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SHIFT  作者: 鉄箱
12/12

after days plus 3 バレンタイン・パニック!

 冬も終わりに近づいた、ある週末のこと。

 金曜日の授業を終えると二連休が待っているということに、子供達は浮き足だって帰宅の用意をしていた。


 それはアリアも同様で、白いマフラーを巻きながら同じ色の手袋を嵌めると、その暖かさに頬を緩ませる。

 教室の中はストーブのおかげで暖かいが、一歩外に出れば直ぐに身体を冷やす冬の風に晒されることだろう。

 けれどアリアは、颯真に買って貰った防寒着で冷たい風を防げるという事が、どうにも嬉しくてたまらない様子だった。


「おおおお、おい!アリア!」


 そうして誰から見ても気の緩んだ表情をしていたアリアに、律人の声がかかる。

 その声色には隠しきれない緊張と照れが混在していて、見るからに顔が赤かった。

 まるで達磨のようだ、などと、アリアは首を傾げながら思う。


「なーに、りっくん?」


 耳当ての位置を調整しながら、アリアは小首を傾げる。

 その仕草の一つ一つがツボにはまり、律人は口調が正常でなくなるのを、微かに自覚し始めていた。思春期の男の子など、こんなものなのだろう。


「おお、おまえ、“ばれんたいん”ってだれにあげるんですだよ?」

「ですだよ?」

「そそそ、そこはきにすんな!」


 その一言を告げるのに勇気を振り絞ったのか、律人の息は荒い。

 これが政臣あたりだったら“怪しい”の一言に尽きるのだろうが、そこは年齢相応の少年の、初々しさしか感じられなかった。


「どうしたの?アリア。りつとが、またなにかした?」

「もう、りっくん!いいかげんにしないと……わかってるよね?」


 教室の外で待っていたのだろう。

 桜と七海が戻ってきて、律人に詰め寄った。

 別に悪戯をしようとしていた訳でもないのに疑われるのは、素直になれない彼の普段の行い故だろう。もっとも、素直になったら颯真という“怖い”壁があるのだが。


「あ、ねぇみみちゃん、さくらちゃん」

「アリア、へんなことされてない?」

「だいじょうぶ?アリアちゃん」


 よほど信用がないのか、それともからかわれているだけなのか。

 ふて腐れた律人は、同じく教室に戻ってきた巧巳に慰められていた。

 肩を叩いて苦笑する姿は、何かと苦労人気質な彼の性格を、如実に表現している。


「げんきだして、りっくん」

「うるせぇやい」


 それでもちょっかいを出してしまうのが律人という少年なのだが。

 それで徐々に信用が削られていっているという事実に、彼は未だ気がついていなかった。不憫である。


「ばれんたいんって、なーに?」

「ばれん、たいん?」


 アリアの言葉に、桜は首を傾げる。

 きちんとした教育を受け始めて、まだ一年。

 彼女もまた、バレンタインの存在を、知らなかったのだ。


「あぁ、なるほど」


 そんな中、七海は面白そうな笑みを浮かべながら、その言葉を発したのであろう律人に目をやった。


 そう、今日は二月の十二日。

 二日後は――セント・バレンタインディであった。














SHIFT














 差し込む陽光は眩くも、身体に当たる風は冷たい。

 寒さでかじかみ上気した頬に手袋越しの手を当てながら、アリアは七海の言葉に頷いていた。


 もうすぐ颯真の待つ喫茶店。

 大きな橋を渡れば、暖かい大きな手と甘いココアが待っている。

 アリアの帰る時間に合わせて、颯真はココアを用意してくれているのだ。


「ばれんたいんっていうのはね、すきなひとにチョコレートをおくるひなの」

「チョコレート……えへへ」


 アリアは言われて直ぐにチョコレートを思い浮かべ、頬を緩ませる。

 真っ黒で、堅くも柔らかくもなる甘いお菓子。

 マグカップに注がれたホットチョコレートなど、それこそ頬が落ちるほどに美味しいのだ。毎日は、虫歯になるから飲めないのだけれども。


「わたし、ことしはおとうさまとおかあさまと“わかいの”たちに、てづくりでチョコレートをあげるんだ!」

「てづくり?」


 何もない空間を見ながらにへらと笑うアリアの姿。

 その姿を満足げに眺めていた桜は、七海の言葉に疑問の声を返す。

 チョコレートとは、主にアリアの相半に預かった時に食べることができる、変幻自在のお菓子だ。


 ケーキ、クッキー、マシュマロ、ソース。

 色々な姿に形を変える、魔法のお菓子。

 それこそが桜にとってのチョコレートであり、とても自分で作れるイメージは沸かなかった。


「そう!てづくり!っていっても、とかしてかたちをつくるだけなんだけどね」


 七海はそう告げると、照れたように微笑んだ。

 一つ一つの仕草が上品だからか、アリア達よりも大人しめな笑顔だ。

 そんな七海に桜は、ただ感心したように頷く。その瞳こそ閉じられているものの、桜は七海の笑顔を感じ取り、そこから感情を読み取って頷いていた。


 だが、ただ感心していた桜と違い、アリアは顎に手を当てて足を止めた。

 ここ最近は、学校帰りに七海と桜も喫茶店に寄り颯真のココアを飲むようになった。だから喫茶店まで歩く間にまだ喋る時間はあるのだが、それでもアリアは一度立ち止まる。


「アリアちゃん?」

「ねぇ、みみちゃん」

「うん?」


 先程までの緩んだ表情とは違い、彼女の顔は真剣そのもの。

 だがくりくりとした目や上気した頬などの要素があるため、凛々しいといった表情にはほど遠い、どちらかというと可愛らしい顔だった。


「わたしにもできるかな?チョコレートづくり」

「うーん……ほんとうにかんたんだから、できるとおもうよ!」


 その質問と、七海の答え。

 それに目を輝かせたのは、アリアだけではなかった。

 桜もまた同様に、目を輝かせる代わりに肩を跳ねさせて七海を見る。

 そんな二人の顕著な反応に、七海は思わず一歩下がってしまった。


「みみちゃん、それってどうやるの?」

「えーと……だれかにおしえてもらいながら、やるのがいいとおもうよ」


 市販のチョコレートを湯煎し、型に嵌めて冷やす。

 言ってしまえばそれだけだが、冬の堅いチョコレートを割るのも、熱湯を扱うのも、調理器具を揃えるのも、子供だけの手で行うべき事ではない。


「わたしがいっしょにつくれればよかったんだけど……」


 七海は、チョコレート作りは連休中、旅先で行うのだという。

 拙い口調ながらそう説明され、しかしアリア達は申し訳なさそうな七海を逆に励ます。


「ううん、こっちはこっちでなんとかするよ!でも、おしえてくれてありがとう!」

「そうだよ、ななみ。わたしたちだけだったら、きっとおとうさんになにもできなかった」


 太陽のような笑みを浮かべてそう言い放つアリアと、月明かりのような微かな笑みを浮かべて同意する桜。対照的であるはずなのにその笑顔は変わらず優しくて、だから七海はつられて笑みを浮かべてしまう。こんな笑顔と一緒に在って、笑わないで居るなんて無理なのだ。


「でもせっかくだから、おとーさんにはないしょにしたいな」

「そうだね。おとうさんを、びっくりさせたい」


 それではいったい、誰を頼るのか?

 それは結局喫茶店に到着しても答えが見つからず、アリアと桜は、眉根を寄せて顎に手を当て首を捻るというまったく同じ動作でココアを口に運ぶ事になるのであった。











――†――











 冬の麗らかな陽光は、窓際の席の寒さを緩やかに和らげる。

 磨かれた机に置かれた、喫茶“konzert”オリジナルブレンドのブラックコーヒーを口に運ぶと、湯気の立ったそれが身体の中心から莉奈を温めてくれた。


 友人のロリコン学生が変な方向に走らないようにストッパー役を務めなければならない、この季節。だんだんと近づいてくる行事に女の子として胸をときめかせられないのは残念だが、この喫茶店の光景はそんな彼女のささくれだった心を適度に癒してくれていた。


「御條」


 だがその充実を芯から感じる一時も、静かに終わりを告げた。

 もうこの店に通い始めて一年以上経とうとしているのに、最初の刷り込みが効いたのか心の底から震え上がってしまう声。大魔王様がいたらこんな感じなのだろうかと、莉奈の脳裏にはシューベルトの『魔王』がループしていた。連れて行かれちゃうアレである。


「どうしました?源さん」


 だが流石に、口調にまで咄嗟の焦りが出ないようにする程度には、慣れていた。

 別段颯真は自分に危害を加える気は無い。そんなことは解っているのに反応してしまうのは、もう立派にパブロフの犬である。


「新作があるが、食うか?」

「よろしいんですか?是非、お願いします」

「待ってろ」


 颯真はぶっきらぼうで、そして気怠げだ。

 彼はアリアが側にいる内は、もうほとんど威圧感を外に漏らさなくなってきた。内側で何を企んでいるのか解らない凶悪な目つきは相変わらずだが、それでも意図的に周囲を威圧しようとしなくなっただけ、颯真も颯真なりに成長したという事だろう。


