56.水の都フィルマール2/クラリス
やっぱりというと変だけど、ルートリアは眉間に皺を寄せていた。喜ばないとは思っていたが、彼女の様子はむしろ怒っているようにも見える。面白くないと言わんばかりに黙っている。見ているのは自分自身の名前ではなく、その上に連なっている親兄弟らしき人たちの名前だった。
「逃げられたのかな」
おそらくこの都市は魔物の侵攻で滅んでいる。この状態でまず心配する相手がズレているなとは感じたが、これがルートリアなりの心の守り方だ。もう慣れた。ただ、そのひとりごとには希望的な答えを返すこともできない。
「あー、ただな。年号が合ってないんだよ」
正しくは、知らない年号なのだ。そもそも僕はもう二百五十年ほど生きているが、こんな都市は知らないし、話を聞いたこともない。名前にみんなフィルマールとついているから、おそらくこの国の名前はフィルマールなのだろう。どれほど閉鎖的な国でも噂すらないなんて難しい。魔法で旅人を遠ざけているエルフの里ですら噂はあるものだ。小さな村や里ならともかく、この規模の都市が滅んで噂が立たないはずがない。
「ルートリアはまだ子どもだろ? お前の年齢とこの都市が滅びた頃合いにどうも違和感がある」
「クラリスって私のこと子どもだと思ってたの」
ぐったりしたルートリアの隣でリリムが音を立てずに笑う。人間のだいたいの寿命の半分のもう半分。だから人間のなかでも幼い方だと思っていたんだけど……。すぐ脱線しようとするルートリアにヤークがひとつ咳払いをした。
「フィルマールという国だって知らないしな」
「フィルマール……」
ルートリアが手に持っていた手帳をパラパラとめくる。なんだそれと聞くと子ども部屋に置いてあった乳母の日記だと答えた。確かに、この都市がなぜこうなったかを知るなら書庫にあるまとめられた物より、そっちのほうに答えが書いてありそうだ。
ルートリアを挟んでリリムの反対側にヤークが陣取る。三人して同じページを見ている。リリムは読めないだろうに。しかし、ヤークが乳母の日記をルートリアから受け取り、読み聞かせるかのように読み上げてくれた。
事が起きる前、魔物の侵攻は日に日に強まっていた。近隣の村は滅び、フィルマールが滅びるのも時間の問題だった。魔王の魔力を抑え込めるほどの王族は育っていない。今世代の王族で一番魔力の器が大きいとされる王女は、魔王の前に立たせるにはまだ幼い。
「これがルートリアか?」
「黙って聞いてろよスナッチ」
魔王、いや、偉大なる祖国アルヴァリアの我が王の魔力は溢れ、王族といえど並の器では次の周期に間に合わない。王の血を引く子孫が全て絶える前に遠くへ逃さねば。彼らの手を借り、この国ごと魔物を海に葬るのだ。王の血が絶えれば、世界は魔物で溢れかえるだろう。
(次の周期……? 何の周期だ?)
滅びに向かう日記を、つらつらとただ読み上げるヤークの声。リリムは文字ではなく、ルートリアを目で追っている。僕も目をやったが、その顔はいつもと変わらなかった。何を考えているのかわからないが、ショックを受けているでも怒っているでもない。ヤークの声を聞きながら、まっすぐに日記を見つめている。
幾年にも渡って何人もの子孫に王の魔力を吸収させたが、自我を失った我が王はいまだ城の玉座の間に顕在している。よもや魔力そのものとなった魔の王は、正気を保っているうちに己で張った結界に縛られている。
王の子孫は役目を全うしその命を捧げ続けた。魔物たちと同じく闇の属性を持った子孫たちは王と会うだけでその身体は魔力を受け入れるようになっている。それを理解して、それでも何世代にも渡って彼らは命を捧げ続けた。しかしそれは報われてはいない。それどころか国が滅び子孫が絶えれば今までの失われた命も無駄となる。
王の末娘である幼き王女、まだ分別もついていないこの子は共に逃げたとて旅路に耐えられないだろう。私たちも彼女を庇いながら国を沈めるほどの魔法の発動は叶わない。せめてこの国とともに——。
「ここで日記は終わっている」
そこまで無感情で読み上げていたヤークが音を立てて日記を閉じた。普段なら「じゃあつまり」「もしかして」と誰かしら声をあげるものだけれど、全員が黙っている。
「じゃあ、なんだ」
最初に声を出したのはスナッチだった。
「魔王に会うだけで、ルートリアは死ぬのか?」
その顔は青白い。声は初めて聞くほど暗く、静かだった。誰も何も答えない。日記に書かれている通りなら、そう、なるのか。魔王に会った勇者は帰ってこない。そんな話はずっと知っていた。ただ噂は噂だという考えもあったし、魔王と戦って打ち負けただけだと思っていた。
「勇者の旅は、強くなるため……経験を積むためとも言っていたが、その中身は魔王に打ち勝つことを目標にしているようには見えないという違和感はあった」
そう呟くヤークは、ルートリアもスナッチも見ていない。他の勇者は知っているのだろうか。
いや、ルートリアは知っていたのか?
