Episode 013 — 道が消えれば、肩書きは役に立たない
橋は、勇者でも直らなかった。
当たり前だが、現場まで来ると少しだけはっきりする。
南西帰還路の石橋は、昨日まで橋だった形をまだ残していた。
川の両岸から石造りの床が伸びている。
中央も落ちてはいない。
ただ、真ん中の橋脚が下流側へずれていた。
床がそこで斜めに沈み、石の継ぎ目が指一本分ほど開いている。
「歩くだけなら?」
俺が聞くと、工兵が首を振った。
「誰も乗せないなら、確認のために私が行きます」
「負傷者を乗せて?」
「行きません」
分かりやすかった。
橋の手前には荷車が五台止まっていた。
二台は負傷者用。
残りは荷物と食料。
連合の護衛兵。
旧魔王軍側から戻る負傷者と、その付き添い。
合わせて三十人ほど。
予定では、この橋を渡って西へ進み、そのままハルフェン方面の街道へ合流するはずだった。
予定は、川の上で少し傾いている。
「迂回路を見た斥候は?」
イレーネが聞く。
若い兵が前へ出た。
靴が膝まで泥だらけだった。
「山側の旧炭焼き道は通れます。ただ、荷車は二台が限界です。道幅がない場所が二か所。今朝の足跡は、その先の尾根で見つけました」
「数は」
「はっきりしません。少なくとも六、七。制式靴ではありません」
「向き」
「北へ入って、途中で消えています」
「待ち伏せの痕跡は」
「見ていません」
イレーネが橋を見る。
次に空を見る。
雲が低い。
俺も見る。
特に何も分からない。
「ここで待つのは?」
護送隊の兵が聞いた。
「雨が来たら川が上がる」
イレーネが答える。
「橋際に三十人と荷車五台を固めたままにするほうが危ない」
旧魔王軍側の付き添いの男が口を挟んだ。
「山道に武装した連中がいるかもしれないんでしょう」
「いるかもしれない」
「なのに行く?」
「ここにいても、安全だとは言ってない」
声は冷たくなかった。
ただ、選択肢を減らしていく声だった。
イレーネが俺を見る。
「勇者殿」
「はい」
「真ん中にいて」
「真ん中」
「前に出ない。勝手に止めない。何かあったら、私が言った方向へ動く」
「分かりました」
かなり具体的だった。
助かる。
勇者の肩書きは、橋脚の位置を戻してくれない。
山道の足跡が誰のものかも教えてくれない。
今日の俺にできることは、今のところ、言われた位置にいることだった。
* * *
残す荷車を決めるのに、一悶着あった。
「薬箱は持っていく」
旧魔王軍側の付き添いが言った。
「重い」
連合の護送兵が答える。
「だから置いていけと?」
「全部とは言ってない」
「必要になった時に、どれが要るか分かるのか」
声が少し上がる。
イレーネが箱の蓋を開けた。
中を見る。
そして、横にいた軍医へ聞く。
「今日中に必要なもの」
軍医が三つの包みと小瓶を指す。
「これ。あと替えの包帯」
付き添いの男がもう二つ足した。
「この粉も。傷口が開いた時に使ってる」
軍医が見る。
「持つ」
それで決まった。
箱そのものは残す。
必要な分だけ布袋へ移す。
誰が正しいか決めるより早かった。
重い荷車を三台、橋の東側にある監視小屋へ寄せた。
食料と薬は分ける。
歩けない負傷者は担架へ。
軽い荷車二台には、横になったまま運ばなければ危ない者を乗せる。
「それ、こっちへ」
連合兵が担架の端を取る。
反対側を旧魔王軍側の男が持った。
二人とも一瞬、相手の手を見た。
「落とすなよ」
「そっちこそ」
仲良くなったわけではないらしい。
そのままでいい。
担架は上がった。
* * *
山道は、道と呼ぶには細かった。
片側が斜面。
反対側が谷。
昨日まで荷車が通る予定だった人間には、あまり親切ではない。
先頭に斥候。
その後ろにイレーネと護衛。
負傷者。
俺。
さらに負傷者。
後衛。
俺は本当に真ん中に置かれた。
少し屈辱的なくらい安全な場所だった。
でも、前へ行ったところで役には立たない。
一刻ほど進んだところで、列が止まった。
前方から合図が来る。
全員が声を落とした。
俺も黙る。
イレーネが斥候と一緒に先へ消えた。
待つ。
風で木が鳴る。
担架の上で誰かが咳をする。
連合兵が剣へ手を置いている。
旧魔王軍側の付き添いも、何も持っていない手を握っていた。
数分後、イレーネが戻る。
「足跡」
それだけ言う。
「新しい?」
護送隊長が聞く。
「朝よりは古い。尾根を北へ抜けてる。こちらへ降りた跡はない」
「追う?」
「追わない」
即答だった。
俺は何も言わない。
追う理由も、追わない理由も、俺には判断できない。
列がまた動く。
誰かが襲ってくることはなかった。
そのほうがありがたい。
危険というものは、必ず襲いかかってきてくれるわけではないらしい。
ただ、いるかもしれないというだけで、人を遅くする。
* * *
午後から雨が降った。
最初は細かった。
すぐに、木の葉から落ちる水のほうが多くなった。
山道の土が柔らかくなる。
二台目の軽荷車が、斜面側へ車輪を取られた。
「止めろ!」
声が飛ぶ。
馬が暴れる。
荷車が少し傾く。
中で負傷者が声を上げた。