「りなさん」


 そうして再びコーヒーを口に運んだところで、いつの間にか側に来ていたアリアに声をかけられる。七海はすでに帰ったのか姿が見えず、しかし普段なら七海と一緒に帰っていくはずの桜もアリアと一緒に居た。


「あのね、えっとね、その」


 莉奈はアリアに視線を合わせると、次の言葉をじっと待つ。

 急かさずに焦らさずに、ただ笑みを浮かべて言うのを待ってあげるのだ。

 そうして待つと、もごもごと口を動かしていたアリアが、意を決してつま先立ちになった。そして莉奈の耳に両手を当てて壁にし、彼女だけに聞こえるように“お願い”をする。


「チョコレートづくり、おしえてください」


 小さく紡がれた声。

 期待した表情で自分を見上げる桜。

 こんなにも可愛らしく頼られてしまったら、莉奈に断る気など起きない。

 むしろ彼女たちとこの胃の痛くなる行事を乗り越えられるのなら、願ってもないことだった。


「いいよ。それなら明日明後日で、一緒に作ろうか」

「ほんとっ、りなさんっ」

「いいの?りなさん」


 目を輝かせるアリアと、少しだけ不安そうな桜。

 そんな二人を落ち着かせるために、莉奈は自分の性格キャラクターには似合わないような気がしながらも、明るい笑みを浮かべてみせた。


「もちろんだよっ!私も、アリアちゃんと桜ちゃんと、チョコレート作りがしたいな」


 その言葉に、アリアは桜と向き合って両手を重ね合わせる。

 桜はアリアに両手を引っ張られて体勢を崩しながらも、その頬は喜色に染まっていた。


「待たせたな、御條……と、なんの騒ぎだ?」


 戻ってきた颯真に、アリアと桜はハイタッチの格好のまま、動きをぴたりと止める。

 そして困ったように莉奈と目を合わせて、莉奈はそれだけで意図を汲んで頷いた。

 わざわざ颯真が居ない時に内緒話のように話したのだ。その目的くらい、すぐに解る。


 アリアは莉奈の笑顔に安堵の表情を見せると、今度は小走りで颯真に近づく。

 颯真は方眉を上げながら、莉奈の元へ試作ケーキとコーヒーのお代わりを手際よく配置すると、アリアの顔を見下ろした。


「えーと、えーとね」


 アリアは何度かそう言うと、右手の人差し指をぴんと立てる。

 そしてその指を自分の唇に当てて、小首を傾げた。


「ないしょ、だよ」

「内緒、か?」

「うん。ないしょ」


 話の内容よりも仕草が気になる心が勝ったのだろう。

 颯真は唇に指を当てたままのアリアを持ち上げて、抱きかかえる。

 まるっきり“子煩悩パパ”な颯真のその仕草に、莉奈は吹き出しそうになるのを根性と気合いと危機感で抑え込み、微笑ましそうな表情を作るに止めた。


「内緒か」

「ないしょだよ」

「そうか」

「ないしょ」


 まだやりとりを続けている二人から視線を外すと、行き場の無くなった桜を手招きで呼び寄せる。彼女は目が見えなくとも、聴覚と風の流れで、仕草を的確に感じ取ることができるのだ。


「一緒に食べようか?」

「ぁ……うん」


 椅子が高いため、莉奈に引っ張って貰い隣に座った桜と、ケーキをつつき合う。

 時折ハンカチで桜の頬を拭ってやりながら、莉奈は緩む頬を必死に抑えていた。

 どこかで気を緩めてしまえば、同時に視界に入れないようにしている二人の様子に意識が行ってしまうからだ。売られていく子牛になりたくはない。ドナドナ的に。


「おいしい?」

「うん。ありがとう、りなさん」


 日陰に咲く小さな花のような、微かな笑み。

 その柔らかな表情を見て、莉奈は一つの決意をする。


 子供達に何かを教える、先生になろう。

 莉奈の将来が、ある種の現実逃避とともに決定した瞬間であった。











――†――











 ジーンズ生地のスカートの下に、寒くないように黒いレギンス。

 上は黒いヒートテックを着て、その上から白いワイシャツに、更に鳩のワッペンがついた桃色のセーターを着る。

 背には鳩の羽模様が装飾として施されたリュックを負ぶさり、手袋とマフラーも完備した。完全装備の防寒具である。


「それじゃあ、おとーさんっ」

「……」


 嬉しそうな笑顔で、アリアは手を握る。

 その先の人物は颯真……ではなく、現役大学生の女性、莉奈だった。

 莉奈は颯真から放たれる無言の圧力に遠のいていく意識を、アリアと桜の柔らかな笑顔と体温で誤魔化していた。将来彼女は、モンスターペアレンツ程度ならば鼻で笑える立派な先生となるだろう。そのことで、颯真に感謝はできないのだろうが。


「いってきますっ!」

「あぁ、気をつけて行ってこい」


 目に見えてテンションの低い声。

 それも、手を振るアリアは気がつかない。

 それはアリアとは逆の手――莉奈の左手――を握る桜も同様で、颯真の隣に佇む自分の義理の父、村正に笑顔で手を振っていた。


 彼女は、新緑色のパーカーに、濃紺色のキュロットスカート。

 それから足には、紺と白のストライプの、ニーソックスを穿いていた。


「いってきます。おとうさん」

「行ってらっしゃい、桜」

「うん……っ」


 桜もよく、笑うようになった。

 そのことが何よりも嬉しくて、それでいて彼女の“内緒”がどこか、寂しくて。

 村正は普段と何一つ変わらない表情で、莉奈に手を引かれていく桜を見送った。


「ふふふ、可愛らしいわね」


 そんな様子をカウンター席に座って見ていたヴィヴィアンが、そう形容する。

 無邪気に歩いて行くお子様二人と大学生の様子は、どうにも可愛らしいものだった。

 三人を見送る大の大人二人は、二月十三日という差し迫った日に少女達が何をしに行くのかくらいは、理解しているのだろう。それでも気が気じゃないのが親心か、と、ヴィヴィアンは含み笑いをしてコーヒーを口に運んだ。


「なぁ、ヴィヴィアン」


 そうして颯真のコーヒーの香りを楽しんでいたヴィヴィアンに、他ならぬ颯真から声をかけられる。小さな子供二人の初めての外泊だ。安全面に信頼のある相手とはいえ心配なのだろう。右手で頭を掻く仕草は、彼が苛立ちを隠すことができていないという証明に他ならなかった。


 そんな颯真にヴィヴィアンは、今日くらい愚痴に付き合っても良いだろうと、笑みを浮かべて返事をする。


「なーに、颯真」

「アリアの“内緒”って、いったいなんなんだ?」

「……はぁ?」


 思いも寄らない質問に、ヴィヴィアンは眉根を寄せる。

 解っていなかったのか。むしろ、感心と感動を返せ。

 そんな風に渦巻く心情を、ヴィヴィアンはぐっと呑み込んだ。


「まったく貴方は……村正、貴方も、何か言ってあげなさいな」


 仕方なく、ヴィヴィアンは村正に話を振る。

 こういった行事に興味がないことは昔から解っては居たが、娘ができてもそれは変わらなかったようだ。去年のバレンタインを完全に流していたのは、こんな理由があったのかとヴィヴィアンは額に指を当てた。