衝撃を受けている様子はなく、やっぱり彼女の顔色は変わっていない。それどころか他に気にかかることがあると言わんばかりに石板を眺めている。死ぬつもりはないといつも言っていたのに、違ったのか?
僕が口を開くより早く、スナッチが立ち上がった。
「そうじゃなくてさ、……いや、俺は、悪い、ちょっと……しばらく一人にしてくれ」
スナッチはそう言うと、顔を青くさせたまま書庫を出て行った。ふらついてはいないけれど、大丈夫だろうか。
「追いかけなくていいのか?」
そう声をかけて初めてルートリアが僕を、人の顔を見てくれた。少し困っているのか、眉尻が下がっている。
「あー……たぶん、私じゃダメそう」
そうなのか。スナッチは、魔王に会えばルートリアが確実に死ぬという情報に狼狽えていたようだった。なら、慰めるのもルートリアがいいのかと思ったが……。リリムは困ったように僕を見ているけれど、ルートリアから離れる気は無さそうだ。ヤークに至っては、話は終わったと言わんばかりに日記を読み直している。
じゃあ、僕しかいないじゃないか。渋々書庫を出るために扉へ向かうと、ルートリアが僕の肩にトンと触れた。感謝の仕方が動物だな、まったく。王女だなんて様子はなく、彼女はいつも通りだった。心配する必要はないのだろう。
書庫を出て、城からも出た。相変わらず空は見えず、ゆらゆらと海面が見える。息ができるのに、水の中にいるような錯覚を感じてたまに呼吸が止まりそうになる。これを綺麗だと言ったリリムを思い出して、やっぱりエルフとは相容れないなと思ったりした。
あまり離れすぎてもよくないと思ったのか、スナッチは広間の噴水の横で、抉られたような床の傷を眺めていた。僕より数倍大きな身体はいつもより小さく見えた。そういえば、こいつもルートリアと同じで人間のだいたいの寿命の半分のもう半分ぐらいの年齢だったなと思い出した。
僕の足音を聞いて、いつもは豪快に開けて笑っている口を尖らせた。
「一人にしてくれって言っただろ」
「お前みたいなタイプは一人にすると碌なことがない」
「へっ、神官様はなんでも経験ありってか」
「お前の十倍以上は年上なんだから、神官は関係ないだろ」
僕が旅に出ている間に、セレド教の人間はほとんど代替わりしていた。あの都市でずっと過ごしていた妹のセルソラは、何人の親しい人間を見送ったんだろうか。僕が巡業で看取ってきた人間は、知らない人やちょっと喋った程度の人ばかりだった。
旅についていきたいと、置いていかないでくれと願うほどの仲間ができたのは初めてだ。みんなとの旅が終わっても、一人になっても、僕はこの旅の思い出を抱えて旅を続けるんだろうな。旅をせずにフォートレスに帰ったとしても、度々思い出しそうだ。そう思うと、みんなの墓を作りたいなんて重たいことを言うリリムと、本当は大差ないのかもしれない。
「長く生きていると……人の死ってのが受け入れちまえるもんかよ」
誰もショックを受けている様子がないことに苛立っているんだろう。まあ、僕も当事者であるルートリアが動じていないことには腹を立てている。
「受け入れてるわけないだろ。ただ……」
「ただ?」
「ルートリアは、最初からそうだったろ」
勇者は元々、魔王に会って生きて帰った者はいない。僕やリリムはルートリアに出会った時から、勇者になると、そのための旅だと言われて同行している。この子は最後には死んでしまうと思いながら付き添ってきたわけではないが、目の前で元気に過ごしている様子を見ているとそんな意識は忘れてしまうことだった。それを改めて根拠を持って知らされてしまえば心に衝撃を受けるのもしょうがない。
「本音を言えば、魔王のところになんか行かなくても、勇者になんかならなくてもいいんじゃないかって思うけど、たぶんそれを言うとルートリアは僕たちを置いていくだろうな」
「……俺には、それを言える権利すらない」
隣に並んでそうなのかと聞けば、スナッチは僕から目を逸らした。泣いていないのに泣いているような顔をしている。
「俺がルートリアを、勇者にした」
くしゃり、くしゃりと短い前髪を掻き潰している。
「勇者を目指してみるか、なんてバカな提案をしたのは俺だ。せめてあいつがやりたいことをやれるようにって兄貴面して手伝って、それであいつが本当に死んでしまったら……」