俺は動きかけた。
「そこにいて!」
イレーネの声で止まる。
前から三人。
後ろから二人。
車輪へ木片を噛ませる。
馬の手綱を短く持つ。
旧魔王軍側の付き添いが荷台へ身体を入れ、負傷者を反対側へ寄せた。
「今!」
イレーネの声。
兵が押す。
車輪が泥から抜ける。
荷車が戻る。
十数秒だったと思う。
「行ける?」
イレーネが軍医へ聞く。
「今のところは」
「次の中継所まで?」
「屋根があるなら」
イレーネが斥候を見る。
「第六中継哨」
「この先、半刻ほど」
「そこまで行く」
決まった。
俺には反対する材料も、別案もなかった。
* * *
第六中継哨は、砦というほど大きくなかった。
木柵。
倉庫。
馬小屋。
兵舎が二棟。
門の上に連合旗。
雨の中では、それだけでもかなり立派に見えた。
門前で列が止まる。
今度は道ではなく、人に止められた。
「旧魔王軍側の者は入れられません」
中継哨の責任者は、三十代くらいの士官だった。
雨具の襟まできっちり留めている。
「現在、周辺に所属不明の武装者情報があります。警戒命令中です」
イレーネが護送書類を渡す。
「停戦合意下の帰還護送。全員、こちらの管理下」
士官が読む。
「平時なら通します」
「平時じゃないから止まってる」
「だから入れられないんです」
声は強いが、理屈は分かる。
中に敵だった人間を入れた直後、外から誰かに襲われたら面倒だ。
中に入れた人間自身が問題を起こす可能性だって、彼には切れない。
雨が強くなる。
後ろで負傷者が咳をした。
軍医が俺を見る。
正確には、俺ではなく勇者を見る。
来た。
ここまで何の役にも立たなかった顔に、ようやく仕事が回ってきた。
「中に何人入れられますか」
俺が士官へ聞く。
「勇者殿?」
「兵舎じゃなくていい。屋根がある場所」
士官は少し考える。
「外庭の荷捌き場なら、二十人程度」
イレーネがすぐ続けた。
「負傷者と付き添いをそこへ。連合兵を外周につける。持ち込み武器なし。倉庫、兵舎、通信室には入れない」
「規則上は、警戒時の旧敵性人員受け入れは――」
「私の護送下よ」
「何かあれば、こちらの責任になります」
「護送上の責任は私の命令に載せる」
イレーネは書類を指した。
「外庭の管理はそちら。条件違反があれば、すぐ外へ出していい」
士官はまだ迷っていた。
「勇者殿も、この条件で?」
今度は俺を見る。
「はい」
それなら答えられる。
「俺もここにいたことを、記録に残してください」
しばらくして、士官が書類を返した。
「外庭のみです」
イレーネが頷く。
「十分」
門が開いた。
* * *
外庭の荷捌き場には、大きな庇があった。
床は土だったが、雨は当たらない。
担架が一つずつ下ろされる。
連合兵が入口側。
旧魔王軍側の付き添いは奥。
間に軍医と荷物。
きれいに分かれた。
完全には混ざらない。
それでも、同じ屋根の下には入った。
「そっちの布、使っていいか」
旧魔王軍側の男が聞く。
連合の補給兵が積み棚を見る。
「一枚だけだ。返せとは言わん」
「二枚いる」
「一枚」
「怪我人が二人いる」
補給兵が嫌そうな顔をする。
結局、二枚出した。
仲良くなったわけではない。
たぶん、それでいい。
少しして、先行斥候が戻ってきた。
尾根の北側まで確認したが、新しい足跡は増えていない。
西へ抜ける下り道も、軽荷車なら通れる。
イレーネは日没までの残りを計算し、今日は中継哨で止めると決めた。
翌朝、雨が弱まってから出る。
誰も反対しなかった。
俺も。
* * *
翌朝、列はまた動いた。
橋は直っていない。
重い荷車も置いたまま。
武装者の正体も分からない。
それでも、昨日より先へ進める条件だけは増えていた。
山を下りる途中、道が岩壁と崖の間で急に細くなった。
軽荷車の幅では通れない。
「ここだけ担架に戻す」
イレーネが言う。
昨日なら、誰がどちらを持つかで一度止まったかもしれない。
今日は連合兵が先に担架の前を取った。
「前、持つ」
旧魔王軍側の付き添いが後ろへ回る。
「じゃあ後ろ」
それだけだった。
負傷者を荷車から移す。
細い場所を越える。
向こうでまた荷車へ戻す。
会話は少ない。
信用したからではない。
昨日、一度やった順番を覚えていただけだ。
それでも列は止まらなかった。
昼前、山道を抜けた。
西側の街道には別の護送隊が待っていた。
引き継ぎの印を確認する。
人数。
負傷者。
荷物。
昨日置いてきた三台の荷車についても記録する。
一人も増えていない。
一人も減っていない。
それだけで、今日は十分だった。
「勇者殿」
昨日の中継哨から伝令が追いついた。
小さな伝文晶の写しを持っている。
ハルフェンからだった。
緊急迂回護送について、双方の護送条件違反なし。
負傷者の引き渡し継続可。
次回協議で、《灰橋》の通行時間延長と第一段階後退確認を同時に扱う。
署名はリーゼ・マーレ。
俺は紙をイレーネへ渡した。
「道、増えますかね」
「まだ協議」
「そうでした」
列が西へ動き出す。
今度の道は、まだ消えていなかった。