「すまんヴィヴィアン……私も解答が知りたい」


 だが、困った大人は一人ではなかった。

 毎年、顔は良い村正は、署内でそれなりにチョコレートを貰ってくる。

 それでも解らないのは、無頓着すぎて日付を覚えていないためだろう。

 華やかな行事に興味のない男二人が、ここに来て想定外の鈍さをみせていた。


「自分で考えなさい」


 そんな二人に、ヴィヴィアンはにべもなく切り捨てる。

 その余りの切れ味の良さに、颯真と村正は揃って一歩後退した。

 方やシフター対策課の課長、方や伝説クラスのドラゴンシフター。

 猛々しい面影が欠片も見あたらない、“しょうがない大人”達だった。


「おい村正、なにか知らないのか?」

「おまえこそ、握っている情報があるなら隠すな」


 二人並んでカウンターに座り、ガラスのコップに入れたお冷やを飲んで緊急会議。

 いくら顔が良くても人相の悪いタイプの格好良さなので、肩を付き合わせて悶々とする姿は“不気味”の一言に尽きる。


 どんよりとした空気を醸し出す、駄目な大人二人組。

 そんな状況を打開する手立ては、意外なところからやってきた。


「こんにちはーっ!」


 妙に明るい笑顔を振りまきながら喫茶店に入る、黒髪の青年。

 莉奈の幼馴染でもあるロリコン学生、政臣だった。

 よほど“明日の行事”が楽しみなのか、喫茶店に入る時にアリアが居なければ震えている彼も、今日に限ってはハイテンションな様子だった。

 どうやら、“貰えない”ということは、欠片も想定していないらしい。


「政臣」

「源さんじゃあないですか!」

「今日、泊まっていけ」


 軽やかなステップで奥の席に腰掛けた政臣は、思いもよらない颯真の提案に目を瞠る。

 アリアの教育に何よりも悪いからと、締め出され続けて早一年。

 ついにこの日が来たのかと、政臣は机を揺らして立ち上がる。


「いいんですかっ?!じ、実家に電話します!」


 政臣は目にも止まらぬ速さで携帯電話を取りだすと、電話番号を素早くプッシュする。

 見た目は白の質素な携帯電話だが、如何にも小さい女の子がよってきそうな可愛らしい動物のストラップがついているあたり、駄目な意味で彼らしい。


「俺!今日友達んとこ泊まるから!……うん、うん、それじゃ!」


 直ぐに親に連絡を入れて、政臣は至福の笑みを浮かべる。

 この何よりも幸せな表情を、ヴィヴィアンは見ていられなかった。

 ロリコンに同情する気は無いが、奈落に落ちる表情を見て楽しむ趣味もないのだ。


「ありがとうございます源さんっ!……ところでアリアちゃんはどちらでしょうかっ」


 一人で舞い上がっていた政臣は、気がつかない。

 村正がそっと移動し、喫茶店から逃げられない位置に陣取っていたことに。

 颯真の懸念することは、娘を預けている村正にも当てはまるのだ。


「今、御條のところに預けてある。泊まり込みだ」

「へっ?!」


 颯真の言った意味を理解できず、目を見開く。

 次いで言った意味を理解して、ふらりと後ろへ下がる。

 そうして入り口を塞ぐ村正を見て状況を把握し、光の灯らない瞳で椅子に崩れ落ちた。


「これから、み、源さんと、二人きり?」

「安心しろ。私も泊まる」


 警察官とヤクザ――外見が――と三人で、楽しい楽しいお泊まり会。

 あんまりといえばあんまりな展開に、政臣は視界が真っ白に染まっていくのを感じ取る。

 そんな政臣の哀れな様子に、ヴィヴィアンは早々に目を逸らしていた。あらゆる意味で見ていられない。


「はぁ、もう。颯真ー、テレビつけるわよ」

「好きにしろ」


 喫茶店のカウンター。

 その中につけられた小型のテレビは、完全に颯真の“暇潰し用”である。

 そのうち店に移すのだろうが、それもその方が客の入りが良くなりそうだとアリアが感じた時になるので、当分移動はないということは予想できてしまった。


 とにかく三人から目を離したかったヴィヴィアンは、カウンターの中に入って電源を入れた。チャンネルは、適当なニュースにでも合わせておく。


『昨晩未明、三度目の強盗事件が発生。犯人は依然逃走中で――』

「あら?まだ解決してないのね、この連続銀行強盗事件」


 流れたニュースの内容に、政臣はチャンスとばかりに食いつく。

 とりあえず、逃げられないにしてもこの空気だけは何とかしたかったのだ。


「確か、もう三箇所も襲って逃げてるんですよね?」

「そうだな。今のところ怪我人は居ないが、ここまで逃げ切られると不気味だという話になってな。もうすぐ私も駆り出されるかもしれん」

「うっひゃぁ、大変ですね」


 政臣と村正の会話。

 その意味に気がついた颯真とヴィヴィアンは、互いに顔を見合わせた。

 村正が出なくてはならない事態……それは、“シフター”が関わることだ。


「何事もなければ、いいのだけれども、ね」


 ヴィヴィアンは、テレビ画面を見てそう呟く。

 その瞳に宿った微かな憂いに気がついたのは、偶然視線を移した颯真だけだった。











――†――











 菊ノ瀬市からバスに乗って二駅進むと、隣町である牡丹ノ原市に行くことができる。

 娯楽施設やスタジアムなどを多く持ち、人々に好まれる明るく豊かな町作りをしている。そのため、菊ノ瀬市にある県内最大の音楽大学である、百合ノ原音大に通う学生達は、大抵この町でアパートメントを借りるのだ。


 莉奈の住むマンションは、そんな牡丹ノ原市の端に建っていた。


「到着だよ、二人とも」

「うわぁ……」

「おおきい」


 アリアと桜は、二人揃って口を大きく開いた。

 見上げたり風で感じ取るだけでは一番上がどうなっているのか良く解らない、地上四十七階建ての超高層マンション。


「アリア、そとぼりにいけがある」

「おさかなさんは?」

「かんじられないからいない、とおもう。たぶん」


 敷地内に入った時点で、整えられた並木道に迎えられた。

 それからマンションを見上げるまで、人工に作られた川や池まであったのだ。

 普通に生きていればまずお目にかかることのできない光景で、それ故に訪れる者へ安心を与えることができるだけの、設備があった。


 やや過保護気味な颯真が、この“お泊まり会”の許可を渋りながらも出した背景には、確実な信用のある場所だったということが、一因としてあったのである。


 広いエントランスホールを抜けて、大きなエレベーターに乗る。

 その中もデパートなんかとは比べものにもならないほど清潔で、上品な作りだった。

 敷地内に足を踏み入れてから、二人の口は一度も閉じていない。


「りなさん、このえれべーたー、いつうごくの?」

「もう動いてるよ。なるべく音がないように動くんだよ」

「うん……しずかだけど、たしかにうごいてる」


 階数を示す表示が、だんだんと昇っていく。

 デパートのそれよりも遙かに速いスピードで昇っていくのにも関わらず、意識しなければ駆動音など聞こえなかった。


 そうして辿り着いたのは、地上四十七階……超高層マンションの最上階だ。

 大きな玄関から入り、二人は靴を脱ぐ前にまず一礼。

 立派なレディになるための条件は、挨拶から始まるのだ。


「おじゃましますっ!」

「おじゃまします」

「ふふ、はい、どうぞ」


 莉奈の言葉に顔を上げ、アリアは今日何度目かも解らない絶句をした。

 口を半開きにしながら見渡すのは、マンションの中とは思えないほどの広いラウンジ。

 床下暖房でも使用しているのか、フローリングに立っても冷たさは感じられない。

 見て驚くアリア同様、桜もその光景を視覚以外の感覚で感じ取り、やはり驚いていた。


「兎さんと熊さん、どっちのスリッパが良い?」

「えーと……わたしは、うさぎさん!」

「それならわたしは、くまさんがいいです」


 並べられた可愛らしいスリッパを履いて、ラウンジを歩く。

 まず案内されたのは、牡丹ノ原市の全景を見ることができるベッドルーム。

 昼間の内なのに目に焼き付くほどの光景という事は、夜景はその比でなく絶景なのだろう。


「今日寝る部屋はここで、大丈夫?」

「う、うんっ」

「もちろんです。すごい、きもちのいいへやです」


 アリアと桜は、リュックを部屋に置くと、早速窓まで走り寄った。

 無邪気な子供達でも足が竦む高さなのだが、それもアリアと桜の二人には当てはまらなかった。“空を飛べる”ということは、高さで動じたりはしないという事なのだ。

 もっとも桜は、景色を楽しむのではなく、景色を楽しむアリアの感情を読み取り同期することで安らぎを得ているのだが。


「さて、それじゃあ早速、キッチンに行ってチョコレート作りをしようか?」

「ぁ……うんっ!おねがいします、りなさんっ」

「おねがいします」


 勢いよく頭を下げると、二人の髪がふわりと舞う。

 その一生懸命で、そして気合いの入った様子に莉奈は小さく頬を綻ばせた。

 鈴を転がすような声で笑いながら、自分の後をヒヨコのようについてくる二人の少女。

 颯真と村正が溺愛してしまうのも仕方がないと、莉奈は一度だけ苦笑を零すのであった。











――†――











 着てきた服の上から身につけるのは、この日のために用意したエプロン。

 鳩のワッペンがついた白いエプロンがアリアのもので、カラスのワッペンがついた黒いエプロンが桜のものだ。

 可憐な白い天使と、綺麗な黒い小悪魔。頭に頭巾を巻いて拳を握りしめるその姿に莉奈は、彼女の幼馴染のように邪な意味ではなく、目の保養をしていた。眼福である。


「まずは市販のチョコレートを用意します」

「はい、せんせい!」

「はい」


 先生、とそう呼ばれて、莉奈は刹那目を瞠る。

 だがすぐに柔らかい笑みを浮かべると、二人が用意した板チョコを見て微笑んだ。


「お家でもできるように、今日は湯煎のやり方を覚えましょう」


 普段莉奈は、熱を発するプレートのような機械“電磁調理器”を使っている。

 だが当然ながらどこの家庭にもあるものでは無いので、今回行うのは熱湯によってチョコレートを溶かす、“湯煎”だった。


「まずは、頑張ってチョコレートを砕いてみて」


 包丁を使って細かくしても良いのだが、今回は小さな子供二人とチョコレートを作るという事もあり、それは行わない。

 莉奈が二人の前でチョコレートを細かく砕いていくと、それに合わせてアリア達も砕き始めた。


「えいっ」

「む、けっこうむずかしい」


 莉奈が用意した、足場代わりの高い椅子の上に立って、机の上でチョコレートと戦う。

 ほどよく暖房の効いた室内は暖かいが、真冬のチョコレートを柔らかくするには少し力不足だ。冷たい風では、旅人の服を剥ぐこともできない。重要なのは、芯から温まる麗らかな陽光なのである。