何があっても守る、という言葉にスナッチ自身は含まれていなかったんだろう。勇者がどう足掻いても戦いの果てに死ぬのであれば、ルートリアのことを身を張って守りに行くつもりだったのかもしれない。嫌な言い方をすれば、スナッチが本当に考えていなかったのは、ルートリアが死ぬことじゃない。自分より先にルートリアが死ぬはずないと思っていたんだ。
「なあ、俺は、逃がされて死ななくてもよくなったあいつを、元に戻しちまったのかな」
僕に聞くなよ、と言いたいが弱りきった目の前の男にトドメを刺す趣味はない。元より、僕の意見なんて聞いていないんだろう。その目は地面でもなく自身の手を見つめていた。
言葉をかけても無駄だろう。でも一人にするのは良くない。ただ傍にいて自然に立ち直るのを待てるほどの時間の余裕もない。一晩や一日で立ち直るほどの軽さでもない。弱ったな、と頭を掻いていると後ろからもう一人近寄ってくる足音が聞こえた。
「あー、その、話しているところ悪いが、クラリスを借りてもよいだろうか?」
ヤーク、お前ってやつは……。空気を読まないヤークを呆れた目で見ると、さすがに気まずそうにしていた。落ち込んだスナッチよりも優先させたい何かがあるんだろうな、と思ったがタイミングが悪すぎる。
「好きにしろよ」
「う、うむ、悪いな」
普段元気なやつが機嫌悪いと怖いよな。さすがに怯えるヤークをスナッチが睨みつけた。
「ヤークはこんな時でも魔法優先かよ」
「まあそれもあるが……」
「スナッチ、ヤークに当たろうとするなよ」
このままでは言ってはいけないことまで言いそうだったスナッチを止めると、ヤークは珍しく困った顔をして頬をかいた。
「ルートリアの血族にある魔力吸収について調べたいんだが、どうしてもクラリスの知見が欲しくてな」
「今必要なことか?」
「今こそ必要だろう?」
棘を持って話すスナッチに、ヤークは何を言っているんだと言わんばかりに片眉をあげた。
「勇者やルートリアが死んでしまう理由がわかったんだから、死なせない方法もわかるかもしれないじゃないか」
スナッチは目を丸くした。そういう考え方もあるのか、と僕も感心する。
「君たちがなるべくはやくここを出たいと思っているのはわかるが、私としてはルートリアが魔王城に到達するまでにここで調べられることは全て調べていきたい。原理がわかれば、ルートリアじゃなくて私が魔王を倒せる可能性だってある」
さっきまで気圧されていたヤークの目が輝きだした。あっこれは話が止まらなくなるやつだ。スナッチが怒り出す前に止めようとしたのに、その前にスナッチがヤークの肩を掴んで詰め寄った。
「あるのか!? ルートリアを死なせない方法が!」
「痛っ! だからそれを今から調べるんだって言ってるだろう!」
「そうか……そうか!」
スナッチは怒るどころか、嬉しそうにヤークの両肩を強く叩いた。ヤークは痛みに悲鳴をあげたが、スナッチは更にヤークの頭をぐちゃぐちゃに混ぜるように撫でた。
「そうだな、まだ方法はあるかもしれないもんな!」
「いだだだ、情報が頭から抜ける、やめろ! そもそも君たちは第二王子でもないのに勇者になろうとしていたんだから、なにかあったら条件を調べるのはまず第一だろうが!」
そう言われてみればそうか。そもそも勇者じゃないのに勇者になって魔王を倒すなんてあやふやな旅をしていたんだっけ。すっかり元気になったスナッチは、ヤークと肩を組み、僕の腕を引っ張って城の書庫に向かって歩き出した。
「文字は読めないが、俺にできることはないか!? なんだってするぜ!」
「本を取ってきたり元に戻したり、やれることはたくさんあるが、とりあえず離せ!」
「あーもー、元気になったら元気になったで鬱陶しいな! 引っ張るな!」
こんなに簡単に元気になるなんて、僕がスナッチに話を聞いた時間はなんだったんだ……。ただ、僕自身も日記でルートリアの運命を知ってしまった気になって、それ以上調べるということをしなかった。言われたらそういう物なのだと脳が受け入れてしまったんだ。スナッチに乱暴に褒められて痛そうにしているヤークを見ながら、長命種の年齢や経験なんてあてにならないなと笑った。




