
一台。
二台。
三台。
十二台が一列になって、街道を下がっていく。
荷台の槍先が揺れる。
積んだ樽が鳴る。
橋前に残っていた兵も、二つの隊に分かれた。
半分が隊列を組む。
そのまま荷車の後ろへつく。
誰も歓声を上げない。
見物人はいる。
役人もいる。
橋を渡る予定の家族もいる。
でも、兵が自分たちから遠ざかっていくのを見て、どう反応すればいいのかは誰も決めていないらしい。
俺も分からない。
勝った時なら拍手する。
帰ってきた時も拍手する。
下がっていく兵には、何をすればいいのだろう。
何もしないまま見送った。
荷車の最後尾が街道の曲がり角へ消える。
それでも終わりではない。
第三標まで着いたことを確認しなければならない。
伝令が走る。
伝文晶の係が机の横で待つ。
待つ時間が始まった。
* * *
待つのは、動くより長い。
少なくとも見ている側には。
橋の向こうでは、東側の兵がまだそのまま立っている。
補給列も動かない。
東側の確認線にはセレクがいた。
遠くて表情は分からない。
こちらを見ているのかも分からない。
たぶん、向こうも同じように待っている。
十五分。
三十分。
時間だけが増える。
「遅くないですか」
俺が小さく聞く。
イレーネが答える。
「荷車十二台よ」
「そうでした」
舞台なら暗転で飛ばせるところだった。
今日は飛ばない。
さらに待つ。
やがて伝文晶が淡く光った。
係の役人が読み上げる。
「西側前進補給列、第三標到着。十二台確認。予備兵、後方待機線へ移動完了」
リーゼが聞く。
「現地確認者」
名前が二人読み上げられる。
一人は連合側。
もう一人はハルフェンの監察員だった。
リーゼが東側を見る。
橋の向こうでも、ほぼ同時に人が動いた。
旗が一度上がる。
東側の補給列が動き始めた。
今度は、こちらへ近づくのではない。
向こうへ下がっていく。
橋を挟んで、両側の荷車が遠ざかった。
変な景色だった。
戦争中なら、遠ざかる敵を見て追うのかもしれない。
今日は誰も追わない。
追わないことが予定に入っている。
* * *
東側の確認には、さらに時間がかかった。
途中で一台の荷車が止まった。
こちらからでも分かった。
車輪の周りに人が集まる。
しばらくして、人が散った。
荷車がまた動く。
壊れたわけではなかったらしい。
馬具を直しただけだと後で聞いた。
そういう理由でも和平は十五分遅れる。
便利なのか不便なのか分からない。
今度は東側に配置された監察員から確認が入った。
伝文晶の係が文面を読み上げる。
「東側前進補給列、指定線到着。申告十一台、十一台確認。予備隊、後方待機線への移動完了」
確認者の名前も続く。
東側指揮官。
ハルフェン監察員。
リーゼは手元の表へ二本目の線を引いた。
「両側、第一段階履行確認」
西側の隊長が息を吐く。
橋の向こうでも、誰かが旗を下ろした。
リーゼが門の係へ向く。
「開けます」
今度は、誰も止めなかった。
* * *
閂が外れる。
前より音が軽く聞こえた。
たぶん気のせいだ。
《灰橋》の門が開く。
最初に渡ったのは、担架ではなかった。
小さな荷車だった。
荷台に老人が一人座っている。
隣に鍋が三つ。
毛布。
木箱。
家一軒を小さくしたような荷物だった。
橋の中央で、鍋が一つ鳴った。
誰かが笑った。
そのあとに、歩く人が続く。
元捕虜。
戻る家族。
書類を抱えた役人。
旧魔王軍側へ帰る負傷者。
こちらへ戻る連合兵。
全員が同時ではない。
列を分ける。
数を確認する。
武器は置く。
止まる時は止まる。
それでも、前より長く門は開いたままだった。
俺は橋脇の見張り台に立っていた。
仕事は、ほとんどなかった。
時々、こちらを見た人へ手を上げる。
それくらい。
「勇者様!」
橋の上から声がした。
さっきの老人だった。
荷車の横から手を上げている。
俺も返す。
すると、その周りからも声が上がった。
「勇者様!」
「ありがとうございます!」
「これで帰れます!」
一つ増えると、あとは早かった。
橋のこちら側でも拍手が起きる。
向こう側では、拍手まではしない人も多い。
それでも何人かは手を上げた。
俺は見張り台の上で、いつもの顔を作る。
胸を張りすぎない。
手は高く上げすぎない。
笑う。
拍手が大きくなる。
今日、俺がしたのは、ほとんど見て、手を振ったくらいだった。
それでも拍手は俺へ来た。
不公平だと思った。
そして。
かなり気分が良かった。
そこが困る。
* * *
二刻後。
門が閉まった。
予定どおりだった。
閉まる時に揉める人はいた。
「あと一組だけ」と言う家族もいた。
リーゼは開けなかった。
「明日の枠へ回します」
「勇者様から言ってください」
こちらへ声が飛んでくる。
俺は一瞬、口を開きかけた。
あと一組くらい。
そう言えば済む気もした。
でもリーゼが先に言う。
「今日はここまでです」
声は変わらない。
俺は口を閉じた。
家族は納得していなかった。
当然だと思う。
ただ、門は閉まった。
今日開いた時間が長かったからといって、何でも通るようになったわけではない。
* * *
夕方、橋の西側に臨時の掲示板が出た。
今日の通過人数。
帰還者。
移送者。
照合件数。
次回予定。
一番上には、大きな文字で書いてある。
勇者ユリウス立会いのもと、第一段階後退および灰橋拡張開放を実施。
「立会い」
俺は読んだ。
「何」
隣のイレーネが聞く。
「便利な言葉ですね」
「事実でしょう」
「事実ではあります」
間違ってはいない。
俺はいた。
かなり長い時間いた。
それだけは確かだ。
掲示板の前では、人が内容を読んでいる。
中には「勇者が兵を下げたらしい」と話している人もいた。
もう少し正確に読んでほしい。
そう思ったが、訂正しに行くほどでもなかった。
というより。
訂正して拍手が減るのも、少し惜しかった。
「人気者だな」
後ろから声がした。
オスカーだった。
いつ来たのか分からなかった。
護衛と役人を二人連れている。
「今日、何もしてませんけど」
「いたじゃないか」
「掲示板と同じこと言いますね」
オスカーは笑った。
橋の向こうを見る。
東側でも撤収が始まっている。
「実務が回った日に、勇者がそこにいた。それで十分、分かりやすい成功になる」
嫌な言い方ではなかった。
むしろ、仕事の話をしているだけの声だった。
「こういう成功は使いやすい」
「次は?」
俺が聞く。
「もう少し大きい開放日を組めるかもしれない。今日の結果次第だったからな」
「俺も?」
「もちろん」
即答だった。
俺はさっきの拍手を思い出した。
断る理由は、まだなかった。
「分かりました」
橋の向こうでは、最後の確認旗が下ろされていた。
兵が下がった日、勇者の仕事は減るどころか、少し増えたらしい。