「できたっ」

「できました」


 満足げに笑うアリアと、喜色を頬に浮かべながら微笑む桜。

 対照的だがよく似ている二人に、莉奈は“姉妹みたいだ”と考える。

 莉奈は知らぬ事だが、生まれた環境的に考えれば、あながち間違いとも言い切れなかった。


「次に、熱いお湯を入れたボウルに、もう一個ボウルを浮かべます」


 それぞれの前に置かれた、熱湯入りのボウル。

 莉奈はこの日のために、幼い子供の火傷の対処まで、しっかりと勉強していた。

 自信さえしっかりつけておけば、本番で失敗なんかしないのだ。


「そうしたら後は、柔らかくなるまでひたすら混ぜる!」

「うんっ!やってみる!」

「わかりました。やってみます、りなさん」


 アリアと桜は、熱湯に注意を払いながらチョコレートをへらで崩していく。

 伸ばして、叩いて、捻って、首を傾げて。

 地味にで面倒で大変で時間のかかる作業だが、二人は見事にやり遂げてみせた。


「そうしたら、この型から好きなのを選んで、チョコレートを流し込んでみよう?」

「わかった!えーと」


 沢山並べられた、チョコレートの型。

 莉奈が今日のために用意していたものの一つで、ハート型や星形だけでなく、丸四角三角に各種動物まで、本当に多くの種類が揃えられていた。


「ぁ」


 その中の、一つ。

 コウモリを模った型を見つけて、アリアは手を伸ばす。

 その羽は見まごう事なき、大切な“おとーさん”のものに、よく似ていた。


 アリアがコウモリの型を手にする横で、桜は一つ一つ手にとって形を確かめていた。空気の流れや音の反射で形は解る。だが、視覚で捉えるほどはっきりとしたイメージで捉えることは、桜はまだできない。

 だから父親を思い浮かべて、そのイメージでチョコレートの型を選んでいた。


「わたしは、これ」


 選んだのは、三日月の型だった。

 半円を描くその形は、さながら刃のようで。

 鋭利な日本刀を連想させる空気を放つことがある、父親のイメージになぞらえていた。


「よし、それじゃあ型に流し込もう!」

「うんっ!」

「はいっ」


 普段、年齢不相応に落ち着いている桜から、弾んだ声が漏れる。

 二人はチョコレートを選んだ型に流し込み、それから余剰分を適当に選んだ型に流し込んだ。流石に、一個には収まらない。


「あとはこれを冷やせば完成だよ」

「えと、おねがいします!りなさん」

「おねがいします。あと、ありがとうございます」

「ううん、私も楽しかったから」


 莉奈は頭を下げる二人に微笑みかけると、大きな冷蔵庫に二人のチョコレートを入れる。

 もちろん、二人に実践しながら作った自分の分も、忘れずに。


 そうしてだいたいの作業を終えると、もう夕方になっていた。

 茜色に染まった空は、己の色を地上に映す。

 それにより、普段白く輝く町並みは、空と同じく橙色に煌めいていた。


「ねぇさくらちゃん、おとーさんはどっちかな?」

「たぶん、あっち」


 方向感覚にも優れている桜は、こういったことで場所を間違えたりはしない。

 だからアリアに頼られていることに気恥ずかしさと嬉しさを覚えながら、感覚で捉えた方向を、あっちこっちと示し続けていた。


「今から夕ご飯を作るから、自由に過ごしていていいよ」

「はーいっ」


 アリアが元気よく返事をし、桜はそれに続いて、キッチンから覗く顔に頭を下げた。

 この場所は、桜が“以前”住んでいた“部屋”と、同じくらいのスペースがあった。

 だが、家具や壁の配置などでこちらのほうが小さいくらいだというのに、桜は何故だか、目に包帯を巻いて過ごした“部屋”の方が、ずっと狭く感じられていた。


「ひろくて、あったかい」

「えへへ、うんっ。あったかいね!さくらちゃんっ」


 フローリングの熱の事でも言っているのか、小さく足踏みしながらアリアは桜の呟きに同意する。桜はそんなアリアの笑顔を見て、自分も頬を綻ばせた。


――きみがいたから、わたしはわらっていられるんだよ?アリア。


 脳裏によぎった言葉は、口には出さない。

 そうしてただ、桜は優しく微笑んだ。

 この喜びが、アリアに伝わりますように、と。











――†――











 ニンジン、タマネギ、ブロッコリー、鶏肉。

 ことこと煮込んだホワイトクリームのシチューが、柔らかいご飯にかけられている。

 カレーライスやハンバーグに続いて子供達が好む料理、クリームシチューが、今晩の夕飯だった。


「いただきますっ」

「いただきます」

「どうぞ、召し上がれ」


 莉奈は言いながら、二人の首にナプキンを巻き付ける。

 零してしまうのは子供ならば仕方が無く、普段父親達が言っているのなら、莉奈はここであえて言うつもりはなかった。


「はふ、ん……おいしいっ」

「はむ……うん、おいしい」


 表し方は違えど、二人とも喜んで食べてくれているのが解った。

 拙い手さばきでスプーンを操り、頬を膨らませて息をかける。

 アリアはふぅふぅと、回数はだいたい二回から三回ほど。充分に冷ましたら、大きな口を開けて頬張るのだ。


 その様子がリスのように可愛らしく、莉奈はデジタルカメラを構えて時折撮影していた。

 実はチョコレート作りの最中にも撮影していたのだが、とにかく一生懸命な二人は気にしている余裕がなかったのだ。


「これだけ可愛い姿が見られるなら、源さんも怒らないだろうしね」


 保身である。

 妙な八つ当たりをされることは、なんとなく解っていた。

 だからこそ、娘の可愛い姿で癒されて貰おうと考えていたのだ。

 もちろん、この微笑ましい姿を撮影しておきたいという気持ちもあるのだが。


 両手で抱え込むように水を飲むアリアと、熱いのがさほど得意ではないのかアリアの二倍ほど息を吹きかける桜。その様子を頬杖をつきながら眺めると、莉奈自身も食事を再開するのであった。











――†――











 夕飯の後は、お風呂である。

 夜景を一望できる、檜造りの大きなお風呂。

 そこで三人は、一緒に身体を洗っていた。


 鳩の装飾のシャンプーハットと、カラスの装飾のシャンプーハット。

 それをつける二人の後ろに回り、莉奈は二人の髪を洗っていた。


「アリアちゃんも桜ちゃんも、すごく綺麗な髪だね」

「えー、りなさんもすっごくきれいだよー」

「うん。りなさん、きれい」

「そう?ありがと」


 木製の腰掛けに座りながら、アリアは気持ちよさから目を閉じる。

 人に頭を洗って貰うという事は、普段颯真に洗って貰っているのとは、また別の心地よさがあった。強いて言うのなら、莉奈は颯真のそれより“柔らかい手”なのだ。


「アリアちゃんは普段、源さんに?」

「うん。おとーさんが“まるあらいだ”って」


 ぬいぐるみを洗うような感覚である。

 もちろん丁寧に洗っているというのは、艶やかなアリアの髪の感触からも解る。

 けれど如何にも“らしい”様子に、莉奈は頬を引きつらせた。


「はい、流すよー」

「うん……はふぅ」


 アリアの髪を流し終えると、丁度身体を洗い終わった桜の後ろに回り込む。

 その間に、今度はアリアが自分で身体を洗い始めた。


「桜ちゃんも、香川さんに?」

「はい。おとうさんと、それからおなじ“か”のゆりさんや、あんずさんが」


 男一人暮らしの村正が、娘を育てている。

 その手際は間違いないのだが、それでも心配して同じ課の百合や杏子が手伝いに来ることがあるのだ。おかげで桜は、村正の仕事が忙しい日でも、割と割と寂しさを感じずに過ごせていた。みんな忙しかったらアリアと過ごして、それはそれで楽しんでいる毎日だ。


「はい、流すよ」

「はい、おねがいしま、すぅ」


 温かいお湯をかけられて、気が抜ける。

 その横では、身体を洗い終わったアリアがそんな桜を見て楽しそうにしていた。


「それじゃあ、浴槽へ移動しようっ」

「うんっ」

「はい」


 乗り気なアリアと、若干物怖じしながらお湯に入る桜。

 三人は夜景を眺めながら、並んで浴槽に腰掛けた。

 檜の香りと、入浴剤で真っ白なお湯。

 窓から眺められる絶景と、両隣の体温に、桜は全身から力を抜いてお湯に浸かっていた。


「百数えたら、出ようね」

「うんっ……えーと、いーち、にぃー、さーん、しぃー、ごぉー――」

「ろーく、なーな、はーち、きゅーう、じゅーう、じゅういち――」


 並んで、一緒に数えてくる。

 拙い口調の少女達による、優しい輪唱。

 その澄んだ音色に、莉奈は目を眇めて耳を寄せていた。


 自分も一緒に、数えたくなる。

 そう考えたら止まらず、三人に混じって輪唱を始めた。

 互いに数を忘れぬよう、ゆっくりと、ゆっくりと……。











――†――











 お風呂から上がったら、そろそろ寝る時間だ。

 パジャマに着替えて、髪を乾かして、歯を磨いて。

 それでも、慣れない場所と明日への興奮で、二人は眠気を感じられなかった。


「うーん……あぁ、そうだ」


 そんな二人の手を引いて、莉奈は奥の部屋へ行く。

 寝室とは反対側のリビングルーム。

 その空間にあったものに、アリアは声を上げた。


「わぁ……ぴあのだっ!」

「えーと、ん……ほんとだ、おっきいぴあのだ」


 黒く大きなグランドピアノ。

 それが、夜景の見える位置に配置されている。

 艶やかなピアノはよく手入れされていることが見て取れて、行き届いた気遣いにピアノが喜んでいるように、アリアは感じていた。


「さ、座って」


 黒いソファーに腰掛けると、心地よい柔らかさに吸い込まれる。

 アリアはそれが楽しくて、何度も身体を弾ませた。

 桜もそれは同様で、アリアよりも控えめにその感触を楽しむ。

 だがやがて二人とも、蕩けた表情で大きく息を吐くにいたった。


「それじゃあ最初は、森の熊さん」

「おー」

「わぁ」


 柔らかい、音だった。

 森の熊さん、チューリップ、グリングリン。

 聞いたことのある曲が、綺麗な歌声と共に流れ出す。

 莉奈の唇に合わせて紡ぎ出される音色は、心地よい。


 温かい、声だった。

 大きな栗の木の下で、汽車ポッポ、さくらさくら。

 耳をくすぐる旋律、大きな手に抱き締められているような感覚。

 美しい指から弾き出される音階は、どこか懐かしくて胸が温かくなる。


 莉奈が演奏を終わらせた頃には、二人はソファーの上で寄り添って眠っていた。


「ふふ……おやすみ、アリアちゃん、桜ちゃん」


 莉奈は二人の頬を一撫ですると、一人ずつ寝室に運ぶ。

 眠りながらも小さな手を握りしめ合う、二人の姿。

 そんな二人に、莉奈は柔らかい微笑みを浮かべて毛布を掛けた。


「さて……もう二~三曲、弾いてこようかな」


 気分が乗ってきてしまったと、莉奈は寝室から出る。

 電気を消す前にもう一度だけ、二人の寝顔を眺めて。











――†――











 暖かな日差しが、マンションの前に立った三人を照らす。

 チョコレートをリュックに収め、臨むは今日のバレンタイン。

 気合いは充分、自信も充分、そうなれば勇気も十分だ。


「それじゃあ、出発しようか」

「うんっ」

「はい……っ」


 大きなマンションを、アリアは一度だけ振り返る。

 そして小さく頷くと、踵を返してその場を後にした。

 一日過ごした部屋に胸の中で“ありがとう”と、言葉を残して。


 マンションからバス停までは、徒歩十五分ほどだ。

 それまでの道のりは、公共施設が建ち並ぶ。

 更にバス停に近づけば、娯楽施設が見えるのだ。


 その手前を、アリア達は笑顔で進む。

 リュックに詰まったチョコレートを、大切そうに気にかけながら。

 思い浮かべるのは当然ながら、父親達のぶっきらぼうな横顔と、優しい大きな手のひらだ。


「あれ?」


 そうして歩いている中、アリアがふと足を止める。

 それに合わせて、桜と莉奈も足を止めた。


「どうしたの?アリアちゃん」

「うんと、なんか」


 道向こうには、慌ただしい様子の銀行。

 それをのぞき込み、それからアリアは首を傾げる。

 銀行と、道と、自分の視界――その、中間。


「アリア、さがって。そこになにかある――」

「――ちっ、気がつくヤツがいるとはな」


 と、突如。

 何もない空間から手が伸びる。

 大きな、男のものに見える手が二本。

 アリアの腕と、側にいた桜の腕を掴み取った。


「アリアちゃん!桜ちゃん!」


 莉奈は咄嗟に、その手を掴み返す。

 だが、身体を鍛えている訳でもない普通の女性の力では、拮抗することもできなかった。


 そして、目撃者もないまま――その場から三人の人間が、姿を消した。











――†――











 冬の日差しに晒された、颯真達の喫茶店。

 そのカウンター席で、政臣は憔悴した表情で蹲っていた。


 この家での暮らしを一言で表すのなら、“快適”だ。

 綺麗に清掃された居住区と、金を払って食べたくなる美味しい料理。

 アリアが居る内は飲まないのか、上品で濃厚なウィスキーまで置いてある。


 それはもちろん素晴らしいことなのだが、如何せん居づらさの精神的負担の方が上回った。これでアリアでも居れば、颯真の視線に晒されようと政臣は乗り切ることだろうし、そうでなくても彼の幼馴染である莉奈が居れば、もうちょっと耐えられたことだろう。


 けれど、颯真と村正と三人で過ごす夜は、胃の痛みで正直あまり寝られなかった。

 泊めて拘束しておかなければ間違いなく突貫する――マンションは、良く行くので顔パスらしい――ので、日頃の行いという一言で片付けられてしまうのだが。


「むぅ、遅い」


 そんな中、カウンター席に腰掛けた村正がそう呟いた。

 昼前には戻ってくるはずだったのに、もう正午になろうとしている。

 そうなれば、心配になってくるのも仕方がないことだ。


「バスが混んでるとか、でしょうかね?」

「いや……この時間、バスは余り混んだりはしないはずだ」


 リサーチ済みである。

 村正も、颯真に負けず劣らず親バカだった。


「おい、政臣。連絡は取れるか?」


 アリアに携帯電話を持たせていなかったことを悔やみながら、颯真は政臣に声をかける。

 そのいつもの威圧感とは別のベクトルの真剣な声に、政臣は素早く携帯電話を取りだした。


「――――頼むから、出てくれよ」

『――…………ッ、政臣』

「莉奈か?今どこだ!」

『とりあえず、二人は無事。わからないけど、どこかの倉庫……きゃっ、かえし――』

――ブツッ


 途切れる声。

 政臣が咄嗟にスピーカーホンにしたため、その声は周囲に届いていた。

 そう、村正と颯真の二人の耳に。


「村正!」

「あらかじめ、桜のリュックには発信器が取り付けられている。警視庁御用達だ」

「でかした!」


 職権乱用である。

 些か過保護に取られるかも知れないが、彼女たちは“普通”の子供ではない。

 危機的状況に置いて無茶なことが“できてしまう”からこそ、余計に心配なのだ。


 莉奈が側にいるのなら、シフターとしての能力は使わないで居てくれるかも知れない。

 だが本当に危険な状況になったらアリアも桜も躊躇わないだろうし、それで傷ついても彼女たちは動くだろう。


「なるほど倉庫か……薔薇曽根埠頭の三番倉庫だ」


 村正が、携帯電話に表示されている地図を見て、確認をする。

 それを聞いて颯真は、椅子を蹴り上げる勢いで立ち上がった。


「行くぞ」

「あぁ、私の車で構わんか?」

「交通で足止め喰らうと面倒だ。念のため俺は単車を使う」


 瞬く間に準備を進める二人。

 厄介ごとに慣れているためか非常に手際が良く、颯真は黒いロングコートをウェイター服の上から羽織って、既に喫茶店の扉に手をかけていた。


「あの!俺も――」

「足手まといだ」


 政臣の言葉を、颯真は容赦なく切り捨てる。

 だが政臣も、ここで引こうとはしなかった。


「アリアちゃんも桜ちゃんも心配ですが、でも!莉奈もいるんでしょう?!」


 幼い頃から一緒に遊んでいた、親友。

 幼馴染の女性の顔を思い浮かべて、政臣は颯真の目を真っ向から睨み返す。

 続くかと思ったその状況に、すかさず村正が助け船を出した。


「御條君を助けるのに手を貸してくれるというのなら、断る気は無い」

「ちっ、時間がねぇ。好きにしろ」

「っありがとうございます!」


 二人の肯定に、政臣は目を輝かせて頭を下げる。

 もちろん、村正の言ったことは本当だ。自分が桜を、颯真がアリアを、政臣が莉奈を引っ張ってくれるのはありがたい。


 けれど、どうしても二人だけの時よりも機動力が落ちる。

 それでも政臣を連れて行こうと決意したのには、颯真への配慮があった。


「他に人が多くいれば、迂闊に“使わない”だろう」


 無線で署に状況を伝えると、村正はそう呟いた。

 使えば使うほど命を削る、颯真の能力。

 アリアが成人するまで生きられるかも解らないのに、これ以上更に削らせる気は毛頭なかった。


「これ以上、あの娘と過ごせる時間を削ってやるなよ――颯真」


 漆黒の大型バイクに跨る、颯真の姿。

 決して躊躇わず生き抜いてきた男の背中に、村正は大きく息を吐く。


 正午の菊ノ瀬市を、黒い乗用車と黒いバイクが、走り抜けた――。











――†――











 人の入らない倉庫の中、区切られた一室で、甲高い音が響く。

 前で手を縛られ尻餅をつく莉奈の前、携帯電話に突き立てられた大きなナイフ。

 ショートして動かなくなったそれを前に、莉奈は己の肩が震えるのを感じた。


「次に余計なことをしたら、解っているな?」


 莉奈の後ろには、莉奈同様ガムテープで手を縛られたアリアと桜が居る。

 その二人を、ナイフを突き立てたザンバラ頭の男が、睨み付けた。

 後ろの二人を引き合いに出されては、頷くことしかできない。


「おいおい、あんまりイジめてやるなよ手津野ー」


 ナイフを持った男――手津野隆行てづのたかゆきの後ろから、陽気な声が聞こえる。

 おかしな口調で変に高い声は、爬虫類のような気色悪さを醸し出していた。


「丹波……まぁ、いい」


 爬虫類のような男、スキンヘッドに刺青とサングラスという如何にもチンピラ然としたこの男の名は、丹波幸之助たんばこうのすけ。男達の、リーダーである。


「禎助、外の見張りはどうなってんだ?」

「渋川が行ったぞ。そろそろ戻ってくる頃だ」


 大柄な体躯にエラの張った顔と、茶色の逆立った髪。

 久留間禎助くるまていすけという名の男と――


「そ、外は誰もいなかったよ、丹波さん」


 ――ニット帽にたれ目の小柄な男、渋川充しぶかわみつるを含めた四人が、莉奈達を浚った犯人。


 巷を賑わせている、“連続銀行強盗団”である。


「アリア、あのおおおとこと、もうひとりの」

「うん、さんぐらすのひとだよね?なんか……“ちがう”」


 莉奈の後ろ。

 幸之助達の死角で、アリアと桜は状況を見ていた。

 莉奈がいることももちろんだが、ナイフの男、隆行とニット帽の男、充もまた莉奈と変わらず“普通の人間”だ。ここで迂闊に、能力は使えない。


「ね、ねぇ丹波さん、あ、あの女、見たことあるよ」

「あーん?」


 幸之助は充に言われ、胡乱げに莉奈を見る。

 サングラス越しで見えているのかと疑いたくなるが、そこは問題ないのだろう。

 目を逸らそうとする莉奈を、幸之助はじっくりと眺めていた。


「確か、なんかの雑誌で――」

「――お、思い出した!御條財閥の令嬢だよ!」

「はぁっ!?」


 充の言葉に、幸之助は胸を反らし大口を開けて、驚いた。


 世界にその名を轟かせる、大手楽器メイカー“御條グループ”は、音楽に興味のない人間でも耳にしたことがある大企業だ。次期社長は長男という話しだが、長女である莉奈も父の名に恥じぬヴァイオリン職人として、世界各国の音楽家から期待を寄せられている。


 当然、彼女自身の顔も、メディアの場に登場したことが幾度となくあった。


 そんな説明を、充は首を傾げる隆行にしていた。

 その分野に興味があるのか、はたまた何かしらの関わりでもあるのか。

 熱の篭もった解説に、アリアと桜は感心していた。


「どどど、どうしよう丹波さん!あんな化け物企業相手にしたら、消されちゃうよ!」

「ばばば、ばかやろう。俺の能力は知ってるだろ?捕まりっこねぇよ!」


 いっぱしの犯罪者相手に油断はできないが、どうにも気は余り大きくないようだ。

 どもりながらも、幸之助は胸を張ってみせている。見栄っ張りでもあるのだろう。


「この俺の――【眼部接続・因子転換・承認】」


 幸之助の呟いた言葉。

 その意味を知るアリアと桜は、瞳を鋭くする。

 幸之助はそんな二人に気がつくことなく、ゆっくりとサングラスを外した。


「っなに、あれ」

「【カメレオンシフト】」


 紫と紺色の、とぐろを巻いたような大きな目。

 人間のものとは思えないその瞳が瞬くと、幸之助の右半身が、宙に溶けるように消えた。

 そのねっとりとした雰囲気に、莉奈は驚きと嫌悪感から目を瞠る。


「――環境適応。おまえら四人程度なら車ごと隠せるんだ。安心しろ」

「そ、そうだよな、丹波さん」


 それが効かずに見つかった事など忘れて、四人は安堵の息を吐く。

 連続銀行強盗団として成功し続けてきた背景には、侵入する段階から逃げる段階まで、全て透明でいられるという能力の恩恵があったのだ。


「さて、充は引き続き外の監視。禎助は俺と収穫物の確認。手津野はそいつらの監視だ」


 そう言い放つと、幸之助はサングラスをかけ直す。

 そして一度だけ、隆行に振り返った。


「逃げようとしたら好きにしな」

「わかった」


 手提げからナイフを何本も取り出しながら、隆行は不気味に笑う。

 その銀光と仕草に、莉奈はびくりと肩を振るわせながらも、アリアと桜を背に隠そうとしていた。


 そうして後には、ガムテープで縛られた三人と隆行だけが、残されるのであった。











――†――











 赤灯を点けた黒い覆面パトカーが、車の間を疾走する。

 縫うように動いているのにも拘わらず、事故などは決して起こさないドライビングテクニック。


 身体にかかる重い圧力と、視界を流れていく車に建物に人間。

 その風景に、助手席に乗る政臣は顔を青くしていた。シートベルトがなければ、嘔吐していた可能性もあるだろう。


 道路を抜けて、脇道を走り、驚いて飛び上がった猫が電柱にしがみつく。

 植木鉢一つにもぶつからないのはいいのだが、村正のそんなテクニックを知らずに乗り込んでいる政臣としては、恐怖以外の何ものでもなかった。


「ひぃぃっ、ぶ、ぶつかるっ!?」

「大丈夫だ」


 なにが大丈夫なのかと、政臣は目を瞠る。

 T字路に向かって一直線、だというのにブレーキの反動で滑りながらもほぼ直角にカーブする。だが、それだけでは安心できない。


「ちょ、この先道無いですよっ!?」


 ガードレールの向こうには、青々とした海が広がっていた。

 日差しを反射してきらりと輝く海面に、このままでは飛び込んでしまうことだろう。

 そうすれば、二人仲良く海の藻屑だ。


「在ると信じれば、どこにだって道はある」

「無いですよ!」


 そうして村正は、躊躇うことなくガードレールを突き破った。

 声を上げる暇もなく、政臣は怯えたようにシートベルトを握りしめる。


 浮遊感に包まれる中、脳裏に浮かぶのは走馬燈。

 初恋の幼女は幼馴染でした。ただし幼女に限る。そんなどうしようもない走馬燈が、幼馴染にばれたらどうなるか、政臣はしなくてもいい心配をしていた。


――ダンッ

「へ?」


 海面にぶつかるかと思いきや、車は大きな衝撃と共に着地した。

 迂回しなければ来られないはずの薔薇曽根埠頭に、実に大胆な侵入を果たしてみせたのだ。


「し、死ぬかと思った」

「この程度、生きていれば十や二十は体験するものだ」

「しませんよ!」


 むしろ、一度切りで十分だ。

 そんな政臣の願いは、叶わない。

 なぜならば、第三倉庫が見えているのに村正がブレーキを踏もうとしないからだ。


「あ、あの、ブレーキは?」

「いらん。突っ込むぞ!」

「えぇぇぇっっ!?」


 アクセルは、全開で。

 大きな倉庫のシャッターめがけて覆面パトカーが突撃する。


「さて、ハンドルは任せた」

「え、ちょっと、え?!」


 政臣にハンドルを握らせると、村正はドアを開け放ち外に出る。

 そして器用に身を翻して、車の屋根に乗った。

 この位置ならば、政臣は自分を見ることができない。


「【右腕部接続・因子転換・承認】」


 右手を鋭い鎌のついた、虫のものに変換する。

 そうして構えるのは、腰だめの型――居合い術だ。


「【マンティスシフト】」


 煌めく銀光が、シャッターを横一文字に斬り裂く。

 更に返す刃で二度三度と切り刻み、車が近づいてから突入するまでの僅かな時間で、入り口を作ってみせた。


「もういいぞ」

「もういいって……っわ」


 そういって車内に戻り、ブレーキを軽く踏みながらドリフトする。

 だが勢いが強すぎたのか、そのまま五~六回ほどスリップして、倉庫に積まれた段ボールに衝突する形で漸く勢いを止めた。


「流石に颯真はまだか」

「い、生きてる?生きてる?俺生きてる?」


 村正は何事もなかったように車から降り、政臣は腰を引かせながら恐る恐ると車から出た。いくらヘタレとはいえ、この場合ならば、正常なのは言うまでもなく政臣だ。普通はこんなに、毅然としていられない。


「なんだテメェら!」

「ここで何をしているッ」


 幸之助と禎助が出て来て、村正と政臣を威圧する。

 その騒ぎを聞きつけて、隆行までやってきた。

 だが、そんな隆行を、幸之助が怒鳴りつける。


「手津野!おまえは人質から目ェ離すんじゃねぇ!」

「ぐ、ぬ、そ、そうか。なら俺はあいつらを――」


 踵を返そうと、隆行が幸之助に返事をする。

 だが、ここにはもう一人、それもとっておきの“危ないの”が来るのだ。

 人質の元になんて行かせようとしない、一人の“父親”が。


――バリンッ

「な、なんだ!?」


 倉庫の窓を突き破って、黒い大型バイクが飛び込んでくる。

 そのバイクは人質の元へ行こうとした隆行の前で綺麗に止まり、事も無げに降りたってみせた。


「なな、なんだ、おまえ!」


 黒いフルフェイスのヘルメット。

 断続するエンジン音の中で醸し出される、圧倒的な存在感。

 身を刺すようなプレッシャーに、隆行は無意識のうちに後退していた。


「貴様らに名乗る名前なんぞ、ねぇよ」


 ヘルメットを取り、そのまま足下に投げ捨てる。

 ウェイター服に黒いロングコートという姿は、さながら死神のようだった。


「素直に跪くなら、五発で許してやる」


 その手に持つのは、巨大なリボルバー拳銃。

 彼の友人がS&WM500をカスタムした、世界最強の名を冠する化け物銃。

 ちなみに五発装填なので、許す気など欠片も見あたらない。


「ハジキ程度にびびるな!手津野、おまえ得意のナイフはどうした!?」

「お、俺は血が苦手なんだ!」

「ハァ?!」


 倉庫の中央に追い詰められた三人が、互いに声を荒げる。

 そんな情けない様子を見ても、颯真は怒りを収める気は無かった。

 だが、その状況も一発の銃声で、変化する。


――ダンッ!

「ひはァ!そこまでだ!」

「っ……」


 縛られた莉奈とアリアと桜。

 その三人に銃を突きつけて、充は奥からやってきた。

 状況を見て一目散に人質の元に向かったのだろう。

 拳銃を手に持って気が大きくなった彼は、まるで別人のようだった。


「源さん、香川さん……それに、政臣?」

「……おとーさん」

「ごめん、なさい」


 目に見えて落ち込む、アリアと桜、そして莉奈。

 その様子に、颯真達は歯を噛みしめる。


 乾いた空間の中で軋む、空気。

 その空気を打ち破ったのは、幸之助だった。


「くははははっ、良くやったぞ充!【全因子接続・因子転換・承認・変身】」

「よし、これなら勝てる!【全因子接続・因子転換・承認・変身】」


 幸之助と、それに続いて禎助の身体が変化する。

 緑の鱗、大きな目、長い舌、吸盤のついた手足の指。

 茶色い体毛、二メートルを超える身長、丸太のような腕。


「【カメレオンアウト】」

「【コングアウト】」


 二体の巨大なシフターと、ナイフを構えてヤケクソになっている犯罪者。

 たった一人の行動で、一気に場が逆転した。


『さぁて、いたぶってやるぜ』

『この強腕、この剛毛!逃れる術はないぞ!』


 力を手にした小心者ほど、気が大きくなる。

 それを体現するかのような言動に、村正は頭痛を覚えていた。

 こういうタイプが一番御しやすいのだが、調子に乗られると一番厄介なのだ。


「なんとか、しないと」


 その光景を目の当たりにして莉奈は、ただ一人唇を噛みしめた。

 子供達を守らなければならない。政臣ですら、危険を冒して助けに来てくれた。

 それなのに、自分はなにも、できていない。


「アリアちゃん、桜ちゃん」

「りなさん?」

「……二人は私が――守るから」


 銃を突きつけて完全に勝った気になっている、充。

 莉奈はそんな充に振り向きながら、肩でタックルをした。


「いでっ……お、おまえ!」

――ダンッ!


 体勢を崩しながらも、充は銃の引き金を引く。

 適当に狙った上にもともと腕なんか無かったため、その一撃は莉奈の左手を掠めるに終わった。


 だが深くは入らなかったが、それでも血は滲む。

 赤く線が入った莉奈の腕を見て、微かに香る血の臭いを感じて、アリアと桜が飛び出した。


『チィッ!』

「させるかよ!」


 空間に溶け込もうとした幸之助に、政臣が飛びつく。

 何をしようとしたかは解らないが、碌なことではないだろう。

 危険なことかも知れないのに、それでも政臣は飛び出さずには居られなかった。


『丹波!くっ、こうなったら俺が――』

「――誰が、行って良いと許可した」


 動き出そうとした禎助を、立ちふさがった村正が止める。

 その手に掴むのは、彼が最も愛用する武器――銘刀・雅宗だ。


「そこで寝ていろ」

『俺の力を嘗めるな――ァッ!?』

――キンッ


 すれ違い様に、一閃。

 抜き放たれた刃が空中で返り、峰打ちによって禎助が倒れる。

 鎧袖一触。いくら強い力を持っていても、彼程度で逃れられる刃ではない。


 一方、地に倒れる莉奈を一瞥して、アリアと桜が走る。

 見られてしまうだとか、そんな気持ちは追いつかない。

 ただ二人は、体勢を崩して息を荒げる充だけを、捉えていた。


「【わんぶせつぞく・いんしてんかん・しょうにん】」

「【ぜんいんしせつぞく・いんしてんかん・しょうにん】」


 桜の腕が、黒い羽に覆われる。

 やがてその両腕はガムテープを引きちぎり、翼となって広がった。

 アリアは、見た目こそは変化しないが、淡い輝きに包まれている。

 その効果か、アリアの手を縛るガムテープは消滅していた。


「【くろうしふと】!」

「【いまじんあうと】!」


 桜の風が銃を吹き飛ばし、アリアの手に生まれた輝きが充本人を吹き飛ばす。

 枯れ葉のように宙を舞う充はその一撃で気を失い、地面に落下した頃には悲鳴を上げることもなく目を回していた。


「ひぃぃ」


 莉奈の血を見た時点で、隆行は使い物にならなくなっていた。

 それを見て、幸之助は舌打ちをする。

 だがここで逃げなければ、晴れて刑務所行きだ。無駄に高い虚栄心を持つ幸之助にとって、それはいやだった。


『チィッ!ここで捕まってたまるか!』

「そうか」


 消えようとした幸之助の長い舌を、大きな手が掴み取る。

 それは、颯真が素早く出した彼の左手だった。

 無駄に出しているから掴まれるのだが、無意識なのでどうしようもないのだ。


『ほ、ほまえ、や、やえろ!』


 舌を掴まれて上手く喋ることのできない幸之助に、颯真は銃を突きつける。

 その目は真剣そのものであり、こんな状況でなくとも怖い。

 こんな状況で掴まれている幸之助の内心は、推して知るべしものであった。


「風穴は……アリアが嫌がるか」

『ほっ……っへ、ひぃっ』


 颯真が銃をしまって安心したのも束の間。

 颯真は舌を掴んだまま幸之助を引き寄せると、右手で幸之助の太い後ろ首を掴んで、そしてそのまま片手で持ち上げた。


「コンクリートと誓いの口づけだ。一生幸せにしてやれ」

『ひゃ、ひゃめ――――へぐぅっ!?』


 颯真はそのまま、地面に幸之助を叩きつける。

 人外じみたその一撃により、人外の風貌の幸之助はコンクリートにめり込んだ。

 そしてそのまま、だらりと手を下げて動かなくなる。まぁ、丈夫なのでせいぜい骨折が関の山だろう。


 村正が禎助と充、それから隆行を拘束する。

 自分一人の力では、めり込んだまま復帰できないであろう幸之助は、後回しだ。


 手を押さえる莉奈は政臣が抱き起こしていて、その側にはアリアと桜の姿があった。


「ごめんなさい、りなさん。わたしたちも……わたしたちも、ひととは、ちがう」


 顔を落として、桜が独白する。

 知られたくなかった。

 幸之助の目を見て嫌悪感をあらわにしていた莉奈に、自分の姿を見て嫌われたくなかった。それでも、動かずにはいられなかった。


 誰もなにもいう事が出来ず、アリアもただ俯くばかり。

 少女達がどう変身しようと気にならない政臣がフォローをしようとするが、それよりも速く莉奈が動いた。


「へ?」

「ぁ」


 政臣の手から離れて、アリアと桜を抱き締める。

 彼女たちのことを知らなければ、あるいは彼女たちが恐れる未来もあったかも知れない。

 けれども莉奈は、アリアと桜のことを、本当に“良く”知っているのだ。


 父親のために一生懸命で、友達の手を取って温かく笑う、その姿を。


「助けてくれて、ありがとうね」


 目を瞠る二人に、莉奈は肩越しにそう告げる。

 抱き締めた両手から伝わる、少女達の怯え。

 こんなにも子供らしく在る彼女たちが、幸之助達と同じなはずがない。

 けれどもシフターの事情をよく知らない莉奈は、アリアと桜を安心させるために、ただ自分の気持ちを吐露した。


「私はアリアちゃんと桜ちゃんが――――大好きだよ」

「り、なさん」

「……りなさん、りなさんっ」


 二人は莉奈に抱きつき返すと、涙を流す。

 颯真達が見守る中で、大きく声を上げて泣いていた。


「アリアちゃんっ……桜、ちゃんっ!」


 やがて莉奈も抑えきれなくなり、政臣もつられて四人で泣く。

 一度溢れ出した涙は止まらず、頬を伝ってアリアと桜に流れ落ちた。

 ただただ思いを伝えたいと、腕に力を込めて抱き締める。


 その様子を、颯真と村正はただ、優しげに見つめていた――。











――†――











 太陽が西に落ち始め、空が橙色に輝く。

 夕暮れ時になった頃、後始末を終えたアリア達は、疲労感を滲ませながら喫茶店に辿り着いた。


「もう、しばらく車は勘弁です」


 席に着いた政臣の第一声は、村正の運転への愚痴だった。

 肝を冷やす場面が何度もあったのだ。不平の一つも言いたくなるのは、仕方がない。

 もちろん、それで間に合ったのだから、本気で不満を言うつもりはないようだが。


「りなさん、ひだりてはだいじょうぶ?」

「ぴあのがひけなくなったり、しませんよね?」


 左肩に包帯を巻き首から吊った莉奈に、アリアと桜が声をかける。

 あんなに楽しそうにピアノを弾いていたのに、それが出来なくなったらと思うとアリアと桜は悲しくなっていた。

 その声は心の底から莉奈を心配していて、それ故に莉奈は気恥ずかしさと両立した嬉しさを覚える。


「大丈夫だよ、見た目相応、それほど深い傷ではないからね」

「ほんとうに?」

「うん。ホントだよ」


 莉奈に目を合わせて言われ、アリアは大きく息を吐いた。

 それは桜も同様で、安堵の息と共に肩を下げる。

 二人とも、よほど心配していたのだろう。


「さ、私は良いから、今日本当にやりたかったこと、やっておいで」

「ぁ……うんっ!」

「ありがとう、りなさん」


 アリアと桜は、互いに顔を見合わせると、頬に朱を差しながら微笑み合う。

 あの騒動の中でも傷つくことの無かった、可愛らしいラッピング。

 その包みを持って、アリアは小走りで颯真に近寄った。


「おとーさん!」

「……どうした」


 煙草に火を点けようとして、それから直ぐに握り潰す。

 疲れているであろうアリアにわざわざ注意させるのは、忍びなかった。

 それでも時折注意させてしまうのは、颯真の悪い癖である。


「えーとね、うんとね」


 言いづらそうにしているアリアを、颯真はただじっと待つ。

 アリアはそんな颯真の視線に気恥ずかしさを感じて頬を上気させながら、上目遣いで颯真を見ていた。


「これ、ばれんたいんぷれぜんとっ!」

「バレンタイン?……あぁ、バレンタインか、今日は」


 アリアの言葉で漸く今日が何の日であるか気がつき、それから包みを開けた。

 ラッピングの包みを止めるリボンを丁寧に解き、中に入った小さな箱を取り出す。

 手のひらサイズの小さな箱は、きっと少し力を入れただけで簡単に壊れてしまうことだろう。だから颯真は、なるべく力を加えないように、ゆっくりと丁寧に開けていった。


「コウモリか……これは、アリアが作ったのか?」

「うんっ!」


 満面の、笑みだ。

 初めてのチョコレート作り、その成果。

 綺麗に冷やされたチョコレートは、気泡が浮いたりもしておらず、実に良い出来だった。


「どう?」


 颯真はそれを味わうために、まず半分に折って口に放り込む。

 基本的に好き嫌いのない颯真は、割となんでも食べることができる。

 生きてきてそれなりに美味しい料理も食べたことがあるし、作ったことだってある。


 だがこのチョコレートは、今まで食べてきたどんな料理よりも、美味しいような気がしていた。


「あぁ……最高に美味いぞ、アリア」


 颯真は、社交辞令やお世辞の類が、本当に苦手だ。

 誰にでも本音で切り込んでいくからこそ、老若男女問わずに怖がられるのだ。

 大人としてはもうどうしようもないくらい、駄目なタチである。

 だからこそアリアは、それが颯真の本心だという事に気がついて、嬉しそうに微笑んだ。


 ふと横を見れば、桜もまた嬉しそうな表情で、村正と向き合っているようであった。


「はぁ~、いいなぁ」


 そんな彼女たちの様子を、離れた席で政臣が見ていた。

 アリアと桜にチョコレートを渡され、見たことの無いような柔らかい表情を浮かべている二人。とくに颯真からは、普段の刺々しさが見あたらない。


 バレンタインのことなんかすっかり忘れて救助に向かっていた政臣は、普段ならちゃっかり分けて貰おうとするのに、今回はタイミングを逃してしまった。

 流石に今割り込むような、空気の読めない真似はできないし、落ち着いたら颯真と村正の手によって、大人げなくも全力で阻止されることだろう。


「うぅ、チョコレートさん」


 だから政臣は、情けなくも項垂れることしかできなかった。


「まったく……そんなに言うんだったら――――これで、我慢しなさい」

「へ?」


 項垂れる政臣の前に置かれた、包み。

 可愛らしいラッピングで包まれたそれは、まごう事なき――チョコレート、だ。


「今日の政臣、さ。いつもよりちょっとだけ……格好良かったよ」


 上気させた頬を隠すように、莉奈は顔を背けた。

 けれど横顔から覗く耳が、夕焼けよりもずっと朱くて、政臣は小声で礼を言いながら受け取ることしかできなかった。彼の頬もまた、夕焼けのように朱くなっているからか、気の利いた言葉の一つもいえやしない。


「サンキュ、莉奈」

「ん、どーいたいまして」


 包装を開けて、星形のチョコレートを口に放り込む。

 チョコレートの味なんか、よく知っているはずなのに……政臣は、莉奈のチョコレートが、普通に食べられるそれよりもずっと甘いような、そんな感覚を覚えていた。


 アリア達にとっての初めてのバレンタイン。

 艱難辛苦はあったけれども、こうして最後には笑い合うことができた。


「おとーさんっ」

「おとうさん」


 アリアと桜の声に、颯真と村正は揃って首を傾げる。

 そんな二人の表情に、アリアと桜は、楽しそうに微笑んだ。

 そして揃って、大きく思いを伝える。


『だいすきだよっ!』


 新しい関係、新しい感情。

 夕暮れの喫茶店を包む陽光は、どこか彼女たちを祝福するようであった――。








 余談だが、その翌日の小学校では、アリアの義理チョコ――颯真に、“義理”チョコの存在を教わった――を貰って小躍りして喜び奈々子に怒られる律人の姿が、見られたという。

バレンタインに投稿することを予定して書き始めたのですが……ふと気がついたら、ホワイトディになっていました。丁度一ヶ月もの遅れ、申し訳ありません!


読まれた方々が元気になっていただければと、容量も少し増やしてみました。

お楽しみいただければ幸いです。


それでは、長くなってしまいましたが、ここまでお読み下さりありがとうございました。

作品に対するご意見やご感想のほど、お待ちしております。

また、他の作品や違う場所でお会いすることができましたら、どうぞよろしくお願いします。


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